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逃れる道の先の、それは。〜縁
極道・鳥井組の朝は早い。というよりは、極道の生業として夜の商売も手がけている以上、殆ど昼夜の区別がない、と言った方が正しいかもしれない。
夜も明けやらぬうちから置き出して来て、シマの見回りに行く組員がいるかと思えば、朝日もすっかり昇った頃に帰ってきて布団に潜り込む組員が居る。だがそれがすべてなのかと言えば、体がなまらないようにと敷地の中でランニングをしているいかつい男が居て、庭に植えたチューリップの芽が出ないと真剣な、凄みのある顔で植物図鑑と睨めっこをしている男まで、居る。
金本・ミランダ(かねもと・みらんだ)がそんな、少なくともそれさえ見れば些か牧歌的過ぎる光景を眺めるようになって、気付けば数日が経っていた。数日も――或いは数日しか、だろうか。
どちらとも、ミランダには判断がつかなかった。極道本部という肩書きからすれば驚くほどに、この屋敷は居心地が良い。それで居て時々、やはりここに居る連中は極道なのだと、思い知らされる時も、ある。
それはきっと、組長である鳥井・忠道(とりい・ただみち)の人柄の故なのだろうと、今ではミランダは理解していた。あの好々爺は、良くも悪くも仁義篤き『極道』なのだ。
――だから、なおさらに迷う。
(どうすっかね‥‥)
未だに客分としてミランダを扱ってくれる極道たちが、今はちょうど昼ドラの時間だったのだろう、テレビ画面に映し出された色香漂うグラマラスな女優に『うぉぉぉぉッ!』と釘付けになっているのを横目に見ながら、ミランダはそう考え、与えられた部屋へと戻った。戻ってまた、どうすっかね、と呟く。
――ミランダに与えられた選択肢はあまりに自由で、だからこそ、慎重に行く先を見据えなければ再び暗い路地を逃げ惑う羽目になりかねない事を、知っていたから。
●
ミランダが決めなければいけない事は、突き詰めてしまえばたった1つだった。すなわち、これからどうするのか? である。
(と言って、選択肢はないに等しいけどな)
己の置かれた境遇を振り返って、ミランダは小さな笑いを零した。与えられた選択肢はあまりに自由で、けれども、選べる選択肢はあまりに少ない。
ミランダは今すぐここから出て行っても構わないのだ。もしかしたら、万に一つほどの可能性かもしれないが上手く行けば、元通りの生活に戻れるかもしれない。
だが――その可能性はあまりに低いことも、ミランダにはもちろん、わかっていた。勤めていた会社の裏取引を告発して、それに関わっていた極道に命を狙われている。たまたま通りがかった忠道がどんな気まぐれかで助けてくれなければ、あのまま殺されていたことは想像するまでもない、ただの事実だ。
それが嫌というほど、解る。解っていて、そうして『はいそうですか』と殺されてやるわけには行かないのだから、結局のところ、ミランダが選べる選択肢などたった1つなのだ。
「鳥井組、か」
ぽつり、呟いた。忠道は自由にして良いと言った。ならば冷静に考えて、ミランダにとって最上なのは、このまま鳥井組に身を寄せ、組の一員として生きていくことである。
考えれば考えるほど、これほど身を隠すのに都合の良い場所はない、と言えた。ミランダを狙っている極道の目を誤魔化し、たとえ見つかったとしてもそうやすやすと手を出されはしないだろう場所。何より、例えばアメリカン・マフィアならばちょっとやばそうだと思えばさっさとミランダを放り出して事なきを得るだろうが、あの忠道という老人は間違いなく、そうはすまい。
出会って数日に過ぎない男をこれほどに信頼できるのが、我ながら不思議だったけれども、ミランダはそれほどにすでに、忠道の事を評価していたのだ。だからそういう意味でも、鳥井組に身を置き続けるのは得策である、と言える。
そうなれば恐らく、普通の生活には二度と戻れないだろう事も、解っていた。だがそれもまた、覚悟はしている――元より非日常に足を踏み入れてしまったのだ、ここまで来ればこの道の行き着く先まで駆け抜けてやるのも、また一興だろう。
駆け抜けて――きっと、今まで以上に後ろ暗い世界を見ることにも、なって。だがその道を駆け抜けなければ、ミランダに生き残る術は、ない。
いわゆる日本の極道、ジャパニーズ・マフィアのことは、アメリカでも映画が上映されたことがあるとはいえ詳しくはなかった。けれども恐らく、アメリカの裏路地のようにいつでも死と隣り合わせの、日常と非日常、常識と非常識が反転した、いつ弾丸に打ち抜かれるとも知れない生活なのだろうとは予想がついた。
だが――
「やるしかねぇよな」
ぽつり、呟く。皮肉なことに、もっとも危険に思えるその道こそが、今のミランダにとってはもっとも安全な道なのだ。このままでは自分を追う極道に良いように嬲り殺されるだけなのだから。
だから、己の身は己で守るしか、ない。組員となってしまえば客分として下にも置かぬ扱いをされている今とは違い、危険に晒される事も増えるのだろう――守られる事も、なくなるのだろう。それでもきっと、今よりは守るための力が手に入る。
ちょうど良いと、笑った。日本での暮らしは些か、平和すぎた。何より平和ボケしたこの日本の空気に、ミランダは少し慣れすぎていた。――頃合だ。そろそろおねむは終わり。目を開けて、闘わねばならない。
ふぅ、と細く息を吐いた。その拍子に、揺れた栗色の髪が目に入り、ミランダは一房つまみあげる。
明るい栗色は、日本人である母譲りのもの。ミランダが自らの容姿の中で、気に入っているものの1つ。
(――ごめんなさい、ママ)
その髪の向こうに母の姿を見た気がして、ミランダは僅かに瞳を落とし、胸の中で小さく呟いた。そうして眼差しを自らの髪から、逃げる時に大切に抱えてきたカバンへと巡らせる。
持ち出してきたなけなしの荷物の中から、鏡を引っ張り出した。そうしてぱくりと鏡を開け、覗き込めばその中から、アメリカ人である父譲りの、緑に輝く瞳がミランダを見つめ返している。
(――ごめんなさい、パパ)
その瞳を通して父が見つめている気がして、ミランダはそっと瞳を閉じ、鏡をしまって胸の中でまた、呟く。ごめんなさい、と――心から。
与えられた選択肢はあまりに自由で、けれどもミランダが選べる選択肢は実の所、たった1つしか存在しなくて。けれどもそのたった1つを、なかなか選べずに居たのはきっと、この栗色の髪と、緑の瞳のせいだ。
愛するパパ、愛するママ。2人から譲り受けたこの髪と瞳は、自身が日本人であり、アメリカ人であることの証で、ミランダにとって誇らしいものでもあった。
でも――身を隠すのなら、外見も変えなければならない。子供だって思いつくその理屈に、もちろんミランダも気付いていたからこそ、今日まで惑っていたのである。
愛する2人から貰ったこの容姿をも、犠牲にしてでも生き延びねばならず。だがならば仕方ないとあっさり切り捨てられるほど、薄い思い入れしか持っていなかったわけでは、ないから。
(でもきっと、このままじゃ駄目だ)
何度も何度も、どうすれば良いのかと考え続けたその、結論。このままではどうしても、ダメなのだ。
仇討ちしてもこのザマで、生き延びる為にはジャパニーズ・マフィア、極道の世界に身を委ねなければならない。それを知ったらどんなに悲しむだろうと、想像するだけで胸が張り裂けそうだった。
だから何度も、何度でも謝る。ごめんなさい。ごめんなさい、ママ。パパ。おじいちゃん、おばあちゃん‥‥
(ごめんなさい‥‥こんな孫で、本当にごめん)
それでも、みんなの愛を裏切り悲しませてでも、ミランダは生き延びねばならない。‥‥先延ばしにし続けてきた、たった1つしか選べない選択肢を、選ばなければならないのだ。
ぎゅっと、唇を噛み締めた。大きく息を吸って、吐く。何かの儀式のように、何度も、何度も――心の中に残る未練にも似た何かを、残らず身体の中から追い出してしまおうとするかのように。
吸って、吐いて。また吸って――ぐっと、見上げた眼差しに宿った光は、今までになく強い。
がらり、扉を開けて部屋を出ると、たまたま通りがかった組員と目が合った。ミランダの強い意志を秘めた瞳に驚いたように、軽く眼を見張った男に声をかける。
「ちょっと、欲しいものがあるんですけど、買って来てもらえませんか――?」
あくまで客人の立場から、丁寧な言葉遣いで頼んだミランダの言葉を、聞いた組員は一瞬、奇妙な顔を浮かべて首を捻った。だが組長の客人に失礼だと思い当たったのだろう、慌ててその表情を掻き消すと、解りやした、と踵を返してミランダに背を向けた。
●
忠道の仕事部屋を再び訪れたのは、その翌日のことだった。
東京都内にあるにしては広大に過ぎる敷地を誇る極道・鳥井組の本部は、純和風の佇まいを持つ屋敷である。その二階が組長である忠道と、鳥井組の若頭が書類仕事などを行う仕事部屋になっていて、ミランダが与えられた客室はこの並びにあった。
だから、ここに来た翌日にも訪れたその場所まで迷うわけもなく、忠道の仕事部屋の扉を叩く。すると、まるでミランダがやって来るのが解っていたかのように忠道は、名乗る前から「嬢ちゃんかい。入んな」と返事をした。
一体この男はどういう人間なんだと、舌を巻く。だがその表情はおくびにも出さず、かちゃりと扉を開けた。
そうして入ったミランダに、今度驚いたのは忠道の方である。ほぅ、とこちらはミランダとは違って子供のように素直に驚きを表現した後、面白そうに笑って執務机から立ち上がった。
「イメチェンかい?」
「――まぁな」
忠道が何に驚いたのか、ミランダにはもちろん解っている。だから務めてそっけなく告げた彼女に、忠道は面白そうな様子を崩しもせず、見事なもんだ、と心底感心したような眼差しを向けた。
――昨日、組員に買ってきてもらったものは、染髪剤だった。それも洗えば落とせるようなお手軽なものではなく、しっかりと髪を染め上げる種類のものだ。
まさか瞳を取り替えるわけにもいかないのだから、簡単に変えられて、最も効果的に見た目の印象を変えられるモノは髪の毛である。ミランダは愛する栗色の髪に別れを告げて、目も覚めるような金髪へと髪を染め上げたのだった。
自分自身でも、染め上がりを確認しようと覗き込んだ浴室の鏡に映った自分にぎょっと驚いたのだから、寝て起きたら客人の髪の色が変わっていた忠道の驚きは一通りではないはずだ。けれどもそれを素直に表現できることも、そうしてすぐに面白がる素振りを見せられることも、彼の器の大きさを表しているように思われた。
そんな忠道だからもしかしたら、ミランダがどんな用件でやってきたのかも、察していたのかもしれない。だが彼は何も言わず、執務机の前に置かれた応接セットに腰を下ろすと、テーブルの下から将棋の碁盤を持ち出した。
「俺ぁこいつが趣味でね。どうだい、一指し?」
「いや、私は知らないから――」
「おや、そうかい。じゃあせっかくだ、教えてやるから嬢ちゃん、座んな」
――やらない、と言おうとしたのだが、先手を打って忠道はさっさと話を決め、なかば強引にそう結論付けると、早速駒を並べながら「ほら」と自らの正面を眼差しで指す。その眼差しはどこか無邪気な子供のようで、はぁ、とミランダは些か気の抜けた声を上げた。
すとん、と忠道の正面のソファに、腰を下ろす。そうして言われるままに将棋盤の上に駒を並べ、忠道が1つ1つ説明してくれるのを、ふんふんと頷いて聞き。
見よう見まねで、忠道との対局は始まった。パチリ、パチリ、と教えられたルールを頭の中で繰り返しながら、駒を1つずつ進めて行き。
「鳥居組に、入ろうと思う」
パチリ、歩を進めながら言ったミランダに、忠道は押し黙った。次の手を考えているのではない、明らかに話の続きを促すその沈黙に、ミランダは勇気付けられるようにゆっくり、己の気持ちを言葉に紡ぐ。
自らの想い、考え。なぜ鳥居組に入ろうと――入らねばならないと思ったのか。思いの外、忠道は聞き上手だったのだろう、話はいつしか膨らんで、どんな風に両親が彼女の栗色の髪を褒めてくれたのか、にまで飛躍して。
――それを、忠道は口を挟むわけでもなく、相槌を打ちながら将棋を指し、聞いていた。聞いて――
「だから。あたしを、鳥井組に入れてくれないか‥‥?」
――そう、頭を下げたミランダに初めて、将棋をさす手を止めて彼女を、見る。もしかしたら、彼と出会って初めて見るのかもしれない、恐ろしく真剣な眼差し。
それをじっと、見つめ返した。ミランダの腹の底まで探ってくるような、その眼差しから目を逸らすような、中途半端な覚悟ならこの髪を黄金に染めてまでやってきては居ない。
一体、どれほどの時間が過ぎただろう。しばしの間、重苦しいほどの沈黙が執務室を支配して――不意に前触れもなく、ふ、と忠道が笑った。
優しい微笑。まさしく、血を分けた娘か孫でも見つめるかのような――慈愛のそれ。
そうかい、と微笑んだまま、忠道が頷く。パチリ、将棋の駒を進めた。
「なら、今日から嬢ちゃんは俺の娘だ‥‥っと、覚えがいいねえ。こりゃいい将棋の相手を見つけたかもしれねえなぁ」
「‥‥爺さ‥‥組長。あんた、他に将棋の相手をしてくれる相手、居ないのか?」
「はっはっは。忙しいからなぁ」
指し返したミランダの手に、感心したような声を上げた忠道は上機嫌で、両腕を組みながら次の手筋を考え始める。はぁ、とそれに息を吐いたミランダは、けれどもやがて込み上げてきた奇妙な笑いに、知らず肩を揺らしていた。
二度と元へは戻れぬ道へと、足を踏み入れてしまった彼女だけれども、その感覚は存外悪くはない。とまれ当面の彼女の仕事は、忠道の相手をするべく将棋のルールを覚える事になりそうである。
━ORDERMADECOM・EVENT・DATA━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業 】
8543 / 鳥井・忠道 / 男 / 68 / 鳥井組・三代目組長
8590 / 金本・ミランダ / 女 / 25 / 会計、犬の主
ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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いつもお世話になっております、蓮華・水無月でございます。
この度はご発注頂きましてありがとうございました。
組長さんとお嬢様の、始まる為の始まりの物語、如何でしたでしょうか。
お嬢様の信条がメインというか、ほぼ全てになってしまった気がしなくもないですが、この頃いつもご発注を頂くと、なぜか1人は名もなき組員さんが出番を主張するのが不思議で仕方ない蓮華です(ぇぇ
前回からの続き、という位置づけでしたが‥‥あの、本当にイメージが崩れてましたら、いつでもリテイク下さいませね(滝汗
組長さんとお嬢様のイメージ通りの、決別と出会いのノベルになっていれば良いのですけれども。
それでは、これにて失礼致します(深々と
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