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ループ
繭から出たあたしは、身体に違和感があった。
生温い泥の中に沈んでいくような気分なのだ。
否、この表現は正確ではない。
(欲望の沼に身体が沈みこんでいくような――)
意識の中で、足をつけて立っていても、ズブズブと沼の底へと引き込まれていく。魅力的な欲望だ。
欲望とは何か?
それは勿論天使の、
(だめ、足を取られる……!)
ぐるり、
と身体が回転して、あたしは畳に倒れ込んだ。
繭から解放されて、人間のモノに戻っていたあたしの足が、再び羽に覆われていた。
以前より酷い。羽の塊そのものだった。
(芯、がない。完全に)
あたしの足だった筈の塊は、今やあたしのため息一つでフワフワと揺れている。
足として全くの役立たずの存在。
(それがどうしてこんなに心地良いの?)
足の指だったところ――羽の先っぽから始まって、足の甲だったところ、ふくらはぎの膨らみへと蕩けていきそうな感覚が走っている。
痛みさえ感じない。
(これは“揺らぎ”)
意識の揺らぎだ。寄せては返す、反しながらじわじわと寄せてくる、天使の欲望なのだ。
(だめ……)
太ももまで、揺らいだ。
くっついていた両足の太ももが、羽の重なり合いになって。急激にくすぐったくなる。
「……ふふ」
小さな笑い声を零し、足を少し開いてしまうと、今度はその刺激で足の付け根が揺らいだ。
――あたしの身体に何が起きているんだろう?
上半身だけで這いずって鏡の前に行くと、奇妙な姿が映っていた。
下半身は雪のように白い塊と化している。
反して、上半身はと言えば、ヒトの形をしていた。薄くなった肌に一つ一つの羽が折り畳まれた、天使病の姿をしていたけれど。
(どういうこと?)
上も下も天使病に冒されているのは同じ筈なのに。
形が違う。感覚が違う。
ここには二つの天使病がある。
(わからない)
……沼へ引きずりこまれていく。
腰が蕩けていったので、あたしは心の中で呟いた。
(……また、揺らいだ)
――舌の上に違和感がある。
また羽が生えてくるのかもしれない――ぼんやりした頭で、あたしは思った。
ぼんやりしていたのは、眠かったからだ。
数時間前の出来事で疲れていたのだろう。
(だめよ。天使病に冒されている最中なんだから……)
(こんな……ところで……寝たら……)
精神も、肉体も、奮い立たせようとしたけど、どちらも蜜蝋のように溶けて混じり合い、形をなさなかった。
あたしは眠りに落ちていく――……。
夢の中で、あたしは大きな白い塊になっていた。
隣には、風になったもう一人のあたしがいた。
風のあたしが、その白い塊へ息を吹きかけると、表面がぶるぶると震え出した。
それは、一つの物体ではなく、小さな羽の集まりだったからだ。
きもちがわるい、とか、きみがわるい、とは思わなかった。
あたしは、受け入れていたのだ。自分が羽の集合体であるという事実を。
でも、風であるあたしは、その受け止め方を普通とは思わなかった。
きっと、羽のあたしはあたまの中まで羽でおかされてしまったからだと、考えていた。
のうまで羽になったら、もうきみがわるいかそうじゃないかの判断さえつかないんだと、ぼんやりと、思った。
……ぼんやりと。
耳障りな機械音で、目が覚めた。
上半身だけでも起き上ろうとして、崩れ落ちた。腕が、羽の塊になっていたからだった。
崩れ落ちても、痛くなかった。もうぶつけて痛む胸がなかった。そこは白い羽で覆われていたからだ。
ほとんど、芯のない、身体になってしまった。
それでも、首や顔は、残っていた。
首まで羽になってしまっては、頭を支えられない。
頭まで羽になってしまっては、もう、考える力さえなくなってしまうかもしれない。畳の上をコロコロと転がるだけの、しろいしろい、物体になってしまうかもしれない。天使なんて、名ばかりの。
眠っている間に、そんな酷いことに陥らずに済んだのは、ケリュケイオンのお陰だろう。本能で、回避してくれたのだ。
最近は、無意識に発動出来るようになってきたのか、あの耳障りな音も意識しなくなっていた。だから、久々に音を聞いた気がする。
――大きく深呼吸をした。
腕の付け根から、肘、手首へと、ゆっくりと肌の内側へ羽を仕舞い込んでいく。
きちんと、ていねいに、一枚一枚の羽を畳み込み、皮膚が膨らまないように注意した。
胸も同じように。徐々に、身体が重くなり、弾力のある肌に戻っていく。
繭になったときと違って、あたしはとても、れいせいだった。
足の裏まで羽を肌の中へ畳み込むと、あたしは鏡に肌を押し付けた。
鏡のひんやりとした、硬い感触が肌に当たった。皮膚の内側で、僅かに羽がざわめいていた。
あたしの顔は鏡の間近にあった。
……あたしは、とても、れいせいだった。
だから、さっきから一つの疑問が湧き出ていて。
こつん、と鏡に頬を当てて、心の中で問いかけた。
あたしの、のうは、羽におかされていないだろうか?
――足の指先が、ジリジリと、疼き出していた。
終。
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