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繭
学校から帰宅して、夜、布団の中であたしは考えた。
(天使病に取り込まれてしまったんじゃない、あたしが天使病を取り込んだの)
そう言える状態にしたい。
ピンチはチャンス。天使病に冒されきった身体をどこまで制御出来るか――。
(どうせ今は眠れない夜だもの……)
寝返りを打ちながら朝が来るのを待つよりは、甘美な野望を抱く方が良い。
月明かりが零れる部屋で、あたしは本能の赴くまま身を委ねた。
透き通った肌から羽が一枚一枚、顔を出す。
ぷつり。ぷつり。羽が芽吹いていく。
(う……)
あたしは身体を震わせた。薄い肌を突き破られていく感触が、あたしという水面に波紋を立てた。
羽はますます勢いをつけて。
仄暗い中でも光を求めるように、柔らかなその身を広げていく。
そこには天使の羽という無垢なイメージとは程遠い、貪欲さがあった。
(飢えているのね……きっと……)
無理に制御され続け、あたしという中に羽を押し込められていた“天使”は――確かに、自由に飢えていた。
(いいの……今は……解放して……)
無数の羽が伸びていくのを、あたしは感じていた。
(…………!)
まるで自分の身体が伸ばされていくような心持ち。羽の中に神経が張り巡らされているみたいだった。
じんわりと広がり続ける羽と、羽。
羽同士が触れ合う度、柔らかくくすぐられているような感覚に襲われて、あたしは小さく声をあげた。悦びとも悲鳴ともつかない、一瞬の吐息を。
――甘い香りがする。
花の香りとは違う、砂糖を入れたホットミルクみたいな匂い。
甘く、幸福に包まれるような……気持ち。
――伸びきった羽が、あたしの身体を包み込み始めていた。
全身が羽に覆われていた。
歩こうと思って、足を畳につけただけで……だめ。
「ふふっ……」
くすぐったい!
それに羽のせいか力が出なくて。笑いだした拍子に膝が折れて、あたしは畳に倒れ込んだ。
「きゃあっ……ふふふ……く」
くの字に身体を曲げて。あたしは笑いを抑えられなかった。数え切れない数の羽と畳の目がこすれあって、くすぐったくてたまらなかった。
今や翼と化した手足では、役に立たなかった。力の入れどころがわからなくて、手で物を掴むことも出来なかった。
羽となった指先で布団をなぞると、羽の膨らみを通してひんやりとした布団の温度が伝わってきた。撫でているのか撫でられているのかわからなくなる。
背中を畳の上に投げ出したときが一番気持ち良い。
ザラザラとしたイグサの感触と匂い、羽の柔らかな感触と甘い匂いが混じり合って、あたしの身体に快楽をもたらした。
そこには浮遊感があった。
絵に描いた雲の上に、寝そべっているみたい――。
(そうだ、浮遊……)
羽があるのだから、宙に浮けば良いのだ。
あまり羽ばたいては天井に頭をぶつけてしまうから、そっと……そっと。
ゆっくりと全身の羽を震わせて、あたしは宙に浮いた。
(出来た……出来たっ)
天使病に初めて感染してから経験を積んでいるだけに、以前より上手く扱えるのだろう。
(すっごい……あたしにもやれたんだあ……)
羽の動きを調節しながら、あたしは失敗しつつも前に進んだ。
口で部屋の電気をつけて。
この姿を一目見ようと、鏡の前に降り立った。
「いや……いやああああああ!」
唇を割いて溢れてくる悲鳴を、押し込めるのが、どれだけ大変だったか!
鏡には顔から胸から手足から……羽を伸びきらせた、奇妙な生き物が映っていた。
天使のイメージからほど遠い、気味の悪い姿――。
小さく震える羽は、透明な肌を突き破ってぶるぶると蠢いていた。
(こんなの、こんなの……あたしじゃない!)
い、や、ア、ア、ア。
――歯茎に違和感を覚えた。
(何かが――)
うぞうぞと、歯の間を割って生えてきたそれは、見るまでもなく羽だった。
口を閉じても、ふっくらした唇の間から、零れ出てくる。柔らかく、しなやかに。
羽は穏やかにあたしを冒す。あたしの乱れた感情を突いて。
目を開けても、純白の色しか見えない。
目の前は羽で覆われてしまった。
見えないけど、後ろもきっとそうなんだろう。
(……繭、みたい)
羽で塞がれた口の中で、呟いた。
この姿を人が見たら、どう思うんだろう。
あたしって何?
あたしってどんな存在?
(お父さん……あたし、こんなの嫌……)
――ふいに、お父さんの手紙のことを思い出した。
『失敗してもあまり落胆しないように。時間はたっぷりあるのだから、「きっといつか上手くいく」と大きく構えていなさい』
お父さんの優しい声が頭の中に響いた。
そうだ、お父さんは前に、そう書いた手紙をくれた。植物化に失敗して、異形の姿になったときに、そう励ましてくれたんだ。
こんな姿のあたしでも、家族なら、きっと――。
羽がふわりと動き始めた。風に揺れる木々のように。
静かに視界が開けていった。
鏡の前に現れたのは、羽の塊のようなあたしだったけど、もう悲鳴は出てこなかった。
かわりに。あたしは鏡に向かって、微笑んだ。
唇から零れていた羽の群れが、中へと戻って行く。
繭に包まれた蛹だって、いつかは羽化する。
終。
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