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■共に往く者
一台の黒塗りのベンツが、よく磨かれた車体に風景を映しながら東京の中心地を走り抜ける。
その後部座席にて、すらりとした長い足を組みながら楊・黎耀は手渡された『庭名会』の資料を若干拍子抜けしたような顔で眺めていた。
「――永く続く極道のトップが、ついには知識も経験もなさそうなお嬢ちゃんになったとはねェ……」
書類と一緒にクリップで留めてある、若干ピンぼけした写真を見つめながら、楊は鼻を鳴らした。
「相次いで祖父・父親……庭名会『会長』が他界しまして、今までひた隠しにされてきたこの少女が『現会長』であるようです」
助手席に座っていた男が、楊のほうへ肩越しに顔を向けて補足を入れるも、楊は男にややきつい眼差しを向けた。
「阿呆。書いてあることは読みゃ判ンだよ」
「はっ。すみません……!」
楊を不快な気分にさせたと思ったのだろう。
背筋をまっすぐ伸ばした黒服は頭を下げる。
緊張した声を右から左に聞き流しながら、楊は部下ではなく――優しく微笑んでいるらしい少女のぼやけた笑顔を見ながらため息を吐く。
(この子にはさァ、一体どんな『図』があったのかねェ……)
人が幸せになどなれぬ、そんな世界に何を望むのか。
興味があるわけでもなく、楊はふと、そう思った。
――やがて、車は雑多な街並みへと入っていく。
下品な色や内容で彩られた看板、ゴミのすえた臭いが漂ういくつかの路地を過ぎていく。
車のスピードが徐々に緩められ、やがて一つの建物の前でゆっくり止まる。
「到着しました。このビルです」
スモークフィルムを貼った車中からでは色の判別はつきにくいだろうが、グレーの小綺麗なコンクリートビルの前だった。
建物の窓にはミラーガラスが使用されていて、偏光と外からの覗きに対しても有効なようだ。
金属プレート式の看板には、はっきり『庭名会』と明記されている。
助手席から急ぎ降りた部下が、楊のいる座席の扉を開く。
降りてから日の光を反射する高層ビルを、まぶしそうに眼を細めて仰ぎ見てからすぐに、颯爽とロビーへ向かい歩きだした。
楊の左手には贈り物と思わしき豪華な花束が握られている。
警戒の意味もあって入り口付近に立っていた、下っ端と思わしき若い男2人が楊をじろじろと無遠慮に眺めるが、そんな視線如きで怯むような楊ではない。
睨まれたところで、階段の予定通りではあるし、楊自身正面切って入ることは当然だと思っている。やましい気持ちなどは全くない。
絡みつく視線を無視し、ロビーへ向かっている楊は思わず歩みを止め、対向から来る人物に目を見張った。
(あれは……)
首に掛かる程度の黒髪。瞳には慈愛の色を帯びた少女が、両脇を屈強な男に守られてこちらへと歩いてくる。
写真の少女だということはすぐに分かったが、貼付の写真は少々ピンぼけしたせいもあって表情は虚ろにも見えたが、
実際こうして出会った少女は――……とても愛らしく、この世界におよそ似つかわしくないものだった。
だが、楊には、その少女が全く別のものに……見えたのだ。
激しい動揺を感じながらも表面には出さず、楊はその場から動かぬまま少女のみを眼で捕らえ、少女……庭名・紫もまっすぐ楊を見つめ返す。
「『庭名会』七代目会長、庭名・紫と申します。
楊・黎耀さん……ですね。本日はこうしてお越し頂き……ありがとうございます」
鈴の音のように清涼感のある、可愛らしい声が響いた。
言い終わると少女は儚げに微笑み、頭を深々と下げる。
楊はいつものように『ご丁寧な対応、ありがたいねェ』と飄々としつつも……心のざわめきを抑えることは出来なかった。
「どうぞ、応接室へ」
紫はすっと手で方向を示し、自ら先に立って案内する。
■会談
案内された応接室は、既にえもいわれぬ緊張感で満たされていた。
無機質な蛍光灯の光が狭い部屋を照らし、
その下で視線を交わらせ続けるのは、中国系マフィア『九龍』の幹部である楊。
そして、『庭名会』の若き会長である庭名。
「――わざわざ、会長直々にお出迎えとご挨拶してくださるたァ思わなかったぜ。時間にゃ正確だと思ってるが……そんなに待たせちまったかねェ?」
紫の姿に動揺を感じているとはっきり認識しつつも、楊は口角をつり上げていつものシニカルな笑みを庭名会の長へと向ける。
しかし、紫はいいえと言いつつ首を振り、楊の瞳をしっかり見据えて逸らさない。
「歓迎の意もありますし、私自身がそうしたかったからです」
紫の両脇、そして彼女の座っているソファの後ろ――もう2人が立っている。
可憐な少女の傍ら、楊から手土産にと送られた花束は彼らが受け取ったのだが、
強面の男たちが楊らを睨みつける様はとても異質であり、張り詰めたものが一気に破裂するような危うさを持っている。
しかしこの中でも、紫は目を逸らすことなく――このような状況で悠然と構える楊を見据え、言葉ひとつも慎重に選ばねばならぬような空気に置かれていた。
場つなぎにと口に運ぶカップは震え、紅茶の表面が波立っているのも楊は見逃さない。
気丈に振舞っていても、やはり緊張や恐怖といったものとも戦っているらしい。
この世界で隙を見せればたちまち喰われる。さながら、暴風に怯える雛鳥、といったところか。
こくりと白い喉が一度動き、カップを置いた紫は……小さく息を吸い、ゆっくりと楊へ尋ねた。
「成長著しい『九龍』が『庭名会』へ、どのようなお話なのでしょうか……」
紫が会談の意図を尋ね、楊はすぅと眼を細めた。
「結論から言やァ、アンタら庭名会への助力を申し出に来たのサ。
おっと、勘違いすんじゃ無いぜェ。助力ッたッて、精々相談役程度だ。全面協力じゃないよ」
愛用の煙管を取り出し、軽く掲げて吸って良いかという許可を求めると、紫はどうぞと手で合図した。
「アンタらがあの組と抗争中、ッてのも耳に入ってる。
いくら経験がある連中が居たって、就任したばっかりじゃ会長サンも不慣れな面が多いだろォ?」
東京という小さいながらも強大な力を持つ場所の勢力争いに、庭名会ともう一つの勢力が共に戦っているのを聞きつけた楊は、
当初は双方が疲弊した頃を狙い、乗り出して一掃するという手はずだったが――……。
庭名会の七代目が少女だという情報を耳に入れ、すぐにその計画を修正し、庭名会へと会談の話を自ら持ちかけたのだった。
「――……流石に、御存知ですね。確かに、私は見るもの聞くもの初めてのものが多く、戸惑うことも多くあります……」
そうして軽く唇を噛んだ紫を見据えながらも、楊は紫や後ろの男どもの挙動を観察していた。
「お言葉は大変嬉しく思います――しかしながら、そうは仰っても『九龍』がこの東京で勢力争いに興味が無いとは思えません。
御考えあっての申し出だとは思いますが、はっきり申し上げます。この庭名の街は――私が継ぎます」
きゅっとセーラー服のスカートを握りこみ、こみ上げる恐怖を押し隠しながら紫は凛とした姿勢で楊に己の考えを述べた。
一瞬空気の質が変わったように思えたが、楊は『それでいいんじゃねェの』と楽しそうに呵呵大笑し、敵か味方か分からぬような言葉を投げかけた。
「自分らのシマを、自分らで守るのは当然だろォ? 俺らが相談役としてド素人の会長さんに協力するってのは悪くないと思うンだがなァ?」
ド素人、に後ろの男たちが反応したが、紫が首を横に振って静止すると、渋々とその怒りを収める。
紫は真剣に言葉の意味を吟味し、楊の眼を見据える。真意を探っているのだろう。
事前に吹きこまれたかはともかく、やり取りからして頭の回転は悪くないようだ。
「見返りがどうか、って考えてるようだが……アンタらがどう思うかは別として、俺らは何のこたァない、ほんの気まぐれでねェ。気が変わらないうちに、決めてくれるといいんだが」
「――このシマの事は、二の次……というわけですか……? なぜ、そうして私たちのことを……?」
花街があった頃の繁栄はなくなったが、まだ歓楽街などでの収益や組合への権力は多大にある。
それは彼らにも魅力的に映るはずだ。疑問に感じた紫が尋ねてくるも、楊はフッと笑った。
「別に、義理や理由なんざないさァ。このまま勢力争いに巻き込まれるんじゃ、面白くもない。多少でもフェアじゃねェとやり甲斐もないだろ?」
先程から心を乱す理由――己の亡き妹の姿を、紫と重ねあわせたとはいえ――私情を挟むほど楊は弱くもないし、
甘い生き方はしていない。それが命取りになることも十分知っている。だから、本当に――気まぐれからの産物だ。
長い時間と感じるほどに紫は楊を見据えていたが、やがて深々と頭を垂れた。
「……今後、よろしくお願い致します」
決まりだな、と煙管から紫煙をくゆらせる楊は、ニッと笑って席を立った。
「また詳しい内容はこちらから持ってくる。
会長サン、アンタのその細腕で、どれだけのことができるのか楽しみだ。
いいかい、アンタの部下は、組じゃなくアンタに命捧げてンだよ。
くだらねェ事で潰されねェよう、気張って行きなァ?」
「……はい、私が――名を汚すことないよう継がせていただきます。
至らぬところもありますが、粉骨砕身励みます。
今回、このようなお話を持ちかけていただき、深謝致します……」
再び頭を下げた紫に、楊は眼を細め、若干苦しげに見えるような表情をしたかと思うと……次の瞬間には、いつもの表情に戻っていた。
くるりと背を向け、ひらひらと紫へ向かって軽く手を挙げながら立ち去っていく。
その姿が見えなくなるまで、紫はそこから動かなかった。
――その後、楊から紫へ、一本の連絡が入った。
『九龍』は、『庭名会』への協力を申し出る、という内容で――事実上、双方は同盟を締結させたのだった。
-end-
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