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<東京怪談ノベル(シングル)>


春を告げるもの



 今日はもう店じまいにするか。
 バイト先のひとつである喫茶店の店主が、窓の外を見ながらため息を落とす。つられて真言も視線を窓の外に向けた。
 朝から降り始めていた雪は、夕方を過ぎ、止むどころかその勢いを少しずつ強めている。今はもう吹雪いているといっても過言ではない。
 確かに、この吹雪では外を出歩く者の数自体が少ないだろう。普段からそこまで来客数が多いわけではない喫茶店では、今日はもう売り上げなどとても見込めはしないだろう。
 アパートまではバスを使わなければ少し距離がある。それを見越してか、店主は真言に「もう帰ってもいいよ」と言い、淹れたてのコーヒーの入ったカップを差し出してよこした。礼を言い、コーヒーを口に運ぶ。そうしながら外をうかがうが、雪は変わらず、一向に止む気配を見せていなかった。
 
 コートの襟にあごまで入れて、真言は思わず目を細めた。
 外に出てみれば、吹雪の勢いは予想よりもずっと強い。視界は真白で、人通りどころか車の往来もほとんどなかった。もっともこれほどの吹雪――数メートル先でさえ確認できないような勢いの中で車を走らせるのは、普段雪に不慣れな場所に住んでいる者たちにとっては事故を起こしに行くようなものだろう。
 雪が積もっている路面を踏みながらバス停に向かう。あたりまえのようにバスを待つ人の列が続いていた。時計を確認してから運行表と照らし合わせてみたが、どう考えても、おそらくまだ当分バスは来ないだろう。
 深い息をひとつ吐いた後、真言はバス停を過ぎて歩き出した。仮にバスに乗れたとしてもかなりの徐行運転になるのだろうし、ならば歩いたほうが早いかもしれない。
 街中は雪の猛威に右往左往していた。雪歩きに似つかわしくない靴や出で立ちの女性たちがそこかしこで滑り転げているし、数は少ないが走行している車はスリップしたりしている。これなら歩きで帰路についたほうが確実に早いだろう。
 電車も遅れているらしい。駅の中にも電車待ちで人影が多く寄り合っていた。それを横目に過ぎて、やがて真言はアパート近くの静かな狭い路地を通りかかる。
 吹雪はアパートに近くなるにつれて勢いを強めているような気がした。靴も靴下もコートももうすっかり濡れてしまった。はやく帰って温かいものでも飲もう、そう考えつつ視線を持ち上げた。
 ――そのとき、ふと、視界に、ひとりの女の姿が映りこんだ。
 そもそも、数メートル先でさえ検めるのにも難儀するような吹雪だ。時おりすれ違う相手に気付くのもそこそこ近い距離にまで近付いた後のことだ。それが、その女の姿は、一面の白の中にまるで浮き上がるようなかたちではっきりと目に映るのだ。コートや上着を羽織らず、冬場だというのにも関わらず春先に着るようなワンピースを身につけた、肩下ほどまでの長さの黒髪の、おそらくは真言とさほど年の違わない、二十代ほどだろう。線の細い、華奢な女だ。
 女が腕に赤ん坊を抱いているのまでありありと見える。
 なぜか女から目を離すことができないまま、真言は足もとを確かめるようにして歩みを進めた。
 女がヒトではないことは容易に知れる。おそらくは妖怪、あるいはそれに類するようなものだろう。ヒトの霊でもない。そして、女が害意をまるで持っていないであろうことも、何となく察することができた。
 女のすぐ前にまで足を進め、数歩の距離にまで近付いてから、真言は足を止めて首をかしげた。
 間近に見れば、文字通り、背筋が凍りつくような美女であることが知れる。透き通るような白い肌、吹雪の中でも乱れのない絹糸のような黒髪。いくぶんか色素の薄そうな、灰色がかった双眸。それがわずかにしばたいて、それから真言をまっすぐに見つめた。
「不躾なお願いだとは思うのですが」
 女の、紅い椿のような色のくちびるがゆっくりと動く。 
「理由を訊かず、この子を三日ほど、お預かりしていただけませんでしょうか」
 細い腕の中、赤ん坊は小さな寝息をたてていた。
 真言は赤ん坊の寝顔をしばし見つめてから再び視線を持ち上げ、女の顔を見つめて口を開ける。
「あんたの子か」
「はい」
「名前は」
「わたしの? それともこの子の?」
「どっちもだな」
「そうですね……」
 女はわずかに視線を落とし、しばし思案の顔を浮かべた後に、再び真言の顔を見据え応えた。
「わたしは、榧と。この子の名は」
 言って、榧と名乗る女は再び視線をわずか下に落とす。
「この子の名は、まだ……」
「決めていないのか?」
 訊ねた真言に、女は首を縦に振った。
「名を決めてもいない我が子を、理由も言わず、初めて顔を合わせた、どこの誰とも知らんやつに預けるのか?」
 そんなのは常識から外れる行為だ。暗にそう言い含めると、真言はもう一度女の顔を一瞥し、すらりと横をすり抜けようと試みた。が、
 吹雪が真言の行く手を阻むように、異常なほどに勢いを強める。歩くどころか、目を開けることすら困難を極めるほどだ。
「あの……」
 女がおずおずと声をかけてくる。真言は深い息を吐いて首を鳴らした。振り向き、女を見やる。不思議にも吹雪は嘘のように止んだ。
「あんた、雪女とか、そんなのか」
 訊ねてみたが、女は視線を落とし消え入るような声で何かを応えただけだ。試しにもう一度女のもとを離れようとしてみたが、やはり異様なまでに勢いをつけた吹雪が視界と行く手を阻む。
 ――雪女に関する逸話をいくつか思い出してみる。
 雪女が雪んこを抱いて現れ、道ゆくものに子を抱いてくれと頼む。子を抱いてやれば子はみるみる重くなり、人は雪に埋もれ凍えて死ぬのだという。これを断れば雪の谷に落とされ死ぬのだったか。どっちの選択をしても殺されるのは、さすがに理不尽すぎやしないか。
 考えながら、真言はまだ名のない子どもの顔を覗いた。女児だろうか。ぷっくりとした頬は丸く、すうすうとたてている寝息は穏やかだ。
「……”抱いてやってくれ”じゃなくて”預かってくれ”なのか?」
「はい」
 女は首肯する。真言は女を一瞥してから再び子どもの寝顔に目を戻し、肩で浅い息を落とした。
「……子どもの面倒は見たことがない。食い物や飲み物はどうすればいい?」
「雪を、その子の口にいれてやってください」
「雪?」
 訊ね、周囲を見た。雪など余るほどに積もっている。
「わかった」
 返し、真言は静かに両手を伸べた。女は嬉しそうに笑みを浮かべ、寝ている子どもを起こさないよう、ゆっくりと真言の腕に渡す。
 赤ん坊は急に重くなるわけでもなく、真言の腕に渡されてから一度小さく目を開けたが、小さなあくびをひとつ落としただけですぐにまた深い眠りについた。
「お願いします」
 ふかぶかとした礼を残し、女はふわりと笑みを浮かべた。
「必ず迎えに参ります」

 吹雪が花のように宙を舞う。刹那、思わず目を細めた真言が次に目を開けたとき、女の姿はもうどこにもなくなっていた。

 嫌がる雪女を無理矢理に湯に入れたら融けて消えてしまったという逸話もあったはずだ。冷たい体を囲炉裏にあてさせたら煙になってしまったという逸話もあったような気がする。
 ひとまず赤ん坊を部屋に連れて帰り、部屋の中の冷えた空気をどうにかしようとエアコンのボタンに指をかけて、ふと赤ん坊の顔に目を向けた。
 ――部屋を温かくしたら、この子は融けてしまったりしないんだろうか? 毛布をかけてやるぐらいはいいんだろうか? 考えて、真言はハッと息を飲む。
 オムツ替えも未経験だ。どうなんだ。どうすればいいんだ?
 わずかに目を見張りながら赤ん坊の寝顔を見つめた。
 赤ん坊は真言のベッドの上、真言の心配などおかまいなしに、バンザイのかっこうですうすうと寝息をたてていた。

 結局、部屋を温める程度であれば問題はなかったようだ。赤ん坊が寝ている間に急いでシャワーを済ませ冷えた体を温めて着替えまでを済ませたころ、赤ん坊は目を覚ましていた。
 雪女は、まだ名をつけていないと言っていた。とはいえ、呼ぶ名がないのも不便な話だ。ストレートすぎとは承知の上で雪んこと呼ぶことにしたのはいいが、雪んこは名前通りというかなんというか、なかなか手のかかる子供だった。
 なにしろ、少し泣くぐらいなら問題はまったくないが、火がついたように泣き出すと窓の外が猛吹雪になるのだ。それどころかエアコンの効きも悪くなる。部屋の中の気温が一気に低下するのだ。
 そのかわり、機嫌がいいときはちらちらと舞う雪を小さな両手で追うようにしながら笑い声をたてる。真言に人見知りすることもなく、買い出しに行けば先々でかわいい赤ちゃんだとチヤホヤされた。
 試しに雪を小さく丸めて雪んこの口もとに運んでやると、雪んこはおいしそうに口にふくんだ。まるで綿菓子を頬張っているようにも見える。
 実際、慣れてしまえばそれほど手がかかるわけでもない。二日目の夜が終わったころには、オムツ替えもすっかり手慣れたものになっていた。寝顔を見れば心も癒される。ふわふわとした髪を撫でてやるとき、真言は自分が知らずに頬をゆるめていたことに気がついた。

 三日目の夜を迎え、雪んこを膝に抱え雪を食べさせていたときだ。
 吹雪はもう勢いを弱め、太陽が顔を覗かせるようにもなっていた。雪は少しずつ融けていて、木の枝に積もった雪が滑って落ちてきている。
 部屋のドアがノックされた音に気がついて、真言はふと顔をあげた。
 もう一度ノックされたドアを、雪んこを抱いたままで押し開ける。そこにいたのは雪女だった。
「ありがとうございました」
 開かれたドアの向こう、女ははじめに深々と頭をさげる。それからすぐに雪んこの顔を検めて、満面に笑みを浮かべた。
「母ちゃんが迎えにきたな」
 良かったなと続けて、真言は雪んこの顔を見る。雪んこは小さな手を母親に向けて伸ばし、うれしそうにはしゃいでいる。
 もしかしたら少しは真言に馴染み、離れるのを嫌がるのではないかと期待もしたが、実際にはやはり母親の存在のほうが大きいらしい。
 当然だ。
 心の底で息を吐き、真言は雪んこを雪女の腕に手渡した。それから残っているオムツも持っていってくれと続けて渡す。
「ありがとうございます、本当に。……これ、お礼にと思って」
 言いながら女が差し出してきたカゴの中にはわらびやゼンマイ、タラの芽。そういった山菜が詰め込まれていた。
 そういえば、雪女から赤ん坊を抱いてくれと渡され、凍え死ぬこともなく無事に再び雪女に赤ん坊を返した武士が、礼にと宝をもらったという逸話も、確かあったはずだ。
「……あんたの故郷で採れたのか」
 そんな逸話を思い出しながら訊ねると、女は満面の笑みのままでうなずいた。
「そうか」
 言って、真言もわずかに頬をゆるめる。
「晩飯にでもするよ」
 じゃあな、と言ってドアを閉めようとした、そのとき。雪んこがふいに真言の顔を見つめ、小さな両手を伸ばしなにかを口にした。
 むろん、それが言葉を成すわけもない。だが、真言は伸べられた小さな手をにぎり、それから何度も撫でたやわらかな髪をもう一度静かに撫でてやった。
「元気でな。……また気が向いたら遊びにくればいい」
 雪んこがふっくらとした頬に笑みをのせた。

 母子が去った後、街を覆っていた雪雲はうそのように晴れ渡り、どこか春めいた色が空一面を彩るようになった。
 カゴの中に残る山菜を見やりながら、そういえばここにある山菜はぜんぶ春の野山に育つものだと気がつく。
「春か」
 呟いて、真言は空を仰ぐ。
 いつかまた冬が巡れば、もしかしたらまたあの小さな手に触れることもあるのかもしれない。そう考えながら、バイト先へと向かい歩き出した。 
 
 
 ◇

いつもご発注ありがとうございます。今回もお待たせしてしまい、申し訳ありません。
今回はほのぼのというか、まったりというか。久々に真言様のまったりしたお話を書かせていただいたような気がします。
雪女の逸話もいくつか調べましたが、いろいろなバージョンがあるんですね。こういう機会がないとなかなか調べたりもしませんので、感謝を述べさせていただきます。
少しでもお楽しみいただけましたらさいわいです。
またのご縁、心よりお待ちしております。