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<東京怪談ノベル(シングル)>


無傷の女神





雨上がりの夜、住宅街の明かりがおぼろげに道を照らし始めたころ、
水嶋琴美は駅から自宅へ―――自宅と呼べる場所の一つへと帰るところだった。
周囲の人影はまばらだったが、琴美に気がついた者は誰もが息を飲み、慌ててそれを隠していた。

一方逆の方向から駅に向かって走っていた青年は、琴美の姿を見つけると、
わざとらしくも慌てて勢いを緩め、歩幅を狭めて歩き出した。
しっとりとした空気の中で、綻ぶ花のように、艶やな存在感を放ちながら歩く琴美の、
細い腰と長い髪が悩ましげに揺れる、その様子から目が離せない。

(仕事帰り、かな)

彼は琴美がスーツを着ているところは見たことがない。
今日の彼女も、白のブラウスとカーディガン、黒いスカートにブーツという装いだった。
どんなお仕事をされているんですか、という質問は頭の中でなら
何度も繰り返しているのだが、大胆に女性に声をかける意気地もなく、
未だ顔見知りすらなれてはいない。

(しかし、相変わらず奇麗な人だな…)

モデルじゃないかと思うのだが、どの雑誌にも載っていない。
高級ブランドの専属モデル?いや、案外事業家だったりして…。美容関係とか…。
あらゆる想定が広がるが、確認できる日は遠そうだ。
けれど艶のある黒い瞳で、まっすぐに前を向き、優雅に歩くその姿はまさしく…

(女神だよなぁ…)

何度目だろうか、ため息が出る。
そしてすれ違いざま、彼の目はブーツとスカートの白い隙間、
滑らかな曲線を描く琴美の太腿を捉えずにはいられなかった。
上品な薔薇の香りまで漂ってくる。この瞬間に青年の顔は崩壊した。
ああ、もしも彼女が、本当の彼女だったなら、という邪な妄想が頭をめぐる。

だが、彼にもわかっていた。
彼女が自分のものにはならないと。
琴美がまとう雰囲気は、それこそ女神のように、神秘的で力強い。
相手を自然と怯ませる、従わせるようなオーラを感じるのだ。
同時に妖しい色香まで漂い、虜になる男も女も多いことだろう。

最後にもう一度と琴美の方を振り返ると、彼にとって思わぬ事態が起きた。
目が合ったのだ。
全てを見透かすような黒い瞳が、青年の目を見つめている。
情けない顔がそのまま硬直し、一気に心臓が跳ね上がり、汗が吹き出す。
さぞ不審者に見えただろうに、琴美は唇に笑みを浮かべている。

そして母親が子どもをたしなめるような、姉が弟をからかうような眼差しに
射すくめられれば、喉からひゅうっと息が漏れた。
琴美はあっさりと振り返り行ってしまう。

彼はしばらく動けなかったが、ぎくしゃくと体の向きを変えると、
頭を抱えながらとぼとぼ歩き始めた。

なんて、みっともないところを!
しばらくこの道は歩けないと思いつつ、歩かないという選択肢は当然ないのだった。


彼は琴美が死体の山を作り上げた“仕事帰り”だという事を―――知る由もないのだから。




   ◆      ◆      ◆




翌朝、琴美はシーツに包まったまま朝がきたことを感じとった。
カーテン越しのやわらかな日差しが暖かい。
ゆっくりと身体を起こし、ずり下がっていたキャミソールの肩紐を引き上げる。
下着同然の格好だが、その様子さえも絵になった。

零れそうに豊かな胸元、くびれた腰、細長い腕と足。
男でも、女でも、目を奪わずにはいられない肢体だった。
傷も染みも、黒子すらない。肌理の細かな白い肌。

だが、彼女の同僚がこの光景を見たなら、おそらくは絶句していたことだろう。
“傷ひとつない”ことが、彼女の住む世界では異常だった。
血を血で洗う、世界の裏側に携わる仕事だというのに、
これほどまでに清らかで美しい身体のままでいられるものだろうか。

琴美はゆっくりと体を伸ばすと、身支度を整え始めた。
散らかっていない部屋を軽く掃除し、洗濯機を回す。
ポットで湯を沸かし、コーヒーを入れてからテレビを点けてみると、
映し出されたニュース番組は、先日近県でおこった火災事故を報じている。
王手の製薬会社が、実験トラブルにより研究所を炎上したとされるが、詳細は不明。
職員と思われる遺体が複数発見されているものの、
身元も現時点では不明だという。
ところどころブルーシートで覆われた研究所の風景が映し出され、
リポーターは淡々と企業の管理責任や近隣住民の不安、事件の疑いがあることを述べた。

朝のニュース番組ではよくあることだ。

テレビを消し、洗濯物を干すと、薄い化粧を施して着替える。
今日は久々の休日だ。一日家にこもっていることもない。
ああ、そうだ食材を買って来なければ。
そして、花も。
しばらくは休みだというから、枯らさずにすむだろう。




家を出て大通りに向かうと、平日だというのに買い物客が大勢うろついていた。
ブランドショップでバッグを見る女性、雑貨店でキッチン用品を見るカップル、
子連れの家族が談笑しながら歩いている。
琴美は人の流れに乗りながら、方々からの視線を受けながらも、行きつけの小さなパン屋に向かった。
大通りの角を曲がり細道に入ったその奥の衣服店、この地下に店はある。

モダンなデザインの木造ドアが開くと、様々な種類のパンがディスプレイされていた。
隠れ家的な場所ではあったが、琴美以外にすでに四、五名の客がおり、
白い服に身を包んだ店員がパンをサーブしている。

「いらっしゃいませ!」

明るく琴美に微笑みかけてきたのは、大学生くらいに見える若い女性だった。
ベリーショートの髪に、小動物のようなくりんとした眼が愛らしい。

「こんにちは、いつものバゲットはあるかしら?」
「ええ、あと3本残ってますから。
 それに新作もありますよ、生チョコレートのデザートパン。おすすめです」

じゃあそれを、と言うと彼女はキビキビとした動作でパンを運んできた。

「紅茶を練りこんだパン、食べて下さいね。一緒に入れときますから。
 私の試作品でさっき焼けたんです。
 お姉さんがおいしいって言ってくれたら商品化しようかな」
「まあ、あなたの作るものなら間違いないわ。感想を待たずにお店に並べてくださいな」

パンが入った紙袋を受取ると、手に暖かさが伝わってくる。
礼を言い、互いに名前は知らないものの顔なじみの彼女と別れ、琴美は次に花屋に向かった。

こちらも大通りとは逸れた場所にあり、どこからどう見ても花屋ではなかった。
塀に囲まれた昔ながらの日本家屋だ。

「こんにちは」

呼び鈴を押してからドアを開け、暗い廊下の奥に向かって大きめの声を投げかけると、
入っておいで、という低く優しげな返事が聞こえてきた。
廊下ではなく庭に回ると、紺色のエプロンをした初老の男性が、
色とりどりの花に水を蒔いているところだった。
その景色はまさに花園。そして菜園でもあるらしく、
ハーブや野菜の実りまでみてとれる。

「お嬢さんかな」
「お久しぶりですね。お元気でしたか」
「ああ、元気でやっとるよ」

老人は振り向きもせず、ホースを持つ手を動かしていた。
琴美は縁側にそっと腰かける。

「どうだい、仕事は」
「順調ですわ。とっても」
「そうかい」

水をやり終えると老人はポケットから鋏を取り出し、赤く実ったトマトを摘み取る。
バジルにローズマリー、料理に使えそうな香草も摘んで紙袋に放り込んだ。
そして今度はごく薄い紅色の薔薇に近づくと、つぼみや咲き始めのものを選んで、
刺を落とし始めた。

「お嬢さんは、今の仕事が好きかね?」
「ええ」

「そうかい。じゃあ、今度はもっと大きいことをやってみなさい。
 今までにないことをね」

花束と、野菜の入った紙袋を差し出し、老人は優しく微笑んだ。
花や野菜を育てることが大好きなこの老人とは、
琴美の仕事について詳しい話をしたことが一度もない。ただの一度もだ。




   ◆      ◆      ◆





夕暮れ時、家に戻るとテーブルの上には白い封筒が置かれていた。
鍵をかけて出かけたというのに、さも当然のようにそこにある。
琴美は荷物を置くと、クスクス笑いながら封筒を手に取った。
中のカードには単語が書かれ、俳句のような、不思議な文章になっている。
が、十分に意味は伝わった。

「無粋だこと。今日はお休みですのにね」

連休をもらったはすなのに、もう声がかかるとは、本当に人使いの荒い職場だ。

さて、この手紙を処分するためにキッチンに向かおうかと思ったが、
琴美はソファに身を任せたまま、くるりと手首を閃かせた。

その瞬間、封筒もその中身も散り散りになり、薄い紙くずになってしまう。
いや、くずというより、糸にされたのだ。
繊維状に切り刻まれた紙は、ふわふわと流れてあたりに広がった。




水島琴美ーーー自衛隊の特務統合機動課に所属する特殊部隊の一人。
その実力は、まさに忍者とも魔女とも呼べる程だった。

彼女の体に傷がつくとすれば、それがいつのことになるかは、
まさに彼女のみぞ知るところだろう。