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――懺悔に教会――
その白い教会の中には、沢山の、あらゆる人の記憶が保管されている。
何処にどのようにして保管されているか、また、何故そのような物が保管されているのか、その辺りの事は、知る人しか知らないし、だいたいそんな事を言い出したら、保管されているということは、誰かがいつか利用するためなのではないか、とか、何かのためなのではないか、とか、だったらそれは何のためなのだ、とか、どんどん気になり始めたりして、話が前に進まないので、詮索しない方がいい。
とりあえず今日、管理人は、その中にある記憶の一つを、作為的に、あるいは無作為に取り出した。
何故なのか、であるとか、取り出してどうするのか、とか、むしろ管理人って誰なのだ、とか、そう言う事は、やっぱり今は、詮索しない方がいい。
語られるべきは。
管理人によって取り出された、水野・まりもという少年の、あるいはその身体の中で、水野まりもとして生きる事を余儀なくされた布市玄十郎という男の、こんな話。
××足跡××
砂漠の上を歩いていた。
ぼろぼろの運動靴は、所々が破け、砂の上に足を踏み込む度、細かい砂が入り込んできて、靴の中を圧迫する。ほつれた紐が、時折、砂の中に取られ、何度も躓きそうになった。
それでも延々と、広大な砂漠の上を歩いて行く。周りには、砂の黄色以外、何も見当たらない。
息が上がる。ぱりぱりに干からびた唇に、乾いた舌が張り付き、熱っぽい息が出入りしていく。
今すぐにでも、蹲りたい欲求に何度も駆られる。足を止め、この場で寝そべってしまえれば、と激しく、思う。けれど、それでは決して楽にはなれない事を、誰より自分が一番良く分かっていて、楽になりたいからこそ、歩くしかないのだと、自らを奮い立たせる。
風が、吹いた。
砂煙が、舞い上がった。
ストールで顔を覆い、身を縮ませ、辛うじて、足を動かす。
そこにまだ踏み込む場所があることを確かめるように、しっかりと砂を踏む。
それでも微かな隙間からも浸食してくる砂の粒の不愉快さに、彼の表情は歪む。瞼を細めながら、更に被害を押さえたい一心で、吹き付けてくる風と同じ方向へと振り返る。
広大な黄色の上に、薄っすらと、小さな黒い影が、ぽつぽつ連なっているのが、見えた。
あれは何なのだろう、とぼんやりと考える。
あの小さな影の連なりは何なのだろうと。
暫くして、彼は、それが自らのつけた足跡なのだと、気付く。
そうかあれは、私が歩いてきた足跡だ。私が、私の物ではない身体でつけた足跡だ、と。
すると次の瞬間、彼の頭の中にはこんな疑問が、不意に浮かぶ。
ではそれは、一体、誰の足跡なのか。と。
風が止む。
辺りは、心細くなるほどの静寂に、包まれる。
彼は、振り返る。前を、向く。
ざく、と自らの足が、砂を踏み込む音がする。
体中が焦げるように、熱い。乾いた唇に、舌が、張り付く。
引き摺るようにして踏み出した靴に砂が絡まり、酷く、重かった。
ではそれは、一体、誰の足跡なのか。
彼は、次の瞬間、砂に足を取られ、ついに、躓く。
砂の上に、膝から崩れ落ちるようにして、倒れ込む。
軽やかな電子音のメロディに、目を開けた。
ぼんやりとした視界の中に、きらきらとした電飾の灯りが、見えた。
これは一体どうしたことか、と、彼は頭を起こし、改めて、辺りを見回す。
目の前で、遊園地で良く見かけるような回転木馬が、ゆったりとした速度で回っていた。
きらきらと、夜の闇の中で、明滅する電飾が、眩しい程に輝いている。横を向いた。同じように、電飾を光らせながら、何らかのアトラクションらしいマシンが、じっと佇んでいる。隣には、無人のフードコートがあり、明るい色の風船達が、幾つも束ねられ、揺れていた。
何処かのスピーカーから流れる、電子音のメロディに、また意識が向く。
楽しげな曲調ではあったけれど、調子が所々で外れてしまっていて、それが妙に、こちらの不安な気持ちを刺激した。
ふと、視界に何かの影が過ったような気がして、顔を上げた。
回転木馬の前に、ピエロの格好をした少年がポツン、と、佇んでいる。
その顔をじっと凝視して、彼は、驚く。
水野まりもだ。
私が今、その身体を乗っ取ってしまっているはずの、水野まりもだ。
だとしたら、今それを考えている「私」は、誰だ。
私は。
そうだ、私は、布市玄十郎だ。伝説の天才俳優と謳われた時代もあったけれど、酒と賭け事がガンで身を持ち崩してしまい、本来ならこの世から、消えてなくなってしまうはずの存在だ。
けれど、水野まりもが、14歳という若さで事故に遭い、生死に関わる重傷を負ってしまったお陰で、私の魂はこの世に繋がれたままになってしまった。
だからこそ「私」はここに居る。
けれど私の身体はここにない。
そして今、いつも鏡で見ている「水野まりも」が、目の前に佇んでいる。
全く感情の読みとれない、ぼんやりとした表情でこちらをじっと見つめている。
自らと対峙しているのか、あるいは、彼と対峙しているのか。それは不思議な感覚だった。
「君は……」
布市が何かを話しかけようとしたその瞬間、まりもはすい、と視線を逸らし、軽やかな足取りで走り出してしまった。
酷く不安な気分が、込み上げてくる。
何か、酷く大事な、自らの確固たる核のような物を失ってしまうような、そんな恐怖にも似た不安が込み上げ、慌てて追いかける。
回転木馬の前までかけて行き、その裏へと走り込んだ彼を追い、電飾からどんどんと離れ、暗闇の中へ、中へと駆けていく。
気付けば、また景色は、一変していた。
他愛もない街角で、水野まりもの姿を見つけた。
焼き立てパンを売る店の軒先で、学生服を身に付けた少年は、今しがた店から出て来た同じ学校の生徒と思しき少女を、見つめる。
小柄な彼より、更にほんの少しだけ華奢な、短い髪の彼女を、眩しそうに瞼を細めて見つめ、けれど気付かれ、すぐに恥ずかしそうに、目を伏せた。
言葉に出来ない想いであるとか、身体がそろそろ求め始める欲求であるとか、そうした外に出せない悶々を抱えている少年特有の、少し物憂げな表情を浮かべるまりもに対し、快濶そうな彼女は、店のロゴの入った紙袋から、パンを一個取り出して、はい、と豪快に突き出した。
「水野くん。これ、あげるよ」
戸惑ったように暫くその丸いパンを眺めていたまりもは、ありがと。と、微かな声で、言った。
そして、そんな自分を、恥入るように、ちょっと、笑う。
彼女もまた、恥ずかしそうに、微笑んで、二人は伏し目がちに、視線を交わす。
「じゃあこれはあたしが預かっておいてあげるよ」
「え?」
「どっかで一緒に、食べよう」
「そうだね、……」
最後の方にぼしょぼしょ、と呟いたのは、彼女の名前だったらしい。
「じゃあ、行こうか」
今口走っちゃった言葉は、なかった事にします! みたいな勢いで、まりもは、歩き出した。
彼女も続いて歩道を歩き出す。
最初は、人一人分の距離を開けて並んでいた二人だったけれど、次第にその距離は縮まっていく。
人、一人分あった距離が、何時の間にか、肩がぶつかり合うくらいに近づき、とん、と幾度目かにぶつかった瞬間、その両手の指がさ、っと絡み合った。
背中越しに見える二人は、俯いている。
暫くして彼女が、どん、と手を繋いだまま、まりもの肩を肩で押した。
じゃれあうようにして歩いていく二人の背中が、どんどんと小さくなっていく。
どんどん、どんどん、小さくなっていく。
そうして気がつけば、それが、どういうわけか、水槽の中でひらひらと泳ぐ金魚になっていた。
布市は、暗いバーの片隅に置かれた水槽の中を泳ぐ、美しい朱色の金魚を眺めている。
「お待たせ致しました」
と、男の声に振り返った。
カウンターに、透き通るグリーンの液体の入った、カクテルグラスが、置かれた。
「ふうん、そういうの、飲むんだ」
女性の声に振り返ると、見覚えのある女優が座っていた。
むしろ見覚えがあるどころか、幾度となく夜を共にし、愛を確かめ合った女だった。
いつも布市を「玄ちゃん」と、明るい声で呼び、どちらかと言えば、だらしのない生活を続ける男に呆れながらも、付き合ってくれる、そんな気風の良さを持った彼女に、幾度、救われたか分からない。
彼女の名前を呼ぼうとした。
口元までまさに出かかったその時「まりもくんも、大人だねえ」と、彼女が言った。
ハッと我に返った瞬間、布市はまた、砂漠の上を歩いていた。
足が重く、身体が重く、前に進む事すら、ままならない。
それでも唯一の救いは、歩き続けて、何処かにはあるのかも知れない水を、いつかは見つけられるかも知れないと信じる事くらいで、だから彼は歩き続けなければならない。
突風が吹いた。
ぐっと、歯を食いしばり、ストールで顔を覆う。
風に習うようにして振り向いた。
そこにあったはずの足跡が、消えていた。
××
「ねえ、おーい。大丈夫? もしもーし」
どんどん、と肩を叩かれる感触に薄目を開けると、知り合いである草間武彦の、ぼんやりとした顔が、あった。
「ああ」
とまりもは、呻き声に似た声を漏らす。「眠ってたみたい」
そしてもう一度しっかりと目を見開き、そこが、楽屋であることを、認識する。
「知ってる。何かうなされてたみたいだけど」
まーもー目ぇ覚ましたんなら関係ありませーん、みたいに、草間が、ソファに戻り、雑誌を広げながら、言う。
「夢を見てたからかな」
顔をこすり、ふと、隣にあった鏡を見た。
水野まりもが映っている。
「嫌な夢を見てたからでしょ」
草間がすかさず指摘してくる。
「まあ、そうなのかな」
「どんな夢なの」
「嫌な夢だって言ってるのにわざわざ聞いてくるのは、おかしくないか」
「人の嫌がることするの、わりと好きだし」
「知ってたけど、改めて言う。悪趣味だ」
言ってやると、「知ってる」と草間は、楽しそうに笑った。
「それに、余り、はっきり覚えてない」
と、そう言ってる尻から、どんどんと夢の輪郭はぼやけていく。
「まあ、夢だしね」
良くある事だよね、と言わんばかりの口調で草間が言った。
「知らない女性が出てたのは、覚えてるな。若い子だ。まりもと、同年代くらいの」
「ふうん。撮影で会って、覚えてないだけなんじゃないの」
「その可能性は、ある」
でも、そうではない可能性もある、と心の中でひっそりと呟き、少しだけ、ぞっとした。
もしかしたらそれは、まりもの脳からこぼれ出た、叫びにも似た、彼の記憶の残骸だったかも知れない。
私の知らない。けれど、この「身体」だけが知っている、記憶。
「ボケ始めてきたんじゃないの、大丈夫」
「いいことを教えてやろう」
「なに」
「魂は恐らく老化しないし、ボケもしない。成熟するだけだ」
とっておきの台詞を言った気分で口にしたら、ちょっとその場がシンとして、ぱら、とか雑誌のページをめくった草間に「あーそう」とか何か、気付けばすっかり流されている。
「酷いじゃないか」
「別にいいことでもなかったけど、まあ、うん、ありがとう」
「酷いじゃないか」
「それにしても嫌な夢を見てうなされた水野まりもは可愛かったなあ」
「イタズラはやめてくれよ」
「借りものなのに?」
「借りものだから、だろ」
「そういうもんなんだ?」
「他の人はどうかは、知らない」
素っ気なく言うと、草間が、ぷっと笑った。「それ、ウケるね」
「改めて口にすると、本当に奇妙だよな」
「誰に言っても、大抵信じて貰えないだろうね」
「私は彼を演じている」
「まりも本来の魂が本当に戻って来た時に違和感なく、また、日常を再開出来るよう、バトンを繋ぐためなんでしょ」
「でも本当にそんな事が成し遂げられるのか、最近、不安になるよ」
「借りものだからね」
「借りものだけど、私の意識は確かにあるからだ」
「なるほど。借りものだから、借りものだけど、か」
歌うように草間が、口ずさむ。「面白いね」
「面白くは、ないよ」
この身体は彼のものであって、私のものではないのだから。
それなのに、そう考えている私は私であって、彼ではないのだから。
「本当に、早く、戻って来てくれればいい」
「何処を彷徨っちゃってんだろうね、まりもちゃんはさー」
この身体では誰かを愛することもままならず。
この身体の持ち主は、誰かを愛することも、ままならず。
「本当に、何処に居るんだろうな、まりもは」
だから。早く戻っておいで。水野まりも。
誰かにこの突飛な秘密がばれてしまったらどうしよう、という焦燥よりも、もっと切実な切なさで、今日はそう、思う。
けれど。
「でも、ま。とりあえずはまだ、君がその身体を預かってるんだしね」
草間が、軽い口調で話にケリをつけるように、言う。
「そういうことだな」
布市は、溜息をついて顔を擦ると、またいつものように、「水野まりも」を演じる事に集中することにした。
END
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 4691/ 水野(仮)・まりも (みずの?・まりも) / 男性 / 15歳 / 職業:MASAP所属アイドル】
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