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悪魔の声
物語には、天使と悪魔というものが存在する。
大抵は、善き道へと導くものが天使とされ、悪き道へと導く者が悪魔とされる。ただし、その性質は、物語によって異なる。何処までも甘く、優しく語りかける天使もいれば、厳しく正しい道を説く天使もいる。悪魔だって、てらいなく毒を吐くそれもいれば、甘く堕落へと誘い込んでくる悪魔もいる。
―――それは、現実に会ったことがないから、色々な形が存在するんだ。
ぱたん、と本を閉じる。小さく息を吐いて、悠斗は手の甲で目を擦った。本の表紙には、『天使と悪魔』とある。神話上に出てくる天使と悪魔を紹介した本だ。魔術や呪術の書籍の集められたこの書斎の中では、だいぶ入門編に近いだろうか。
天使と悪魔。時に人々の空想や妄想で語られる存在。それは、すべてが架空のものなのだろうか。その中には、本当に実在するものが語られた例もあるのではないだろうか?
―――僕は、いると思う。僕みたいな、おかしな存在だっているのだから。……むしろ、僕の方がよっぽど。
自分を卑下する思考に陥ってしまい、俯いた。自己を責める負のスパイラルに引きずり込まれてしまう寸前、ふと、ひとつの思いつきが胸によぎった。
―――そういうものを召還する魔術書……確か、ここに無かったっけ。
あった、ような気がする。――そう思うと、むくむくと好奇心が首をもたげてくる。悠斗の目が、控えめにきらきらと輝き始めた。
試して、みてもいいだろうか。試してみたい。自分にも出来るだろうか。思考は止まるところを知らず、膨らんでいく一方だ。
だが、天使や悪魔の召還なんて、興味本位で事に至って良いものだろうか。悠斗は、あくまで自分の呪いについて知り、制御するために、ここで書物を読んでいる。これは、本来の目的からは逸脱している。
理性ではそう思いつつも、一度湧き上がった好奇心が頭の片隅から消えない。物欲等が普段あまり無いこともあるのか、こうした欲を制することに――割としばしば好奇心に負けてしまうにも関わらず――どうにも慣れずにいる。悠斗の良心と好奇心が、それぞれの主張をする。
『悠斗、いけない。貴方は呪いを制御するためにこれらの本を読んでいるのでしょう。自分から、こちら側へ近付くのはおかしい』
真っ白な服に身を包んだ、天使が囁く。
『試してみたいのでしょう? 悠斗、貴方の思うままにすればいい。どうせ、貴方に文句を言う人もいないのだから』
真っ黒な服を身に纏った、悪魔が囁く。
天使と悪魔が、悠斗の頭の中でせめぎ合う。先刻読んだ本の影響を受けているのは明白だった。我ながら単純だ、と自嘲しながら、それでも脳内の声に耳を傾ける。
『ほら、気になるでしょう? 貴方は好奇心の強い子だもの』
『陥落してはいけない。貴方は、道を外すべきではない』
この声は、結局は悠斗自身の想いだ。悠斗の思考の中に存在できる自我は、彼自身だけ。それは、悠斗も理解している。
―――じゃあ、本物の天使や悪魔は?
もしかしたら、悠斗自身には想像もつかないような存在なのではないだろうか。それは、どんなものなのだろう。どんな姿で、どのような思考を持ち――悠斗を、どのように見るのだろう?
『いけない!』
天使の声が、遠くに聞こえるような気がする。
『そう。こっちへ、いらっしゃい』
悠斗は、自分の中の悪魔の、その手を取った。
―――あった。これだ。
書棚から、一冊の本を手に取る。前に読んだはず、という記憶を頼りに探したそれは、悪魔召還の本だった。眉唾物のオカルト本だと思ったため、一読した後は書棚の肥やしとなっていた。
必要なものは――屋敷と、その周りの森で揃えられなくもなさそうだ。悠斗は本を持ち、書斎を出た。
―――どうせ偽物、だとは思うけれど。少なくとも、時間潰しにはなるだろうし。
そんなに簡単に悪魔を喚び出せるとも思えない。だが、胸がわくわくしている。はやる気持ちが抑えられず、自然と早足になった。表情にはあまり出なかったようで、すれ違う使用人が訝しく思った様子も全くなかった。
一通り材料を揃え、裏庭で一息吐く。いよいよ実践する段階となり、ごくりと唾を飲んだ。
―――もし、両親がこのことを知ったら。
今でも敬遠されているのに、いっそう軽蔑されてしまうだろうか。これ以上関係が悪化することは無いだろう、頭ではそう捉えつつも、知られてもいいとは割り切れない。いずれは――一握りもあるかすら危うい希望とはいえ――関係が良くなればと思う気持ちがあるから、開き直ることは出来なかった。
だが、使用人たちは今、こちらに注意を払っていない。ぱっと済ませてしまえば、家族に知られもしないだろう。
指定の薬品で、地面に召還の陣を書く。それから集めたものを陣の上に配置し、目を閉じて呪文を唱えた。
「―――」
空が、暗くなったような気がした。目を開けると、悠斗の周りが黒い霧のようなもので覆われている。しばらくして、それが晴れると――全身黒ずくめの女性が、宙に浮いていた。身体には、先程まで悠斗の周りにあった黒い霧を纏っている。
「悪、魔……?」
思わず、呟きが漏れた。地面に足をつけずにいられるなんて、人間ではありえない。
「人、みたいだけど……」
『見た目はそう変わらないでしょう。れっきとした悪魔ですが』
戸惑う悠斗に、それが返答した。悠斗は驚き、気持ちが高揚するのを感じた。それを胸の内に押し留めつつ、口を開く。
「貴方が悪魔なら、お聞きしたいことがあります」
そう言って、ひとつ深呼吸をする。
「貴方から、僕はどんな風に見えますか?」
尋ねてから、密かにぐっと拳を握った。固唾を飲んで、悪魔の反応を待つ。
どんな答えが出るのだろう。悪魔なら、もしかしたら突拍子もない返答が来るかもしれない。不安半分、期待半分。じっと待っていると、悪魔が口を開いた。
『貴方は人間。それ以外の何でもない』
その答えに、悠斗はほっとする――以前に、不審に思った。普通すぎる。そう言ってほしい、という期待を悠斗は抱いていなくもなかったけれど。
「僕は、呪いの力を制御していけると思いますか?」
『きっと。けれど、そんな必要があるでしょうか? 呪いは必ずしも悪い力ではない。人にどう言われようと、構うことではないでしょう』
甘い言葉。それは悠斗が、これまで何度か傾いてしまいそうになった道。
悠斗が戸惑いをおぼえるのは、悪魔の発する言葉に、すべて覚えがあったからだった。弱気になった時、逃げ出したくなった時、『こうだったら』と悠斗が思い浮かべたこと。悪魔は、それを口にしている。他に幾つか質問を重ねてみても、同じだった。ひとしきり尋ねて、悠斗の中でひとつの結論が導き出される。
「貴方は」
すっ、と悠斗が右手を上げる。その人差し指を、悪魔へとつきつけた。
「幻なんですね」
ためらいながら、悠斗がそう告げる。と、さあっ……と崩れるように悪魔は消えていった。さらさらと余韻を残す黒い霧を見つめながら、悠斗は溜息を吐いた。
あれは、悠斗の中にある『悪魔』が具現化されたものでしかなかった。
―――迷いがあったから……かな。
本自体、眉唾物な代物だった。けれど、確かに何かしらが具現化した。少なくとも、ただのガラクタではなかったのだ。
それとも、成功していたのかもしれない。本当に、悪魔とは自らの甘い考えが具現化したものかもしれない。人智を越えた存在だと決めつけていたのは、悠斗自身だから。
両親に見つからなければ。さっと済ませてしまえば。そんな、甘い考えだったから、不完全な結果になってしまったのだろうか。そう簡単に踏み行っていい領域ではない、という戒めか。
―――うん。万一、僕が悪魔に魂を売る覚悟すら出来たら、また試してみようか。
そんな、全く懲りていないことを考えつつ、悠斗は屋敷の中へと戻っていった。
《了》
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