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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


悠久懐古。

 懐かしい名前だった。懐かしい――否、そんな安っぽい言葉では表せないほど、彼にとって大切な名前。大切な思い出を彩る、大切な少女の名前。
 胸の中に今も宿る、その想い出はいつでも鮮やかに脳裏に蘇る。そのたび、まるでそれが昨日の事だったかのように彼の心を落ち着かせ、知らず口の端に柔らかな笑みを浮かべさせるのだ。
 大切な、大切な――鮮やかで、かけがえのない。
 それは、そう、ちょうど今から2年ほど前のことだった。





 鳥井・糺(とりい・ただす)がその病院に足を運んだのは、彼自身がどこか怪我をしたから、という理由ではなかった。といってもちろん、単なる散歩で足を伸ばしたというわけでもなく。
 病院の中庭が見下ろせる4人部屋の中、窓際にあるベッドの傍らに置かれた丸椅子に座り、糺はベッドの主に冷たい眼差しを向けた。

「木から落ちて足を折るとか、どこの小学生だ」
「う‥‥ッ!?」

 その、眼差し以上に冷たい物言いに、全力で目を逸らす友人に大きな、大きなため息を吐く。とはいえ、前言を撤回する気にはなれない。
 糺と同じ学校に通う彼が授業中に救急車で運ばれ、そのまま入院したと聞いて、一体何事かと駆けつけてみれば、授業をサボって木の上でのんびりしていた所を見つかり、焦った拍子に落ちて両足を折ったというのだから、嫌味の1つも言いたくなるというものだ。むしろ、正面切っておまえは馬鹿かと罵らなかっただけ、優しいものだと感謝して欲しいくらいである。
 ゆえに冷たい、冷たい眼差しになる糺の前で、友人はベッドの中で小さくなった。けれどもすぐに立ち直り、にかっと笑って「いやぁ、思いがけず堂々と学校が休めてラッキーだな!」などとほざく。
 この男に、反省という文字はないのだろうか。糺がそう思ったのも、無理からぬことで。

「そのまま、休み過ぎて留年すんなよ」
「えッ!? 怪我で休みも留年すんのかよ!?」
「するに決まってるだろうが、馬鹿」

 せっかく(?)木から落ちたというのに、その程度では友人の極楽泰平は治らなかったようである。心底呆れたため息を吐き、糺は「それじゃあな」と言い捨て、病室を後にした。
 真っ白な壁に覆われた、清潔感の溢れる廊下を、歩く。病院によってはこの白がひどく息苦しく、押し潰されそうな圧迫感すら覚えるものだけれども、幸いこの病院は同じ白でもどこか柔らかく、広々とした印象を与えていた。
 時折すれ違うのは、ピンクのナース服を着た看護師や、点滴台をガラガラと押す入院患者。それから花や、どこかのスイーツショップの紙袋を提げた、糺のような見舞客。
 そんな人々を見るでもなく横目で見ながら、糺はカツカツと靴を鳴らし、入り口へと向かう。また気が向いたら来てやっても良いかもしれないが、糺もそうそう暇ではない。折った足以外はぴんしゃんしているのだから、退院するまで放っておこう。
 心の中でそう決意し、曲がり角を折れた所で、前方から歩いてくる少女に気がついた。やはり入院しているのだろう、清潔な白の寝巻きに包まれた、ほっそりとした肢体がどこか、頼りない。

(‥‥あれ、大丈夫か?)

 思わずそう、心配してしまったのは、彼女があまりにもほっそりとして儚げな風情だったから、ではなかった。いや、もしかしたらそれも幾らかは理由のうちに入っていたかもしれないが、そういったところは思い返してみれば、あとから気付いたようにも思う。
 年のころは14〜15歳ぐらいだろうか。見るからに頼りない足取りで、壁にすがる様に両手を当てながらふらり、ふらりと歩いてくる少女は、どう贔屓目に見てもまともな状態じゃない。
 誰か、看護師を呼んだほうが良いんじゃないだろうか。そう思って辺りを見回しているうちにも少女は、ふらつきながらゆっくりと糺の方へと近付いてくる。
 そうして――

「ぁ‥‥」
「おい‥‥ッ!?」

 ちょうど糺の横を通り過ぎようとして、ついに力尽きたように少女は、儚い吐息を零して大きく身体を揺らした。思わず少女の身体を支え、意識を失ったのかと真っ白な顔を覗き込むと、僅かにまぶたが開き、焦点の合っていない瞳がぼんやりと糺の方へと向けられる。
 すみません、と小さな声で謝った少女の身体は、見た目どおりにひどく軽く感じられた。頼りなく糺の腕に支えられたまま、立ち上がるそぶりも見えない。
 動けるかと、聞くまでもなかった。ふぅ、と小さなため息を吐いて、糺は少女をひょいと、姫抱きに腕に抱き上げる。

「病室は?」
「西病棟の――」

 そうして、再びぐったりとまぶたを閉じて、抱かれた糺の胸に力なく頭をもたせ掛けた少女の、告げるままに糺は真っ白な病院の中を歩き出した。通りがかった看護師が、2人の姿を見た瞬間目を丸くして「庭名さん! また倒れたの!?」と糺の腕の中の少女に呼びかける。
 その名に、引っかかりはしたものの立ち止まらず、糺は医師を呼ぶようにだけ依頼し、少女の告げた病室へとまっすぐ向かった。どうしてだろう、ここで看護師がストレッチャーを押して来るのを待つ気には、なれなくて。
 ――それが彼と、庭名・紫(にわな・ゆかり)という少女の出会いだった。





 ぐったりとした紫を病室のベッドに寝かせたあと、糺は何となく気になってそのまま、紫のベッドの傍らに座り、きょろきょろと病室の中を見回しながら、医師の訪れを待った。紫の病室は友人とは違って個室で、それも恐らくは比較的上等な類であろうと思われ、それが意外でもあり、それでいて奇妙に納得出来る。
 恐らく紫は、どこぞの金持ちの箱入り娘なのだろう、と思った。そう思えば彼女の雰囲気もどこか、上品で柔らかなものに感じられて。
 だが、ほんの僅かな違和感。それがなんなのだろうと考えているうち、医師が先ほどの看護師と一緒にやってきて、その場に居た糺にほんの少しだけ意外そうな顔をする。

「倒れた庭名さんを運んでくれたんですよ」
「ああ‥‥」

 だが看護師の説明に一つ頷き、その頃にはようやく身体を起こして応対出来るほどに回復した紫を診察した医師は、貧血だろうと診断した。そうして、しっかりと食事と睡眠を取るように、と一通りの注意をして去っていく。
 とくに問題もないようなら、糺もいつまでも紫の病室に居座っているわけには行かなかった。成り行きで彼女を運び、ここまで来てしまったが、そもそも彼女とは初対面なのだ。
 ひょい、と足元に置いた薄っぺらいカバンを手に取り、友人の病室の安っぽい丸椅子よりはずっと座り心地の良い、付き添い用のサイドチェアーから腰を上げる。そうして、ベッドの上の紫を見下ろして。
 ぁ、と弾かれたように見上げてきた彼女の、揺れる眼差しと、ぶつかった。

「ぁ、あの‥‥運んで下さって、ありがとうございました」
「ああ、うん‥‥」

 しばし瞳を揺らした後、ふっと何かを切り替えるようにふわりと柔らかく微笑んで、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた彼女に、曖昧に頷く。どうしてだろう――ベッドの名札にも書かれていた通り、14歳にしては随分としっかりとした挨拶で、それがなんだか不思議で。
 だが、その違和感を明確に言葉にすることは出来ず、糺はただ「気をつけてな」と当たり障りのない言葉だけを残して帰宅した。帰宅して、自室のベッドの上に乱暴にカバンを放り出して、また紫の事を、紫の眼差しの事を考えて。

(‥‥あぁ、そうか)

 あの、ふわりと柔らかく、透明な――寂しさを覆い隠した笑顔。糺が帰ることを察したとき、弾かれたように見上げた彼女の眼差しは確かに、もう帰ってしまうのかと、寂しげに揺れていたのに――それをただの一言も口にすることなく、紫は柔らかく笑ったのだ。
 初対面だから、ではないだろう。きっと彼女はそうやって、寂しさを恒常的に感じ、そうしてそれを口にする事を恒常的に己に禁じているのだろう。
 だからこそ、あんなにも柔らかく――あんなにも自然に、寂しさを押し殺して、押し殺していることすら悟らせぬように――もしかしたら紫自身もそれに気付かず、「ありがとうございました」と笑えたのだ、ろう。
 それは、糺の勝手な想像かもしれなかった。けれども糺は病室を出てからも、病院がすっかり見えなくなるまでいつまでも、紫の追いかけてくる眼差しを感じていたように思ったから。

(庭名、紫‥‥か。‥‥また、様子を見に行ってみるか)

 ごろり、ベッドの上で転がり、そう思った。幸い、あの救いようもなく馬鹿な友人は、まだまだあの病院に厄介になりそうだった。





 紫はあまり、友人というものが居ない。人付き合いが苦手というわけではなく、ただ単純に、友人が出来るほどに人と接することが少ないのだ。
 幼い頃から身体が弱く、入退院を繰り返してばかりの紫だから、たとえ一時仲良くなったとしても、すぐに疎遠になってしまう。病院でだって、年頃の近い入院患者と話すことはあっても、結局退院すれば疎遠になってしまいがちだ。
 だから、ふとした縁で時折お見舞いにやって来てくれる様になった、鳥井糺という学生の存在を、紫は心から喜んでいた。

「紫。今日は調子はどうだ?」
「糺さん!」

 いつも、ノックは2回。それからがらりと病室のドアを開き、ひょいと顔を出した糺を見て、紫はぱっと顔を明るくする。
 ゆっくりとベッドの上に身体を起こすと、糺がリクライニングを上げてくれた。そうして枕をいくつか背中に挟み、楽な体勢に整えるのを、彼はちょっとだけ不器用に、けれども黙々と手伝ってくれる。
 優しいお兄さんだな、と思う。通りすがり、廊下で貧血で倒れてしまった紫を抱き上げて運んでくれたのもそうだし、それからちょくちょくと顔を出してくれるのもそうだし。
 同じ病院に学校のお友達が入院しているとかで、そのお見舞いのついでにと足を伸ばしてくれるなんて、なんて優しいお兄さんなんだろう。きっと糺のお友達だというその人も、糺と同じ位に優しくて素敵なお兄さんなんだろうな、と紫はほっこり考えていた――なぜか糺が病室を教えてくれないので、未だに紫はどんな人なのか知らないのだけれども。
 知らず、にこにこと笑顔になる紫を見ながら、糺がもはや定位置となったサイドチェアーに腰を下ろし、ひょい、と軽く首をかしげる。それからカバンをぱちんと開けて、中から可愛らしいショップのロゴが印刷された、ビニール袋を取り出した。

「ほら、紫。今日のお見舞い」
「ありがとうございます。‥‥うわぁ、可愛いメモ帳ですね」
「こないだのシャーペンとお揃い」
「え? ぁ、ホントだ! ありがとうございます、大切にしますね」

 ビニール袋の中を覗き込み、可愛らしいデザインのメモ帳に目を輝かせると、糺がぶっきらぼうにそう言った。サイドテーブルの引き出しから、やはり糺がお見舞いにとくれた可愛らしいシャーペンを取り出して見比べそう言うと、使わなきゃ意味ないだろ、と苦笑が返る。
 けれども紫にとっては、糺がくれた可愛らしいメモ帳も、シャーペンも、消しゴムやノートだって、全部大切な宝物だった。退院してまた学校に行けるようになったって、もったいなくて絶対に使えやしない。
 だから、大切にしますね、とまた微笑んで丁寧にサイドテーブルへと仕舞う。入っていた可愛らしいビニール袋も、丁寧にたたんでその隣にそっと仕舞った。
 その様子を、苦笑しながらも糺は何も言わずにただ、見守ってくれる。そうして紫が彼へと向き直ると、ちょっとだけ笑って、学校であった事を話してくれるのだ。

「もうすぐ夏休みだから、今日は馬鹿みたいに課題が出た」
「高校の夏休みの宿題って、大変なんですか?」
「それなりに。紫はさっさと片付けるタイプっぽいよな」
「あまり、出かけたり出来ませんから」

 糺の言葉に、紫は笑ってそう答えた。それは紫にとって、生まれた時から当たり前に過ぎない事実だった。
 学校の課題自体は、担任の先生が届けてくれる。けれども身体の弱い紫は、長期休みだからといってたまに会う父とどこかに出かけるなんて事も出来ず、他にやることもないため黙々と課題をこなしている、というだけの話である。
 とはいえ、たとえもう少しばかり身体が丈夫だったとしても、忙しい父に外出をねだったりはやはり、出来なかったに違いないけれど――
 そう言うと、糺はほんの少しだけ複雑な表情を浮かべ、そうか、と呟いた。それからふと時計に目をやると、足元に置いた薄っぺらいカバンをひょい、と取り上げる。
 もう帰ってしまうのか、と紫はほんの少しだけ、残念な気持ちで糺の行動を見守った。糺がお見舞いに来てくれるのが本当に嬉しくて、糺の話を聞くのは、それは勿論紫にはちっとも想像のつかない高校の話とはいえ、聞いているだけでもすごく楽しいから、いつも、この瞬間が来ると寂しくて、もっと居てくれればいいのに、という気持ちが込み上げてくる。
 けれども、それは紫のわがままだと解っているから、何も言わない。それに、きっと高校で忙しくて、お友達のお見舞いでも大変な中、紫のお見舞いにまで来てくれて、いつも可愛いお見舞いの品をくれることに、心から感謝もしている。
 だから黙ってじっと見ていたら、立ち上がった糺がひょい、と紫を見下ろした。にこ、と微笑むと、かすかな微笑が返る。

「――また明後日、来るから」
「‥‥はい! 糺さん、お気をつけて」

 そうして、次の約束をくれた彼に紫は、心からの笑顔を浮かべて大きく頷いた。明後日にまた糺が来ると、思うだけで心から嬉しくて、早く明後日になれば良いのにな、と思う。
 病室を出て行った糺と、入れ替わりに看護師さんがやってきて、検温の時間よ、と体温計を差し出した。そうして悪戯めいた眼差しで、ねえ、と言う。

「彼、良く来るわね。紫ちゃんの素敵な人?」
「ち‥‥、違います! 糺さんは、お友達のお見舞いのついでに、来て下さるんです」
「あら、だって、前に紫ちゃんが倒れた時、お姫様抱っこで運んでくれた王子様でしょ?」
「お、王子様‥‥ッ」

 看護師さんのからかう言葉に、紫は真っ赤になって両手をぱたぱた大きく振った。その拍子に体温計がずれそうになって、コラ、と軽く睨まれ首を竦める。
 しっかりと体温計を脇に挟みなおしてから、看護師さんの言葉を反芻し、また紫は真っ赤になって「違います」と消え入りそうに呟いた。その眼差しは、けれども次第に寂しげなものになっていく。
 紫が退院したら、或いは糺の友人が退院したら、きっとこの縁もまた途切れてしまうのだろう。それは紫が今まで、何度も通り過ぎてきた現実だ。
 それでもだからこそ、今この時に糺と出会えたことが、嬉しい。あんなに優しくて良い人と出会えて、そうしてその糺に親切を向けてもらえることが、心から嬉しい。
 ピピッ、と短く体温計が鳴った。脇の下から取り出して看護師さんに差し出すと、デジタル表示をちらりと見た彼女は手に持った表にそれを書き込み、体温計をポケットに仕舞う。
 それから、ぽふり、と紫の頭を撫でてくれた。

「次に来てくれるのが、楽しみね?」
「――はい」

 そうしてくれた優しい言葉を噛み締めて、ふうわり微笑み、紫は頷く。本当に本当に、いつの頃からか、紫は糺がやって来るのを心から楽しみにしていたのだった。





 元々可愛いものは好きな方だから、幸い、見舞いの品には困らなかった。むしろ、次は紫にどんなものを持っていってやろうと、ファンシーショップであれこれ眺めるのが楽しいくらいだ。
 今日も今日とて見舞いの品を携えて、糺は病院を訪れていた。まずは友人の顔を見て、それから紫の病室へと向かうのが、ここしばらくの間ですっかり糺の身に染み付いた習慣だ。
 ひょい、と4人部屋の一番奥のベッドに居座る友人の元に顔を出すと、マンガ雑誌を読んでいた彼は、おう、と視線を上げた。それから糺が小脇に抱えたものを見て、面白そうにニヤニヤ笑う。

「今日はえらく大物だな?」
「ああ。紫が喜びそうな熊のぬいぐるみがあったからな」

 可愛らしくラッピングされた包みをぽん、と叩きながらそういうと、なるほど、と友人は頷きマンガ雑誌を枕の脇に伏せた。もう少しで、両足を覆うギプスの一部が取れるらしい。
 着実に治ってきている、という医師の診断結果を得々と語る友人の言葉を半ば以上聞き流し、話の途切れた所で「じゃあな」と席を立つ。すると友人はまた、面白そうなニヤニヤ顔になった。

「なあ、鳥井」
「なんだ?」
「お前、俺と庭名さん、どっちの見舞いに来てんだ?」
「‥‥‥」

 その問いに、糺は無言で拳を振り上げ、容赦なく彼の頭に振り下ろす。「怪我人に何すんだよ!?」と抗議する男に「そんだけ無駄にぺらぺら喋れるんなら健康だ」と言い捨て、ベッドの上で頭を抱えてのたうつ友人に背を向けて紫の病室へと、向かった。
 どちらの見舞いに、なんて解りきった話だ。糺はあの男の見舞いに来ているのであって、紫の見舞いはあくまでそのついでに過ぎない。とはいえ、紫のことがなければ彼の見舞いに来ようなんて思いもしなかっただろうのも、毎回紫のために熱心に見舞いの品を選ぶ割に、彼には花の一つだって持ってきたことがないのも、事実で。
 いつもの習慣でノックを2回し、がらりと病室のドアを開けて顔を出すと、ベッドの上で大人しく寝ていた紫がぱっと顔を輝かせる。

「紫。今日は調子はどうだ?」
「糺さん!」

 声をかけると嬉しそうに彼の名を呼んで、いそいそとベッドの上に起き上がるのが、この少女のいつもの習性だった。それを手伝ってやると、いつでも嬉しそうな笑顔で「ありがとうございます」と礼を言う。
 そんな彼女に、小脇に抱えた包みをほら、と渡した。

「紫。今日のお見舞い」
「ありがとうございます。‥‥うわぁ、これ、何ですか?」

 いつもとは格段に違う大きさの包みに、紫が目を丸くする。そうして丁寧に丁寧に、包装を破らないようにテープを剥がして中身を取り出した彼女は、出てきた大きな熊のぬいぐるみを見て、うわぁ! と一際大きな歓声を上げた。
 紫がぎゅっと胸に抱いても遜色のない、大きな大きな、可愛らしい熊のぬいぐるみ。そっと壊れ物でも扱うかのように脇に手を差し入れ、持ち上げてじっと見つめていた紫は、そうっと、そうして本当に嬉しそうに、ぎゅぅぅぅッ、とぬいぐるみを抱き締めた。

「ありがとうございます、糺さん。大切にしますね」
「――ああ」

 そうして返ってきた、これまで以上に嬉しそうな、輝くばかりの笑顔に目を細めて、頷く。どんなものをあげても本当に嬉しそうに、とっておきの宝物を貰ったように喜ぶ紫だけれども、こんなに嬉しそうな笑顔を浮かべたのは初めてだ。
 その日も糺は、学校であったことや、他の他愛のないことを話してやった。その一つ一つに、紫はまるで英雄の冒険譚でも聞いたかのように喜び、或いは大人しく耳を傾け、時折はこくりと首をかしげて疑問を口にする。
 糺の高校のことなど、紫が解るはずもない。それは解っていたけれども、ならば何を話せば良いのかなど皆目解らず、喜んで聞いてくれるので何となくそれが、いつもの習慣になっていた。
 そうして、友人に揶揄されるまでもなく、彼のところに居るより遥かに長い時間を紫と共に過ごした糺は、じゃあまた、と病室を後にした。帰り際、病室のドアの脇に掲げられたネームプレートをちらり、見る。
 『庭名 紫』。
 いつだったかも感じた、とげのように引っかかる思考の正体を、すでに糺は悟っていた。庭名――その名は奇しくも、彼の家である極道・鳥井組と向こうを張る極道のそれと、同じなのだ。
 極道・庭名会は、表立って敵対関係にあるというわけではないものの、友好的な間柄というわけでもない。そうして庭名という名前は、決して、そうそうあるものではない。
 となれば、どこぞの金持ちのお嬢様かと思っていた紫はもしや、庭名会の娘なのかと考えるのは自然なことで。

「――なあ。庭名に、娘は居たか?」
「いえ。俺が知る限りぁいやせん」

 家に帰り、糺を出迎えた組の若頭にそう尋ねたら、彼はきっぱりとそう首を振った。この男が居ないというのなら、居ないのだろう。糺はそう納得し、わかった、と頷いた。
 ――珍しい名前ではあるけれども、きっと、偶然の一致なのだろう。そう思った。





 それからしばらくして、紫は無事に退院した。退院の日には、わざわざ学校をサボって駆けつけた糺に彼女は心から喜び、今までありがとうございました、とまるで今生の別れのような言葉を紡いで、ぺこりと頭を下げて。
 以来、紫の名を聞くことはなかった。それでもあの少女はきっとどこかで、あの嬉しそうな笑顔を誰かに浮かべているのだろうと、暖かく懐かしい気持ちで願い、想いながら時は過ぎ。
 次に糺が紫の名を聞いたのは、彼が鳥井組に入り、血生臭い日々を送っていた、その頃のことである。

「え‥‥庭名の娘が、七代目会長?」
「へぇ。なんでも、庭名の紫お嬢ぁ生まれつき病弱で、庭名の連中にも存在は知らされてなかったそうです」

 かつて糺が、庭名に娘は居るのかと聞いたことを覚えていたのだろう。お家騒動に揺れていた庭名会が新たな会長を迎えたと教えてくれた若頭は、最後にそう付け加えた。
 紫が、と小さく呟く。組員として本格的に動き始め、血生臭い日々を過ごすようになってなお、胸の中に穢れなく輝いていた彼女の、あの日の笑顔を思い出した。
 大切な、大切な――幹部となってなお重く圧し掛かる、鳥井組という存在や、切ったはったの血生臭い日々の中で、糺を支え続けてくれたあの日々。紫の柔らかな、寂しさを覆い隠した笑顔。そうして熊のぬいぐるみをあげた時の、曇りない輝く笑顔――

「紫‥‥」

 あの少女はどんな風に成長し、庭名会の会長となった今、どんな表情を浮かべているのだろう。願わくばあの頃のままであって欲しいと願い、だがそんな自分に苦笑した。





 同じ頃。

「鳥井組‥‥鳥井‥‥糺、さん?」

 紫はそっと、大切な宝物を手のひらに取り出して見つめるように、大切にその名を紡いだ。鳥井。その名は庭名会の向こうを張る極道のもので、そうして入退院を繰り返していたあの頃に出会った大切な人の名前でも、ある。
 優しい、優しいあの人を想った。鳥井組と、糺さんとは何か、関係があるのだろうか。鳥井は、それほど珍しい名前というわけでもない。もしかしたら、ただの偶然の一致なのかもしれない。
 それでも、もしかして糺さんが何かしら、縁のある人であれば良いのにと、願った。そうしたらもう一度、途切れてしまった縁を手繰り寄せることが出来るかもしれないのに――
 そう想い、そんな自分に紫は儚く透明な笑みを浮かべた。もしそうなったとしたら、きっといつか、紫と糺は敵対してしまうに違いないのに。
 それでもそうであって欲しいと、さやかに願った――それは、月の美しい夕べの出来事。





━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名  / 性別 / 年齢 /     職業    】
 8544   / 庭名・紫 / 女  / 16  / 庭名会・七代目会長
 8548   / 鳥井・糺 / 男  / 20  /  鳥井組・幹部

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。

息子さんとお嬢様の、ささやかでかけがえのない思い出の物語、如何でしたでしょうか。
ちなみにこう、なぜか息子さんの友人さんがぱっと頭の中で自己主張を始めたため、こんなことになってしまい、大変申し訳ございません(土下座
ついでに当初は、看護師さんが息子さんをからかう場面があったとかそんな(
こんな息子さんとお嬢様でイメージを崩していないか、心から心配ですorz

息子さんとお嬢様のイメージ通りの、優しく懐かしい思い出を描き出すノベルになっていれば良いのですけれども。

それでは、これにて失礼致します(深々と