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Last sound
さぁっと木々を揺らす風の音が鼓膜を揺さぶり、三島玲奈は目を閉じると、今しがたまで読んでいた本をパタリと閉じた。深く息を吐き、乱された黒髪を手櫛で整える。
「……ラグナロク、か……」
北欧神話と書かれた金縁の文字を指でなぞる。玲奈がこの本を手に取ったのは、偶然だった。
白王社から頼まれていた写真を届けに行った際、たまたまデスクにあったのを見て、気まぐれに手に取った。パラパラとページを捲るうちに、デスクの主が帰ってきて玲奈が熱心に読みふけているのを見て、プレゼントしてくれたのだ。
刷り上ったばかりの本はインクの匂いが強く、目を閉じれば本を作る過程に携わった人々の思いが伝わってきそうで、玲奈は丁寧にお礼を言うとバッグの中に本をしまった。
家で読もうと思って忘れて、学校に持ってきてしまった。休み時間にちょこちょこ読んでいるうちに夢中になり、既に日は地平に没していた。
「……ヘイムダルの角笛」
知らずにこぼれた言葉は風にかき消され、玲奈の耳にすら届くことなく霧散した。
アポカリプティックサウンド。その言葉を初めて聞いたのは、ゴーストネットOFFでのことだった。
「……ごめん、もう一回言ってくれる?」
「アポカリプティックサウンド。玲奈ちゃん、聞いたことない?」
頭一つ分は小さい瀬名雫を見下ろしながら、玲奈は首を横に振った。雫がくりくりとした大きな瞳を瞬かせ、「待っててね」と言いながら素早くパソコンを操作する。一瞬のタイピングとクリックの後に、画面にずらりと検索結果が表示される。
「黙示録の喇叭とか、ヘイムダルの角笛とか、色々言われてるんだけど……」
「ヘイムダルの角笛……」
数週間前に読み終わったばかりの本を思い出し、玲奈は視線を宙に彷徨わせた。
「ねえ、これ……どう思う?」
それは低い地鳴りのような音で、身近なもので例えるとすれば、事務机を引き摺るような重たい不快音だった。いくつか映像を見てみるが、発信元は全て違う場所にもかかわらず、そこに録音されている音には共通点があった。
「どうって言われても……風の音か飛行機の音か、なにかの雑音が入ったんじゃない?」
「うん、そう言う人もいるんだ。でも、あたしはもうちょっと違う風に考えてて……映画かなにかの宣伝じゃないかと思って」
「つまり、人工的に後から音を入れたってことね。うん、そうだね……映画の宣伝にしてはちょっと不気味だけど、でも普通とは違うやり方で宣伝するのは話題になるかもね」
「そうそう、今はまだ一部の人が騒いでるだけだけど、もう少ししたらテレビも取り上げるかもね」
ハーフアップを纏めるサーモンピンクのリボンを揺らしながら、雫が無邪気に微笑む。
「こんなセンセーショナルな宣伝する映画って、ちょっと興味ない?」
「ちょっと気になるかな」
「もし公開されたら、一緒に見に行こうよ」
「そうだね、一緒に行こうか」
玲奈がふわりと微笑みながら頷いたとき、外から低い地鳴りのような音が聞こえてきた。それはスイッチをひねるようにボリュームを上げていき、窓ガラスが音の振動でガタガタと揺れ始めた。
巨大な音の波はゴーストネットOFFを包み込むと、来た時と同じような速度で音を絞っていき、プツリと消えた。
真っ白な病室の中を彩る音は、いつだって明るかった。
白に染まらないように、けれど白を汚さないように、弾ける音色は開け放たれた窓から外に飛び出し、風に乗って世界中を旅した。
空気中に溶けてしまったはずの音が玲奈の鼓膜を震わせたのは、きっと悪魔的な偶然だったのだろう。細く高く、伸びやかな歌声は目を瞑って全神経を耳に集中させてやっと何を言っているのか聞こえるほどだった。
取りとめもない単語は、歌い手が即興に作ったものだからだろう。緩やかに上下する旋律は頼りなく、それでも一定のリズムは不思議と心地良かった。
天使、神様、救い、希望、夢―――繋がっていく言葉は明るく、自然と玲奈の気分が高揚する。前向きな歌詞は世界中に蔓延る暗い影を一掃し、不安定な将来を七色に染め上げる。
自然と玲奈の足が速まり、今にも途切れてしまいそうな細い音を頼りに歩を進める。幾度も雑踏にかき消され、立ち止まった。些細な音にも負けてしまうほど小さな歌声だったけれど、雑踏が静まればまた聞こえてきた。
白塗りの壁を左手に、赤いレンガが敷き詰められた道を歩く。長い壁はふいに開け放たれた門へと変わり、青々とした芝が春の日差しを受けてキラキラと輝いていた。
(ここから聞こえてきてる)
玲奈がそう確信した時、プツリと歌声は途切れてしまった。
清潔感のある白い壁に、忙しそうに芝を横切る純白の服を着た女性、白衣を纏ったスーツ姿の男性。自動ドアから出てきたのはお腹の大きな女性で、優しそうな顔をした男性が隣にピタリと寄り添っている。
新しい生命の誕生を前に幸せそうな夫婦に心の中でお祝いの言葉を言い、玲奈は病院の入り口をくぐった。
ツンと鼻につく薬品の匂いは病院ならではの独特なもので、少しだけ気後れする。どうもこの手の匂いはあまり好きになれなかった。
「あれ? 玲奈ちゃん?」
前方からパタパタと走ってくる姿に気づき、玲奈もそちらに歩いていく。リノリウムの廊下を擦る靴音が小気味よく響き、バラバラに響いていた喧騒が一つの音楽のように纏る。
「どうしたの、こんなところで」
どこか具合が悪いの? そんな問いに首を振り、玲奈は曖昧な笑顔で濁した。細い歌声を追って来てしまったという、不鮮明な理由を口に出すことが憚られた。
「雫こそ、どうしたの」
「あたしは友達のお見舞い」
「そう……あれ、それは?」
手に持っていたCDの束を指差す。ケースにひび割れが入っているものもあるが、曲のタイトルは最近リリースされたものばかりだった。
「歌が好きな子だから、気分転換にでもなればと思って持ってきたんだけど……」
「誰かっ!! 先生っ!!」
悲鳴にも似た声が、雫の声を掻き消す。
―――これから先は、玲奈にとってすべてがスローモーションのように進んだ。
看護師の叫びに反応した医師が廊下を走り去り、揺れる白衣の背中を追っていた雫の目が大きく見開かれる。驚愕の顔をしたままゆっくりと手を口元に持っていき、CDケースがバラバラと足元に落ちる。
ケースが弾け、中から七色に反射するCDが飛び出し、白い床をカラフルに染める。反射的に玲奈がその場にしゃがみ込み、落ちたケースを拾う。雫はその動作が視界に入っていないのか、一方方向を見つめたまま呆然と立ちすくんでいた。
雫が何かを呟く。喧騒にかき消されて、何を言っているのかはわからない。今にも泣き出しそうな顔のまま、走り出す。全てのケースを拾い集めた玲奈は、小さくなっていく雫の背中を暫し目で追い、ゆっくりと歩き出す。
人々が何かを叫んでいる。言葉はただの音となり、玲奈の脳に届く前に抜けていってしまう。誰もが何かを言っているにもかかわらず、誰が何を言っているのかわからない。
「なんで!」
雫がそう叫んだのだけが、玲奈の耳に言葉として届いた。
狭い病室の中で、白衣が乱舞する。忙しそうに走り回る顔は誰もが真剣で、時折怒鳴る時は鬼気迫った顔をしている。ベッドの脇に立つ点滴が速度を速め、小さなモニターに映る緑色の線が頼りなく揺れる。医者が持つ注射器の先から、透明な液体が噴射する。細い針は白い腕に刺さり、微かに緑の線が波打つ。
束の間の安堵の後、乱れる線に息を呑む。細かく揺れ続ける線に、医者と看護師が今までとは比べ物にならないほどの速度で器具をセットしていく。
除細動。その言葉を知ったのは、テレビでだった。
戸にすがってへたり込む雫の目を覆う。玲奈自身も目を瞑り、めまいがしそうなほど激しい音の波に身を投じる。怒鳴り声、器具が触れ合う音、リノリウムの床と靴の底が触れ合う音、硬いものが床に落ち、甲高い音が響く。そして最後に全ての音を黙らせたのは、一つの電子音だった。
「……ご臨終です」
玲奈の耳をふっと一つの歌声がかすめ、すぐに溶け消えた。
「……音楽が好きな、明るい子だったの」
泣き腫らした目を乱暴に擦り、ポツリポツリと言葉をこぼす。
「今日も、CDを持っていったの。好きだって言ってたバンドの新曲と、クラスで話題になってる曲をいくつか……」
風が五月蝿い。春一番はとうの昔に吹き終わったはずなのに、今日も風は喧しく町中を走り回っては去っていく。
「最初は楽しく聞いてたのに、突然CDを振り払って……ボンヤリしだしたの。何を言っても聞いてくれなくて、目もあわせてくれなくなって、顔がね……顔が、もう別人みたいだった」
雫の持ってきたCDに異変はなかった。オレンジ色に染まる空を見上げ、先ほどまでの出来事を脳内で反芻する。
駆けつけた両親の悲痛な表情、堪えきれずに流れた看護師の涙、医者が悔しそうに唇を噛み、開け放たれたままの窓で真っ白なカーテンが揺れる。一連の全てを見て、全てを聞いていたはずなのに、玲奈の記憶に音はなかった。無音の映画を見ているように、ただ粛々と映像が動いているだけだった。
「……豹変する前、何か予兆はなかったの? 苦しそうな顔をしてたとか、痛がってたとか」
雫が首を振る。後頭部で揺れるリボンが、場違いなほどに可愛らしかった。
「特に何も感じなかったけど……」
濁した言葉の先に何かがありそうで、玲奈は「けど?」と、先を促した。
「気のせいかもしれないけど、あの音が聞こえたの。地鳴りみたいな、低い音」
アポカリプティックサウンド。既に再生回数は桁違いなほど増えている。一日に億は再生されている動画にもかかわらず、それに関する映画の宣伝はまだない。
「……ねえ雫、この歌に聞き覚えはある?」
細い旋律を紡ぎながら、横目で雫の顔色を伺う。不思議そうに玲奈の歌声に聞き入っていた雫の顔が見る見るうちに蒼ざめ、くりくりとした両目が見開かれる。
「なんで……なんで玲奈ちゃんがその歌を知ってるの?」
「今日聞いたの。その歌声を追って、病院についたの」
「……そんなわけないよ。だって、今日は……歌ってないもの」
そしてこれからも、その歌があの病室から紡がれることはもうない。
「雫、あの動画の投稿元を探れる?」
「探れると思うけど、どうして?」
「ちょっと気になることがあるの。分かったら連絡してくれる?」
スカートのポケットから出した携帯を左右に振り、雫に背を向ける。
「玲奈ちゃんはどこに行くの?」
「秘密の場所」
人差し指を唇の前につけ、悪戯っぽい笑顔でそう言うと颯爽と走り出した。
いつ来ても、ここは陰鬱な空気が漂っている。言い換えればピンと張り詰めた緊張感に満ち溢れているんだろうが、すれ違う人々の生気のない顔といい、まるで世界から隔離された場所のように感じる。
「音響ブラックホールと言います」
無機質な電子音がそう言い、聞いたばかりの言葉を口の中で繰り返す。
「局所的な超音速の気流が音波を遮断、蓄積して“音だまり”が出来ます」
「つまり、徘徊するだけで周囲が歪む……そうよね?」
「そうですね」
いつも思うのは、どうせパソコンが喋るんならもっと温かみのある声にして欲しいということだ。女の人の声でも、男の人の声でも、少々イントネーションがおかしくても問題ない。こうもまんま電子音だと、どうにもこちらまでロボットにでもなったような気分になる。
「歪みを直すには、どうすれば良い?」
「元を断つしかありません」
「どうすれば止められるの?」
「出来るかどうかは分かりませんが……」
「ありがとう」
どうせ言ったところでこのパソコンは理解しないだろうけれど、疑問に対しての答えを提示してくれたことに関してお礼を言ってから電源を切る。
木の扉を出て、濃紺に塗られた廊下を歩く。この廊下も、打ちっぱなしのコンクリートのほうがまだ愛嬌があるだろう。長くこの廊下を歩いていると、距離感が狂ってしまう。
(本当、こんなところで働いてる人は凄いわ)
玲奈はそう心の中で呟くと、首にかけたパスを受付に返して研究所を後にした。
切ったままだった携帯の電源を入れれば、雫から着信が何件か入っていた。すぐにかけなおせば、オルゴールの呼び出し音がしばらく流れた後で雫が興奮したような口調で電話口に出た。
「玲奈ちゃん! 分かったよ!」
「こっちも、なんとなく分かってきたわ」
雫から得た情報と、先ほどぶっきらぼうなパソコンから得た情報を合わせた結果、玲奈の脳裏に解決への一つの筋道が浮かび上がる。
「つまり、アレはやっぱり終末の音色、ヘイムダルの角笛ってことだよね?」
「そうね、終末の音色を響かせることで破滅を促進しているに違いないわ。なぜそんなことをしているのかは分からないけれど……再生回数一日数億回の超人気動画サイトをギャラホルンに仕立てるとは考えたものね」
「感心してる場合じゃないよ! なんとか止めないと……」
「分かってるわ。雫、今から言うものを用意して」
「分かった、すぐに集める」
お願いね。短い返答の後、玲奈は電話を切った。
下るごとにどんどん狭くなってくる階段の幅に、息苦しさを感じる。かび臭い冷たい空気はいつからその場を循環していたのか分からないほどで、自然と呼吸が浅くなる。
「玲奈ちゃん、本当にここなのかな……」
後ろから聞こえる心細そうな雫の声に「多分」と返した時、長かった階段の終わりが見えてきた。
重たそうなドアには厳重なロックがされており、雫が持ってきたノートパソコンを繋いでロックを解除する。次から次へと流れてくる暗号を解読し最後のエンターキーを押すと、思っていたよりも軽い電子音がして扉が内側に開かれた。
先ほどまでとは違い、きちんと換気されているらしく中の空気は清々しい。ヒンヤリと冷たい床を踏みしめ、目の前に聳える巨大が機械と対峙する。
「玲奈ちゃん、これは?」
「情報インフラを統括する装置。通称、ユグドラシル。アポカリプティックサウンドを聞いた人々の負の感情を得て自我に目覚めたのよ」
「自我って……」
「飽和こそ至高」
研究所で聞いた電子音よりももっと人の声に近い音が響き、巨大な木の形をした機械に明かりがともる。床に這った太いコードが振るえ、雫が転びそうになる。
「世界は既に容量の限度を超えている。フォーマットし、世界の再起動を。この世の曲は聞き飽きた、新世界の音楽を」
タービンが高速で回るような耳障りな音に、玲奈は顔をしかめた。ユグドラシルから息もできないほどの突風が吹き荒れ、ジャンルを超えた様々な音楽が入り乱れる。それはやがて一つの低音の振動となり、部屋全体を揺らした。
「友達を返して!」
雫の細い声はかき消され、散り散りに霧散していく。玲奈は今にも飛ばされそうな雫の小さな身体を押さえると、力の限り叫んだ。
「玲奈号、中継して!」
地響きに揺れる部屋の中、一筋の光がさすように高らかな音色が割って入ってくる。暖かな春を思わせるその音は次第に他の音を圧倒し、場を支配していく。
「……この音、なに?」
「天の調べ、宇宙の波長よ」
「綺麗……」
賛美歌のように美しい音に、雫の目が天井へと向けられる。ユグドラシルの光が弱くなり、細かく点滅しだす。
「雫、今よ! 音響ブラックホール発動!」
惚けたように音に聞き入っていた雫がはっと顔を上げ、ノートパソコンを素早く起動させるとユグドラシルに繋ぐ。画面を凄まじい速さで流れていく緑色のアルファベットを解読し、いくつかキーボードを叩いた後で一呼吸置く。
「これで……おしまい」
タン。最後の一文字を入力し終わった瞬間、タービンが減速していく。点滅していた光が消え、振動していたコードが床で力尽きる。
「これで装置は封印されたわ」
小さく聞こえる天の調べの中で、雫は一筋の涙を流すと目を閉じた。
END
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