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Night Walker 月下美人の蕾
日増しに熱くなっていく日中の気温は、夜の闇ですらも冷やしきる事はできず、東京は連日の熱帯夜に悩まされていた。
茹だるような室内の空気をかき回すしか出来ない扇風機。パタパタと団扇で扇いでみても、不快な汗は止まらない。寝不足による夏ばてで、熱中症になって病院に担ぎ込まれた人が何人と言うニュースを横目に、千影は温い風に髪を靡かせていた。
太陽と同じテンポで生きる人たちが寝苦しい夜を過ごしている間、月と同じテンポで生きる人たちは、夜の闇を切り裂く明るい光と、熱風すらも吹き飛ばすほどの冷たい冷房の風の中で騒いでいた。自動ドアが開くたびに漏れてくる冷たい風に、思わず肩をすくめる。『こんなに寒い中にいたら、風邪ひいちゃうよ』と、千影は心の中で呟くと、トンと高く跳躍した。
大きな月を背に、頭の上に乗ったフワフワの黒い兎を撫ぜる。腰元をキュっと締めるリボンがヒラヒラと靡き、ふわりと鼻先を甘い匂いが掠める。たった今、誰かが横を通り過ぎたかのような感覚に後ろを振り返るが、夜空には千影以外は誰もいなかった。
花のような甘い匂いは以前にも嗅いだ事のあるものであり、千影はいつの事だったのか思い出そうと、鮮やかなグリーンの瞳を伏せた。
あれは確か、夜のお散歩をしている時で―――
「あっ」
足元を過ぎった影に、千影は思わず小さく声を上げると口元を緩めた。先ほどまで考えていた香りのことはスポンと頭から抜け落ち、ゆっくりと降下する。
「わ〜ぃ、聖陽ちゃんだー! こんばんわ♪」
頭上から唐突にかけられた声に、昼神聖陽は一瞬驚いたように肩を上下させたが、すぐに千影の姿を見ると目を細めた。
「千影、急に上から声をかけたら驚くだろ……」
「ビックリした?」
「した。今日はまた夜のお散歩か?」
「うん、そうだよ」
ふわりと地面に着地すると、聖陽の金色の瞳を見上げる。ちょっと不機嫌そうな、眠たそうな、一見すると冷たい目をしているけれど、本当は優しい人なのだということを千影は知っていた。
「聖陽ちゃんは、今日はどうしたのー?」
「夜の散歩。と、言いたいところだけど、違う。実は腐れ縁のヤツに少々面倒な事を頼まれてな……」
困ったような顔で目を細め、小さく溜息をつく。千影は大きな目をパチリと瞬かせると、可愛らしく首を傾げた。
「面倒な事? チカで良ければ、お手伝いするよー」
聖陽は千影の透き通ったグリーンの瞳を暫く見つめた後で「千影になら良いか」と呟いてから歩き出した。
「時間がないから、歩きながら説明する」
「うん」
ピタリと聖陽の隣につき、面白そうな話にワクワクしながら服についた鈴をリンと鳴らす。スカートのリボンが風に揺れ、鈴が一つなるたびに千影と聖陽の周囲の空気が冷えていく。
「千影は、月下美人は知っているか? 夜に咲く花だ」
「んーっと、聞いた事はあるよ。確か…真っ白な花だよね?」
「そう。強い香りがする、夜に咲く花だ。俺の知り合いが、異界にその花を植えたんだ。育つかどうかの実験だったらしいが、無事に育って、いまや十メートル級に成長しているらしい」
千影は思わず空を仰ぎ「うわ〜」と、まだ見ぬ巨大月下美人を思い、歓声を上げた。それほど大きく育ったのは、ひとえにその月下美人に異界の土が合っていたせいだろう。
「お花も大きそうだね」
「あぁ、大きい。……らしい。何でも、蕾の中に妖精の子供がいるらしく……」
「妖精さん?」
キラキラ。千影の瞳が興味深げに輝く。
どんな経緯で入ったのかは分からないが、蕾の中で妖精は静かに育って行き、今夜あたり月下美人の花が咲くのと同時に一人前の妖精として旅立つらしい。
「絵本の中のお話みたいだね」
「……まあ、夢の異界での話だからな」
「ゆめの異界?」
「夜中に誰かが見た夢の結晶が集まって出来た世界。本来は俺の管轄じゃないし、そこに現れる異形は倒せないから関わらないようにしているんだが、今回は事情があって、俺が無事に妖精が旅立つのを見守るっていうふざけた役を任された」
「聖陽ちゃんは、妖精さんは嫌いなの?」
「ファンタジーは苦手なんだ」
苦虫を噛み潰したような表情で、聖陽はポツリと呟くと小さく溜息をついた。
「なんだか聖陽ちゃん、今日は溜息が多いね」
「アイツは『ただ見てるだけで良いのですわ』なんて言ってたんだが、嫌な予感がするんだ。アイツが、何もないと言う時に限ってロクでもない事が起きるからな」
「でも、チカちょっと強いから安心して良いよ」
聖陽ちゃんを守るくらいは出来るよ。
無邪気に微笑みながら言う千影に、聖陽は鮮やかな金の瞳を大きく見開くと、真一文字に結んでいた口元を少しだけ綻ばせた。
「それじゃあ、またシシャモが必要だな」
ポツリと呟いた一言に、千影の鼻がピクンと動く。そう言えば、少し前に彼と対の存在から『シシャモ娘』と呼ばれた時の会話を思い出し、口の中にあの香ばしい味が広がる。
「千影って、シシャモ以外に好きな食べ物はないのか?」
「んー、特にない……かな」
「……そう言えば前に悪霊みたいなの食べようとしてたよな」
聖陽ちゃんがヘンになっちゃった時のだね。
そう言おうとして、言葉を飲み込む。頭に浮かんだ事を、すぐに言葉に出してはいけないと、よく主様にも言われている。それが言っても良い言葉なのか、言ったらダメな言葉なのか、よく考えてから言わないと余計な厄介ごとに巻き込まれる事がある。
千影は小さな淡い色の唇をキュっとすぼめてよく考えた後で、心に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
「……千影にだけは言われたくない」
むぅっと口をへの字に曲げた聖陽の横顔を見上げる。どうやらコレは言ってはいけないことだったらしい。
難しいな。
千影はニンゲンの複雑さや難しさを再確認すると、少しだけ反省した。……勿論、ほんのチョビっとだけ。
「チカ達はね、心を食べる獣なの。他の家の子はご主人様の感情をわけてもらってるの」
「感情?」
「うん、でもね、それってとってもご主人様の負担になるの。だから、普段はごはんに込められた気持ちも食べてるの。そうすれば、ご主人様の負担が減るんだよ」
「お供え物感覚ってことか?」
「チカの場合は、お供え物自体も食べるんだけどね」
千影は可愛らしく首を傾げると、胸の前で両手を合わせた。
「ししゃもに限らず、心のこもった物であれば、何でも美味しいんだよ。ソレはどんな心でも良いんだけど、やっぱりチカは優しい心が込められた物が好きかな」
楽しい心、優しい心、嬉しい心、そんな明るい気持ちが込められた食べ物は、甘くて柔らかくて、とても美味しい。身体の奥がポカポカするような、穏やかな気分になれる。
「あ、でも、このことはチカと聖陽ちゃんだけの秘密ね」
小指を差し出し、約束の誓いを立てる。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本――呑ましちゃうと、聖陽ちゃんが死んじゃうから、シシャモ千本買ってもらう。指きった」
ぷはっ。と、聖陽が吹き出す。
何故笑われたのか分からない千影が小首を傾げ、聖陽が何でもないと言いながら目尻を人差し指で拭う。
指きりなんて、久しぶりにやった。と、聖陽は遠い記憶に思いを馳せた。最後にやったのは、確か小学生くらいの時、対の少女と使命について話し合った時以来だった。
「まあ、確かに心がこもってる食事は美味しいよな」
「うん。丁寧に手間暇惜しまず料理したごはんが美味しいのといっしょだよ」
一瞬考え込むような素振りを見せた聖陽だったが、すぐに「そうか」と納得した様子で頷くと、千影の頭の上でモクモクと口を動かしている黒兎に目を向けた。
「もしかして、千影と一緒でシシャモが好物なのか?」
「違うよー。この子の好きな物はお漬物。ぬか漬けが好きなんだよねー」
聖陽の鮮やかな金色の目が見開かれ、驚いたようにパチパチと瞬いた。
夢の異界は、どこか足元が覚束なくてふわふわとした印象を受けた。
暑さも寒さも感じないそこは、摩訶不思議なもので埋め尽くされていた。お菓子の家に、チョコレートの出る噴水、ペガサスが軽快に走り、空には淡いピンク色の綿飴が浮かんでおり、空からは時折思い出したように甘いキャンディーが降って来る。
「すごーい、お菓子がいっぱい」
「お菓子の夢の国……か。胃がもたれるな」
「聖陽ちゃん、甘いもの嫌い?」
「嫌いではないが、これだけ多いとちょっとな……」
確かに、あの噴水のチョコレートを全部飲もうとしたら、気持ち悪くなってしまうかもしれない。千影は空に浮かぶ七色の虹を見上げながら、アレは何で出来ているのだろうかと考えた。透明で、キラキラしているところをみると飴のようだけれど、時々トロンと蕩けそうになっている。……色つきの水あめかな?
足元には蜂蜜色の飴とカラフルなゼリーが所狭しと並び、ビスケットで出来た道が真っ直ぐに奥の森へと続いている。どうやら、あの森はお菓子で出来ているわけではなさそうだ。
聖陽が真っ直ぐに森の中に入って行き、千影もソレに続く。先ほどまで明るかった世界がガラリと夜の影を帯び、空にはまん丸なお月様が輝いている。
「こっちは夜なんだね」
「ここでは時間の概念はないんだ。空は壁紙みたいなもんだから」
つまり、意味のない絵だということらしい。でも、水あめで出来た虹は綺麗だったな。そう思い出していたとき、千影の鼻先をふわりと花の匂いが掠めた。森の奥へと近づくにつれ、濃厚になっていく匂いに思わずむせ返りそうになる。
徐々に暗くなっていく空に反するように、光の粒が千影と聖陽の周りに集まってくる。小さな淡い光の粒は、よく見ると蛍のようだった。
「さすがにこれだけ大きいと不気味だな」
綻び始めている純白の花を見上げ、聖陽が渋い顔を浮かべる。開き始めている花弁の先からは淡い水色の光が零れ落ち、雨のように地面に降り注いでは溜まり、ピンポン玉くらいの大きさになるとゆらりと大きく揺らいでから溶けて消えてしまう。
千影はボンヤリとその幻想的な、それでいてどこか妖しい光景を見つめていた。花の香りが強くなり、蛍が淡い水色の光と戯れるように飛ぶ。千影のスカートが風に揺れ、チリンと服に着いた鈴が一つ高らかに鳴った時、彼女の瞳孔がキュっと細くなった。
少しだけ緩やかなクセのある髪に、フリルのついた黒いリボンが絡む。月下美人の甘い匂いが強い風にかき消され、楽しそうに飛んでいた蛍がピタリと動きを止める。
千影は立ち上がると、爪を長く伸ばした。隣で聖陽が「やっぱりコレだよ」と、呆れと諦めの滲んだ声で呟く。
「妖精が花から出てくるまであと少し……千影、頼めるか?」
「もちろん」
にっこり。安心して頼って良いよの意味を込めた笑顔をオトモダチに向け、千影は地を蹴った。
黒い影は、数自体は多い。けれど、一体一体はそれほど強くない。千影の爪が深く切り裂けば霧散してしまうほどの力しかない。
踊るように黒い影に飛びつき、左右に大きく爪を振るう。切っている感覚はなかった。冷たい何かが指先に触れると、目の前にいた人型の黒い影が一瞬にして崩れ去ってしまう。
千影は無心になって黒い影を切り裂いていった。指先から感じる冷たい感情は、怒りや憎しみ、悲しみなど、ニンゲンの負の感情ばかりだった。
「千影、もうそろそろ花が開くぞ」
聖陽の声に振り返った先、月下美人が大きく花開くと中から柔らかいピンク色の光を帯びた金髪の妖精が姿を現した。手のひらに乗るほど小さな妖精の背には七色に光る薄い羽があり、試すようにパタパタと軽く羽ばたかせると音もなく浮き上がった。
月下美人から淡い水色の光が空に向けて放たれ、蛍たちが光を追うように空へと飛んでいく。周囲に集まってきていた黒い影が光に驚いて消えて行き、ざわついていた森が静まり返る。ピンク色の妖精は踊るようにその場でクルクルと回ると、聖陽の顔の近くへ行き、千影の目の前に飛んできた。
スカイブルーの瞳が真っ直ぐに千影の瞳を見つめ、頭の中に温かな言葉が流れてくる。
『ありがとう』
鈴を転がしたような凛とした可憐な声に千影が「どういたしまして」と声をかけようとしたとき、パチンと音が鳴って異界がグニャリと歪んだ。
グルグルと回る世界が遠ざかり、気づいた時には千影と聖陽は出会った路地裏に立っていた。
空を見上げても、淡い水色の光も蛍もいない。水あめで出来た七色の虹もなく、青草の匂いを含んだ熱風が千影の髪を揺らす。
「不思議な場所だったねー」
「……そうだな」
どうやら異界から出る際に、回る世界を見ていたために酔ってしまったらしく、聖陽が青い顔でその場にしゃがみ込む。
千影は細い背中をトントンと優しく撫ぜながら、淡いピンクの妖精の綺麗な笑顔を思い出していた。
「あの妖精さん、なんの妖精さんだったんだろうねー」
「……あの色と良い、襲ってきた異形の負の感情と良い、おそらく恋愛関係だろ」
「そっかー。恋のキューピッドだったんだねー」
千影の小さな呟きに、アレは天使ではなく妖精だとツッコミを入れたかった聖陽だったが、ヘタに口を開けば言葉以外のものが零れ落ちてしまいそうで、グっと生唾と共に飲み込んだのだった。
END
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