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空飛ぶ猫の捕まえ方
春の夜は、まだ肌寒い。
草間武彦は、ソファーに脱ぎ捨ててあったジャケットを羽織ると、薄ボンヤリと翳った春特有の霞みがかった空を見上げ、深く溜息をついた。
物置と化している奥の部屋の、さらに奥の奥、何が詰まっているのか分からないダンボールの影に隠れるようにしてあった七輪を引っ張り出し、炭も一緒に持つと屋上への螺旋階段をトボトボと上る。
草間興信所の入っている雑居ビルの屋上はガランとしており、どこから吹いてきたのか桜の花びらがチラホラ落ちている。
武彦はポケットから煙草を取り出して火をつけると、七輪を中央に置き、炭を入れると町のネオンを見下ろした。
車の赤いテールランプに、華やかなネオンを撒き散らすライブハウス。ビジネスホテルの光は半分以上が煌々とついており、コンビニは相変わらず闇夜に光る蛍のように明るい。
東京の賑やかな夜を眼下に、武彦は今から自分がやろうとしていることを考えて深い溜息をついた。
(そもそも、アイツが携帯に出ないのが悪い)
武彦は八つ当たり気味にそう思うと、煙草を足元に落とし、つま先でグリグリと消した。
もちろん、喫煙者のマナーとして吸殻は拾い、ポケットに入れていた携帯灰皿に仕舞った。
七輪と炭をそのままに、再び興信所へと戻る。
武彦が今現在抱えている事件は、少々厄介な―頭の痛くなるような―モノだった。
他に頼めそうな人がいれば、喜んでそちらに話を持っていきたいくらいだが、今回ばかりはそうも行かない。
見た目といい、トロンとした喋り方といい、何よりお子様なところといい、本当に任せても良いのだろうかと毎回不安になる。初見の頼りなさは、他の追随を許さないくらい飛びぬけている。
それでも、どれほど難しい依頼であろうとも、彼女はなんでもないことのようにあっさりと解決してしまう。その点においては、武彦はとても評価していた。
昼間にスーパーで買ってきたスルメを持ち、冷蔵庫の中からビールとチーズを取り出すとバッグの中に入れる。ガランとした冷蔵庫の中で異彩を放っている桐箱を取り出し―溜息をつく。
万年金欠病の武彦にとって、この桐箱は手痛い出費だった。買わなければならないと分かっていながら、買うのを何度もためらい、デパートの売り場を右往左往して店員に白い目で見られたことを思い出す。
あれはもう、お客様に対する目ではなかった。それこそ、不審者を睨みつけるような、そんな心に突き刺さる鋭い目だった。
その目を思い出し、ちょっぴり視界が霞む。もちろん、泣いてなどいない。少しばかり目から汗がでた、それだけだ。
グスンと鼻を鳴らし、追加のビールを掴むと興信所を後にする。
カァン、カァンと、階段を高らかに鳴らしながら屋上へと戻ってくると、ドカリと地べたに座った。早速ビールを一本開け、グビグビと勢い良く飲み干す。空き缶を灰皿代わりにして煙草に火をつけ、七輪に火を入れるとミニ団扇で小さく扇ぐ。
武彦は今から、猫神様を呼び出す御呪いをしようとしていた。
晴れた月夜に魔方陣に尾頭付きの魚を供え『コネロクノシャグ』と言う呪文を数回唱えると猫神様が願いを叶えてくれるという、ほぼコックリさんと大差ない都市伝説だった。
こっくりさんと違うのは、発信源がしっかりと分かっていることと、多少の尾ひれがついているものの効果は折り紙つきだということくらいだろうか。このお呪いの成功率は脅威の7割強だ。
(正直、これが都市伝説になるとは思わなかったな……)
溜息をつく。
そう、お呪いの発信源は何を隠そう、ここ草間興信所だった。そしてお呪いの発案者は武彦本人だ。
―――とはいえ、もちろん武彦が自分からそんな噂を面白半分に流すはずが無い。
いくら本人は否定しようとも、オカルト探偵と言う捨てられない肩書きを持っている武彦のところには、老若男女様々な人が訪れる。それは生きていたり死んでいたり、人間だったり人間でなかったりと、世間一般に認識されている“世界”から離れた場所に生きる人たちも含まれている。
人種のサラダボウルどころか、存在のサラダボウルと化しているカオスな空間で、面白半分に武彦の必死の努力を吹聴した輩がいたらしい。
目下犯人捜索中だが、おそらく永遠にこの謎が解けることはないだろう。武彦の扱っている事件の迷宮は深く、途中にはワープ空間があったり、突然気まぐれに形状を変えたりと、謎を解くのに向かない無理な構造をしているのだから仕方が無い。
二本目のビールを開け、七輪に網を置くとスルメを焼く。
思うに人類が生み出した文明の利器をこれほどまでに活用できていないのは、飼い主のせいなのではないかと思われる。が、それを言ったところで冷たく返されるのが分かっているからこそ、武彦は口に出して言ったことはなかった。
そもそも、飼い主自体もきちんと考えていて、操作方法もちゃんと教え込み、遊んでいてなくすことのないように首から提げられるタイプのストラップまでセットで持たせていた。
それなのに彼女は度々遊びに夢中になって着信に気がつかなかったり、終始圏外にいたりする。おそらく、電波の届かない場所―妖しの領域―にでも足を踏み入れているのだろう。
「ったく、素面でこんな事できるか」
三本目のビールに手を伸ばす。アルコールにはそれほど弱くない武彦だったが、ハイペースで飲んでいるため、少々回りは早い。でも、今夜は少し酔いたい気分だった。
桐箱を開け、中から銀色の小魚を取り出すとスルメの隣に置く。
「これ三匹でBoxが買えるぞ。……別に味なんか同じだろうに……」
哀愁漂うボヤキを次々に呟きながら、いい色に焼きあがったスルメをかじる。美味しい。噛めば噛むほど味が出てくる。シシャモよりも断然安いが、それでもコスト面から考えた幸福度や満足感はシシャモ以上だ……と、思いたい。
大体、カペリンもシシャモも同じじゃないか。お財布的にはカペリンのほうがありがたい。味だってそれほど変わらないだろうし。と、ブチブチ内心で文句を言う。
“猫神様”を呼び出す正しい方法は、噂よりも幾分面倒くさかった。
正しくは、尾頭付きの魚は“シシャモ”でなくてはならない。似たような魚ではあるが、カペリンではダメなのだ。もしも予算削減目的で安いセール品など買って来ては、猫神様は心底残念なものを見るような目でこう言うだろう。
『武彦ちゃん、シシャモとカペリンは別物なんだよ』
そんな事も分からないのかと、エメラルドグリーンの瞳を翳らせながら俯くだろう。
結果的にはそう文句を言いながらもムシャムシャ食べるのだが、召喚成功率がグっと下がる。猫神様はグルメでいらっしゃるのだ。
「しっかし、この噂が飼い主に知られたら俺が締められるな……」
そんな方法で呼ぶなと、あくまでクールに―もしかしたら、冷たい笑顔を浮かべているかもしれない―言われるだろう。
「でも、このヤマはあいつに聞くのが一番早いからしかたないか」
溜息をつく。今日何度目の溜息だかは分からない。そして、猫神様がご降臨されたおりにも、きっと溜息をつくと確信している。
溜息をつくと、一つ幸せが逃げるという。きっと武彦の幸せは、ゼロどころかマイナスになっていることだろう。
良い感じにシシャモが焼けてくる。武彦のビール消費量は、五本目に差し掛かっていた。
東京の夜に吸い込まれていく灰色の煙を見上げながら、パタパタとミニ団扇を一定の節をつけて振る。
「チカ、シシャモ焼けてるぞ」
遠くまで響くような凛と澄んだ声に、武彦はコソコソと身をかがめた。万が一、近くのビルなりマンションからなり、この奇行を見ている人がいたら今後のご近所関係が残念なことになりかねない。
待つこと数分、服についた鈴をチリンと鳴らしながら、羽に背の生えた黒猫が降臨した。もちろん、黒猫と言う表現は比喩だ。千影は現在、可愛らしい少女の姿をとっている。
「シシャモだ〜♪」
トンと軽く屋上に降り立ち、『食べても良い?』とキラキラの目で訴えかける。もちろんと頷き、紙皿にとって冷ます。
「この間の事件の礼だ」
「武彦ちゃん、忘れてなかったんだね」
にっこりと満足そうに微笑む千影にシシャモの乗った紙皿を渡し、ハフハフと幸せそうに食べる顔を見つめる。
「ところで……こっちにまだあるんだが……」
「たべるっ!」
ピっと手を上げて元気よく言うが、武彦は直ぐには焼いてくれなかった。薄い色の入ったサングラスを持ち上げ、煙草を口の端に挟みながらシニカルに笑う。
「手伝って欲しい事があるんだ。……もちろん、チカ好みの面白い話だ」
千影の可愛らしい顔がパっと輝き、大きな目を細めると微笑む。
「どんなはなし〜?」
千影の興味は完全に―いや、9対1くらいの割合で―話のほうに向いていた。
武彦は桐箱からシシャモを取り出すと、焼きながら依頼について話し始めた。
猫神様を呼び出すためには、晴れた月夜でなくてはならない。
それは別段、月と地球の関係や、魔術的な力の影響のためではない。もっと言ってしまえば、晴れて無くても構わない。ただ、雨が降ってさえいなければ良いのだ。
魔方陣も必要ない。魔法に必要な道具は、七輪とシシャモだけ。
そして小難しい呪文も必要ない。ただ、呼びかけるだけで良い。お母さんが子供を食事に呼ぶような、そんな感覚で問題は無い。
それでも猫神様が降臨しないのであれば、彼女の好奇心を満たせるだけの面白い話を用意しておくと良い。
それで、ほぼ百パーセント猫神様を呼び出すことが出来るだろう……。
END
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