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理想と現実
「おめでとうございます」
まったく喜んでいる様子もなく、淡々と職員が言った。
「これであたしたち夫婦ね」
それを放置してにっこり笑うあたしの隣にいるのは、最近知り合った、大学生の彼氏。
ことの始まりは深夜のゲームセンターから始まった。
彼氏のと遊んでいたところ、制服だったのがまずかったのか補導員に声をかけられた。つかまると学校とか家とかに連絡がいって面倒なので、その男と逃げ込んだのが、役所の深夜窓口。
「何か御用ですか?」
もちろんこんな時間。人はいない。ほとぼりを冷ましてから出ようとしたところを、戸籍係の職員が、声をかけてきたため、とっさの言い訳に、
『婚姻届けを……』
といったら、どうぞと紙を渡され、あれよあれよといううちに、婚姻していたの。
結婚した二人がやる事といったらハネムーン。ということで、ここは海外の観光客向けの食堂街。
「やっぱり牛丼屋とかあるんだ。お昼ここにしない?」
「えっ、でもここの名物おいしいんだよ?」
「いいじゃん、こっちのほうが安いし。はい、決定」
旅行のスペシャリストのあたしとしては観光地に来て牛丼とか意味がない以外の何物でもないのに、この人ぜんぜん分かってない!
ホテルに行ってからも私のイライラは募るばかり。
まずチェックインは私任せ。部屋まで荷物を運んでくれるわけでもなく、部屋に入ったら入ったで、テレビとゲーム機があったのをいいことにずっとゲームとテレビ三昧。
「どこか行こうよ」
「じゃあお前ツアーかなんか手配してよ。俺英語無理だから」
「ご飯は?」
「ルームサービスでいいじゃん。お前、頼むよ」
「……シャワー浴びてくる」
「いってらー」
せっかくのハネムーンだから楽しもうとしてるのに、あたしだけ一生懸命で、馬鹿みたい。
そう思いながら、バスルームを開けた途端、愕然とした。
バスルームには彼の抜け毛が散乱し足拭き用のマットはびしょぬれ。
「ちょっ!」
文句を言おうとしたあたしの視界を黒いものが通った。
「ゴ、ゴキブリ!!」
「あぁ、蜘蛛もいるから」
あっさりとした彼の声に眩暈すら覚えたけど、私は出来るだけ落ち着いた声で彼に訊いた。
「何で殺さないの?」
「だって汚いじゃん。風呂はいらないの?」
「うん、もういい……」
あたしは見なかったことにしてパタンとバスルームの扉を閉めた。
そんな真っ暗なハネムーンが終わって帰る朝。
「ちょっとお手洗い行ってくるね」
部屋を出る前にお手洗いに行くと、便座はあがったまま。ため息しか出なかった。
そしてお手洗いから出てくると彼が、なにやら荷物をつめてる。
よくみると、備品のタオルとか、浴衣。
「なにしてるの……?」
「買うと高いじゃん。あっ、この本も持ってこう」
「聖書はやめて!!」
「いいじゃん、別に」
「よくないわよ!!もう無理!もう限界!!ホテルでずっとテレビ見て寝るなら自分ちと一緒じゃん!出かける所とかご飯だって、英会話ダメだからって全部私任せ。何様のつもりなの?お風呂だって、髪の毛が汚い!マットが水浸しとか考えられない!!!大体、男なんだから小さいこといってないで、虫くらい殺してよ!!!その上『買うと高い』ってタオルとか浴衣盗らないで!聖書とかマジ勘弁」
一気にぶちまけると少しすっきりした。でも、少し言い過ぎたかなと思って謝ろうと思った瞬間。
「お前も大概だろ!尻軽女!!!だいたい補導員まくために結婚とか頭悪すぎだろ!そんなのに巻き込まれた俺の身にもなれよな!」
彼はそういって部屋を出て行ってしまった。
ぽつんと一人残されたあたし。
「私の『生涯独身な呪い』はやはり死ぬまで解けないのだわ。結婚と出産は女の幸福。それが生涯手に入らないなら、生きてる価値がない。死のう」
彼がさっきまでつめていた浴衣の紐を取り出し、わっかにした。
それを天井にかけ、ベッドにのぼり、わっかを首にかける。
そこに、タイミングよくか悪くか彼が戻ってきた。
「ちょっ、おま、やめろって!」
でも、私はそのままベッドから飛び降りた。
目を開けると、彼はいなかった。
多分、人を呼びに行ったんだろう。
このくらいで死ねるわけわけないことはどこか分かっていたけれど、それが事実と分かるとそれはそれで切なかった。
「もう、帰ろう」
あたしは久しぶりに翼を解放して、荷物もそのままに飛び立った。
もう、この国に来ることも、彼に会うこともないだろう。
さよなら、スキだった人。
−Fin−
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