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<東京怪談ノベル(シングル)>


フェンリルナイト〜纏絡〜
 ビスレストをのぼり始め、どれほど時間が経っただろう。アースガルズからアルムヘイムまでがすぐだったせいか、この時間がとても長く感じる。
 何気なく空を見上げてみれば、まるで、以前見た映画のように、巨大な島、というか大陸が浮かんでいた。
「あれが、ヴァルハラ……」
 思わず呟き、これからどうするのか、考えを巡らせていると、
「おや、おまえさん、随分古い言葉を知っておるな?」
「え……?」
 全能の魔女に言われ、みなもは驚いて声を挙げた。
「古い言葉とは、どういうことなんです?」
「そのままの意味じゃよ。今でこそ、神世界ヴァナヘイムと呼ばれているが、昔は、神族間の闘争が多く、数多の神々の住まう高原という意味で、ヴァルハラと呼ばれておったからの」
 そう、あっさりと言ってのける魔女に、みなもは、思わず声を上げそうになる気持ちを抑え込んだ。
 神世界ヴァナヘイム、彼女は、世界の成り立ちを話してくれたあの宿で、確かにそう言っていた。
 ヴァナヘイムがこの世界の頂点にあり、ビフレストを介して、それぞれの世界が繋がっているのだと。
――どうして、気付かなかったんでしょう…。
 いつからか、魔女は、最初の説明とは違い、今向かっている場所を“ヴァルハラ”と呼び、そして、違和感を覚えなくなっていた。
 気付けなかったのは、恐らくプレイヤーキャラである“みなも”が自分の中に浸食を始めたことに困惑し、疑問を抱く余裕もなかったから。
 だが、自分なりに決意を固め、心も安定してきた今、改めて、ここに至るまでの経緯を思い浮かべてみると、おかしなことはいくつかあった。
 もし、自分がゲームの中に取り込まれているのだとしたら、なぜストーリー通りに進まないのだろう。
 ネタバレ覚悟で、行き詰った時見てしまった攻略サイトには、確か、こう書いてあった。主人公の旅の起点がアースガルズにあったのは、それぞれの世界で、何らかの理由で差別されてきたから。おそらく、主人公がどの種族であってもフェンリルナイト足り得るのなら、人間や獣人でも、神族の血を引いているがために、普通のヒトとは違う何かがあった、ということなのかもしれない。
 そして、差別のない世界で、まっさらな状態で世界を見聞し、仲間と出会い、身体的にも、精神的にも大きく成長した主人公は、やがて、第一のクラスチェンジを経てアースガルズでのクエストを解決し、種族としての最高位のクラスチェンジを行うことで、全ての記憶を取り戻し、多くの人が生きる全ての世界を護るため、立ちあがる。
 そこまでは、公式のあらすじとして読んだ。ただ、みなもは、その途中、第一のクラスチェンジをしたばかりではあったが。
――なのに、あたしは、全能の魔女と出会い、仲間との交流もなく、アースガルズでクエストを行うこともなく、今、神の世界へと向かっている。
 早く自分の世界に還りたいみなもにとっては、それくらいの展開でも遅いくらいだ。
 ただ、
「全能の魔女」
「何じゃ?」
「あなたは、どこまで知っているのですか?」
「それは、帰ってから、ということではなかったかの?」
 あくまで、頑なな態度。
 それは、これ以上聞くな、と、警鐘を鳴らしているようにすら感じられた。
「では、質問を変えましょう。あなたは、どうして、あたしをここまで導いてくれたのです? それが、使命だからですか?」
 ゲーム世界に放りこまれ、訳も分からずに歩いた始まりの街。そこで紹介された、全能の魔女と出会うクエスト。
「何より、あなたは気付いているはずです。あたしが、本物の“みなも”でないことに。この世界の住人でないことに」
 彼女は言った。今なら引き返せる、と。
 始めこそ、魔女の言葉を信じていた。お前は、アルフヘイムに帰りたいのだろう、と。そう言われた頃から、この世界の“みなも”と記憶がリンクし、混乱した。
 だが、今は違う。
「もう、あたしには、迷いはありません。いえ、正確に言えば、恐い、とは思っています。それでも、自分のやれることを投げ出して、後悔することだけは嫌だから」
 だから、顔を上げた。
 だから、前を向いた。
 そして、答えを見つけた。
「あたしが成すべきことは、ヴァルハラ、いえ、ヴァナヘイムに行き、かつてのヴァナディースがしてみせたように世界を救うこと。そして、そこには…」
 もしかすれば、過去の英雄達のように共闘できない状態にあれば、もしくは、過去と全く違う現状が広がっていれば、より、厳しい戦いになるのかもしれない。それこそ、中学生の少女が背負うには重すぎる試練が。
「だからこそ、今、聞いておきたいのです。あなたが知っていることを。今、話せることを」
「……」
 長い、長い沈黙があった。時間の感覚すら、狂いそうなほど、長い間だったような気がする。
 それだけの時間をかけて、ようやく息を吐き出すと、全能の魔女は、ゆっくり話し始めた。
「わしが、今のヴァナヘイムをヴァルハラと呼ぶのは、その方が、馴染みが深いからじゃ。知っておるからな。今でこそ、神王フェンリル族、風のヴァン神族、大地のアース神族、水のラタトスク神族、火のヨルムンガンド神族が統率する、平和な世界になったが、神族同士が戦い、荒廃していくヴァルハラを。名を変えたことすら忘れてしまう程の長い時間を、わしは、生きてきた。そして、見守ってきた。アースガルズを、アルフヘイムを、平和になっていくヴァルハラを。おまえさんに気付かせるためにわざとそうしていたわけではないのじゃが、そこに疑問を感じたということは、多少、吹っ切れたのかもしれんな」
 そこまで言って、魔女は、一度言葉を切る。軽く空を仰いだ先には、もう随分近くにヴァナヘイムが近付いていた。
「おまえさんが、わしの知る“みなも”でないことも、徐々に気付いていった。わしが偶然、おぬしを見つけた時は一人、倒れておったのじゃ。まるで、仲間など始めからいなかったように。自分一人の力で、アルフヘイムに戻る術を模索していたかのように。だからこそ、ギルドの主人に、おぬしがわしの元に来るように仕向け、側で、見守ることにした。だからこそ、違和感に気付いたんじゃがな」
 そう言う全能の魔女は、苦笑しているようだった。
 目の前にいるみなもが“みなも”でないことに、困惑しているようでもあり、それでもみなもは“みなも“だと思えているかのように。
「おぬしには、わしの本当の名を明かすことも、わしが辿ってきた全ても、話してやることはできん。それが、全能の魔女としての掟じゃからの。それでも、側にいてやりたかった。守ってやりたかったのじゃ…」
「……」
 全能の魔女の言葉に、今度はみなもが言葉を失う番だった。
 ずっと、一人だった。なのに、この世界の“みなも”には、見守ってくれる人がいた。そのことが、羨ましくもあり、少し、妬ましくもあった。
 今でも、達観などしていない。それでも、いや、だからこそ、全能の魔女が自分を見ている、という事実があることは、嬉しかった。
――そうか、あたしは、海原・みなもとしても、この人に守られていたのですね。
「ありがとう」
 それだけを何とか言って、みなもは、腕輪を固く握りしめた。