コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


白い夢


 電車が発進する。高架下に響く、車輪とレールの錆が削り取られる甲高い音。大音響のノイズがあちこちで反射するトンネルを抜けたところで、物部は両手を突き上げて深呼吸をした。
 白い明かりをぼんやりと拡散させる街灯。自分の足元にうっすらと出来た影。こちらと同じ動きをする灰色のセロハンは、道路の凹凸にあわせてくしゃくしゃとゆがんだ。
 この高架下を通るたび、自分はやっと遠方から戻ってきたんだ――と実感する。
 バイトで生計を立てている物部は、採用さえされれば、郊外の仕事であっても引き受けて最後までやり遂げる。今日は、電車を何本も乗り継いだ先での日雇いのバイトをこなした。労働に見合った給与を手に、日も暮れかけたあちらの駅を発ったのが数時間前。朝も早く内容もハードだったが、しばらくの生活は安泰だ。

 肩に手を添えて、腕をぐるぐると回す。だいぶ疲労が溜まっているな。まだうっすらと湿っている後頭部を掻き、汗に濡れた手を冷やす風に任せる。
 電車は次の駅へと向かった。あと二本ほどで終電を迎えるはずだ。

 氷のようなアスファルトの温度が靴底越しに伝わってくる。夕立でも降ったのだろうか、空気が重い。霧の中を歩いているようだ。ためしに手を数度握ったり開いたりしてみる。手の上の大気を掴み取れそうだ。
 街灯の光は尚も粒となって広がり続け、道路にわずかな量だけ届けている。薄い雲に隠れた月は謙虚で、青白い明かりの端を木々の上に多い被せて、黙り込んでしまった。
 疲労の溜まった足をなんとか前へ運び、家路を急ぐ。ズボンのポケットに手を突っ込み、身体にぺったり張り付く湿気をかきまぜて。

 靴は着々と家に近づきつつある。木の葉のカーテンにさえぎられた街灯の明かりが、断片的な光を物部の背に落としている。
 ふと辺りを見回すと、辺りは鬱蒼と茂った木々や茂みで覆われていた。葉の隙間から覗く石の柱。暗闇にさえぎられた向こうにうっすらと見える、鳥居の赤。
(神社、か?)
 物部の胸に不安がよぎる。
 神社の息子である物部にとって、他の神を祭る神社に近づくのは危険なことなのだ。知り合いの神主が、新しく出来た神社に不用意に近づき、精神を極限まですり減らされたと聞いたことがある。それに、神々の縄張り争いが勃発し、巻き込まれてしまわないとも限らない。ぴりぴりとした空気が、闇に溶ける境内から流れ込んでくる。
 急いで路地を行く。冷え切っていた体が、走り続けるにつれて火照って行く。鉛のような身体を気持ちだけで引っ張り、不規則な足取りで身体をいびつに揺らす。いつもの数分の一くらいの速度しか出ない。
 足よ、がんばってくれ。心の中で呼びかける。それでも、歩は進まない。全身の筋肉がこわばり、動くことを拒否しているようだった。

 走っている途中、祠が見えた。それは樹木の生い茂る敷地の奥にひっそりと佇んでいた。ぼんやりとした輪郭だけを捉えることができたから、どれくらい昔のものかわからない。新しいものだったら、もしかしたら祝詞の間違いがあるかもしれない。人々から忘れられたものだとしたら……、現世と幽界を結ぶ力を失っているかもしれない。
 できれば、普通に人々が信仰し、普通に手入れの行われている祠である様。頭の片隅で物部は願った。

 神社の敷地は抜けた、ようだった。頭上に覆いかぶさるように伸びていた枝葉はまばらになり、電柱や電線や照明が目立ち始めた。少し離れた場所には数戸の住宅もある。
 ひとまず、最悪の事態は逃れたはずだ。走りつかれた全身に風を受け、うっすらとかいた汗を乾かす。肺いっぱいに空気を吸い込んで、肺いっぱいの空気を吐き出す。もう、これで大丈夫だ。あとは帰り道をいつも通りに辿るだけ。
 そこで物部の思考は止まった。姿勢を正し、辺りを見回す。
 いつも通りに辿るだけ? ならばなぜそこに神社がある? いつもの道を辿ったとしたなら、そこにあるのは普通の――今遠方に見えている家と同じような、ごく普通の住宅街があるはずなのだ。
 おかしい。
 一瞬の決断の直後、物部は背後に向き直った。

「        、     」
 耳元で。
 くすりという笑いと共に、知らない声が、聞こえた。
 即座にそちらを振り向く。しかし、誰も居ない。
 空耳ではない。直感が正しければ、それは間違いなく誰かの声だった。

 そして……物部の眼前に広がっている光景。
 それは、いつも見ている電線に区切られた夜空でも、薄汚れた壁の住居でも、アスファルトで出来た路地でもなかった。
 土くれを塗り固めて出来た道。それ以外の場所を覆う芝生。そこに点々と生えている木々と、その先に広がる広大な雑木林。目の前には石碑がいくつも並んでいた。
(幽界だ)
 辺りに漂う霊気や妖気、死のにおいを皮膚で感じ取る。血のにおいがするわけでもない。芝生の影に霊が潜んでいる予感もしない。ただ異世界に迷い込んだだけだ。
 幽界は、物部の敵ではない。もちろん、味方でもない。
 ただそこには、大気の変わりに“死”だけがある。死は穏やかに流れ、物部の間をすり抜け、ふわりふわりとあちこちに隙間なく漂っていた。

 先ほどの言葉はなんだったのだろうか。声の主は見当たらない。
 ただ、声がした方向……そして声の主が去っていった方向は、この道を進んだ先だ。
 道の両側にいつのまにか、住宅が姿を現していた。しかし、現代とは程遠い景色だった。店も住宅もビルも近代的な建物の影はなく、京都や奈良の観光地に残る老舗をぎゅっと小さくしたようなシルエットの、時が動き出したら今にも崩れてしまいそうなほどほろほろの土壁で出来た家がぽつんぽつんと建っていた。
 墓地みたいだな。芝生から伸びる住居のひとつひとつに目を配らせ、物部は考える。死んだ魂たちが帰る家があるとすれば、その一つに墓地があったとしてもおかしくないだろう。
 しかし、その扉のひとつひとつを叩いて回るわけにもいかない。彼はこの世界から脱出し、あるべき世に帰らなくてはならないからだ。
 水気を含んだぬるりとする土の道へ一歩、慎重に踏み出した。


 大気のような死の作る流れ――現世でいう風――が、左右からするりするりと吹きぬける。それは体内をすかして流れているらしかった。釣られて視線を上げれば、どこまでも続く広大な草原が広がって、いた。地平線は住居と住居の広い隙間から覗いていた。空は濃い藍色で、あたりに深海の色をした光を落としていた。
 目の前をいくつものほたるのような光が漂っている。手を伸ばすと、それは四方八方へゆるゆる逃げていった。一つの光が物部の腕をくるくると撫でるように周り、そのまま上空へと上っていった。
 ほたるの住みかを抜けて、雑木林へとたどり着く。ここにもいくつもの石碑が建っていた。円柱や四角柱の石の塊。刻まれていた文字は風化し、なめらかな細い窪みになっていた。細くねじくれた木々の枝葉が、風に煽られて揺れる。空が降らす藍の光が石碑に落ち、さらに暗い青の影を作る。
 土くれの道がほどけるように消え、雑草や蔦が生い茂る地面をいくらか歩いた先。物部の目の高さと同じくらいの、小さな祠が見えた。朽ちかけて傾いた、小ぢんまりとした祠だった。
 その隣に誰かが座っている。その純白の着物は、着た主である女性を死のにおいから護り、森の中の闇と溶け合うことなく確かに存在していた。
(あれがさっきの声の正体か)
 少しの疑問もなく、解答がすとんと胸の中に落ちる。頭の中が、考える場所が、妙に晴れ晴れとしていて単純にできあがっていた。

「そう、私よ」
 遠くにいるはずの女性の声が、目の前の何もない場所から聞こえてくる。
「あなた、名前は?」
「物部真言」
「そう」
 彼女は先ほどと同じ姿勢で、微動だにせず、しゃべっていた。
「物部。私の子を知らない?」
 知らないと、物部が答える。
「ほたるや石碑ならいくつも見たが」
「私の子はほたるでも石でもないの」
 風が止んでいる。頭上から降り注ぐ空の明かりも、白い着物を塗り上げることはできていない。物部は自分の腕を見た。彼の腕に当たった藍の光は、肌を藍色に染めつつあった。
「俺も、この世界の出口を探している」
 この藍色が全身を染めてしまう前に帰らなければ。藍に染まることがこの世界に溶けることだというのは、道理に思えた。
「出口。出口ね。ええ、私ならあなたを元の世界に戻せるかもしれない」
 女性はやはり、祠の隣に座り込む形で静止していた。こうしてみると、写真のようだった。
「でもその前に、私の子を探してきてくれない? そうしたら戻してあげる」
 藍に染まらない着物を着た彼女なら、たしかに幽界の出口を知っている気がした。それに出口の宛てがない以上、今頼れるのは彼女だけ。断る理由も見つからず、物部は二つ返事で了解すると、雑木林を後にした。

 ほたるの道をゆくまでもなかった。彼が振り返ったその瞬間、景色はスロットのリールみたいにぐるりと回って、新しい映し出した。見覚えがある。彼がこの場所に飛ばされた直前、住宅街へと入るアスファルトの道。足踏みをすれば足音が響き、こすればざらりと鳴る道だ。
 しかし、ここは幽界の一部。空気の変わりに清潔な死が漂い、月のない空とほたるが地面を照らす世界。目の前をくるくる飛び回るほたるの灯が、顔を白っぽい緑に染めては去っていく。
 この景色の中に、彼女の子が居るという。
 それはおそらく、彼女と同じような白い姿をしているはずだ。
 なぜなら、物部の脳裏に焼きついた彼女の姿というのが、もはや白い着物そのものだったからだ。祠によりかかるようにたたずんでいる着物。本物の白い布で出来た……。

 さて、着物との約束を果たさなければいけない。
 道を歩く。夜がやってきたばかりの住宅街には、ちらほらと人影があった。が、顔が見えない。皆一様に後ろを向き、そのまま話したり、歩いたりしている。たった今すれ違った皺だらけの手をした老人は、その顔をこちらの背中に向けるのだろうか? 窓から覗いている男性の、顔だけがカーテンで隠れている。立ち話をしている女性は、身体だけが向かい合っている。ひそ、ひそ、ひそ、ひそ、と、話している。
 彼らとも話ができるのだろうか。そう考えて声をかけてみたが、無駄だった。話を止めもしない。振り向きもしない。彼らには物部の姿や存在が一切感知されていないらしい。ためしに肩に手を置いてみたが、まったく反応を見せない。手のひらには温度が伝わってきた。あたたかい、が、人間の温度とは少し違う。感触も、同じ。
 おそらく彼らは人間なのだろう。
 今探しているのは着物の子だ。人間ではない。
 住宅街を横切ると、公園が見えてくる。砂と土でできた広場があるだけの、小さな公園だ。入り口以外の隅を花壇が囲んでいて、中にある遊具といえば滑り台とブランコくらい。狭すぎて野球ができない。電線だらけのこの街にあっては、凧揚げすらできないだろう。
 そこに人影はなかった。砂地は海の色に染まって、時折流れる空気にあわせてさらさらと漣を立てている。
 ふと、その奥に輝くものを見つけた。白い百合の花だ。
 間違いなく着物の子だった。
 花が物部に言う。
「あなた、私を探しに来たのね?」
「そうだ。あんたの母親があんたを探している」
 海を越えて彼らは語る。
「あなた、名前は?」
「物部真言、だ」
「真言」
 花は少し寂しそうにした。
「それじゃあ、私を連れて行くことはできない。あなたのところの神さんは……私達とはあまり折り合いがつかないの。いつの時代でも」
「ならなぜ、俺はここに来ることになった?」
「偶然よ。あの祠を見た? お供え物がなくなってから、今日で丁度十七日目なの」
 だからなの。本物の白色をした花は、何十秒もかけて少し揺れた。
「ごめんなさい、真言。私達じゃ、あなたを帰してあげられないわ」
「あんたを連れて行けないからか」
「そういうこと」
「まだわからない。直接触れずにあんたを連れて行く方法も、あるかもしれない」
 波が拒絶するかのように目の前に押し寄せ、砕けた。海の中に塔のように聳え立つ数々の花壇が、底に行くほど黒く闇に溶けているのが解る。
 海は広く見えた。しかし両手を伸ばしてみると、花はその間にすっぽりと収まった。空から消えた星々を砕き、それをぎゅうと押しつぶして伸ばしたような薄く儚い花弁が、六枚。
「私は月の子」
 花が言う。
「母さんは月。あなたは……」
 そこで彼女はくしゃりと音を立てて枯れた。あっけなく。

 なるほどな。
 物部は考える、月の反対を。自分の神の名前を思い出す。それがこの世界と相反していることも。
 枯れた花弁を見る。星は海の中に散っていった。彼らは砂になるだろう。そしてそれは月の子ではない。

 物部の手が色を失い、透明になっていく。海が透けて見える。最初その穴は両手が海の水を掬ってできた水溜りのようだった。それがだんだんと水の量を増していって、手が海水に浸かり、肘までが水に浸り、肩を海が包み込んだ。
 水面に月が浮かんでいる。夜に穴を開けたような月。彼女はずっと公園を見下ろしていた。そして、花壇の塔のレンガ一つ一つすら愛でていた。
 海に沈みながら物部は月へ言った。
「すまなかった」
 月は何も答えない。彼女は現実世界の月によく似ていた。


 海の中を列車が走っている。レールはビルの間を強引に突き進んでいる。密閉された車内に差し込むのは色とりどりの明かりだけ。その数もいつかよりずっと少なくなり、無言の乗客を一人ずつ照らすのに足りないくらいだった。
 光の当たらない場所に青年が一人。揺れる車両の窓に頭を持たせかけ、瞑目している。彼を見つめる月がひとつ。無言の旅。
 電車はようやく、大きな神社の敷地を過ぎる。社の隣に、小さな祠が一つ。新参の立派な社に追いやられ、人々に忘れられかけている家。備えられた花はそれとわからないくらい粉々に砕け、すこしずつ、土へ還っていく。

 物部の見た夢に名前はない。
 覚めればまた現実が始まる。
 夜は今日も水のように冷たく、眠る人々を運んでゆく。棺桶を引く荷車のように。