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水鏡は映す
敵意になぞついぞ慣れきっている。肌にひしひしと感じる憎悪とも敵意ともどちらともつかぬ感情も、さして驚くには値しない。
――もう冬も近いと言うのに、奇妙に桜の匂いが漂う変な夜だった。とはいえ、たまにはそんな夜もあるだろう、くらいにしか、玲奈は考えない。常識とは投げ捨てるものだ。まして辺りで妖精だか神様だかよく分からぬ小さなモノどもが騒いでいる夜なのだから、桜のひとつやふたつ咲くだろう。そう、これくらいは、普通だ。この異形の身に比べれば、大概のものは普通の範疇で収まる。
そして季節外れに桜が狂い咲くくらいなのだから――
まぁ、出るだろう。
幽霊――それもいい。風情があって大変よろしい。妖精――はさっきから辺りをくるくる回っている。桜の霊力に酔っぱらっているのに違いない。化け物――うん、この単語が一番近しいか。
「っは」
笑う。歯をむき出し、異形の身体は、異形のままに笑った。
「こんなトコまでご苦労なことだ…! クソババァ!」
夜の闇にじわりと滲むように唐突に出没した姿に、吠える。
それ――人の形をしているように見える――は、ニタリとその咆哮に応えるように笑った、ように見えた。
「…いやー、『こんなとこ』呼ばわりは酷いなぁ…」
どこかからぼやくような少年の声が聞こえた気がしたが、玲奈は気に留めなかった。
だって、こんなにも桜が狂い咲いている夜なのだ。
ちょっとやそっとのことを気に留めて等いられるものか。
己の作り出した産物の出来を確かめる――とでも言うようだった。現れたその影は蜘蛛の様にも女のようにも歪み、玲奈の耳元に囁きかける。
「会心の作に不満があるなら――その慢心で痛い目を見ればいい!」
空気が破裂する。
辺りを飛び回っていた小さな神様と妖精達が衝撃波に吹き飛んでいく。傍目には何が起きているのかは分かるまい。玲奈の鋭い蹴りが空気を切り裂いているのだ。残像を生む蹴りは彼女をまるで多脚の怪物のようにも見せた。が、出現した女の姿はそれを、ゆらりとかわした。幽鬼の如き動き、口元には嘲るような、満足そうな、そのどちらとも取れる緩い笑みが張り付いている。
「そんなもの? そんなものじゃないでしょうに」
――私の傑作は。
呼びかけには、笑みで答える。執着も憎悪も嫌悪も全て呑みこみ、切り刻む様な無数の蹴り。だが、それらは全てかわされた。否、不気味なほどに手ごたえが無い。
ならば、と飛び上がり、打ち下ろすのは踵の一撃だ。今度は確かに重たい手応えがある。
――気付けば、そこは丘の上の神社ではなくなっていた。どことも知れぬ暗い空の下で、仄暗い、水の匂いがする。潮の匂いとも違う、だが静謐な、濁りの無い水の気配。
玲奈は我が意を得たりと、足を大きく振って、己が打ち据えたモノを弾き飛ばし、水中へとおしこめる。言葉も無く、ただひたすらに彼女は「それ」に攻撃を続けた。水中でまとわりつく薄い布越しに、鮮やかな光が明滅する。並みの相手ならば容易に催眠を誘うその光に対しては、水中で靄のように散らばったそれは無反応で、玲奈は一度だけ舌打ちをした。
その彼女の脳裏に、ちらりと走る思念がある。錯覚かとも紛う、微かな思念。玲奈は途端、視線を暗闇の水上へと向けた。ここは水底――頭上には月明りさえも見えぬ、ぬらりとした闇ばかりが広がっている。だが玲奈の眼球は見透かすように水上の影を過たず射抜き、そこに何を見咎めたか、彼女は口元に笑みをはいた。
それは僅かな間のことだ。即座に表情はそのまま玲奈は視線を戻し、暗がりから襲い掛かってくる闇を水中でいよいよ鋭さを増す体捌きでかわすと、すれ違いざま、彼女は「何か」を振りぬき、貫く様な、叩きつけるような動きを見せた。
一拍の間を置いてようやくその速度に気が付いたかのように、重たく絡む水は、悲鳴をあげるように渦を巻く。振りぬかれたものは、長い柄のついた吸盤――ご家庭にもよくある掃除用具だ。それがどこから出てきたのかは、誰にも分からないだろうが、眼前の「女」にはよくよく理解できるはずだと玲奈は知っている。だから、視線に険を、口調に嘲りを込めて、叫ぶ。プラスチックの安っぽい柄の部分に貫かれ、水底でのたうつように蠢くその姿へ向けて。
その姿が一体何者か、あるいは、「何物を模したものか」くらい、どんな姿かたちになっていようと紛うはずもなかった。
「あんたが持っていないもの、あたしにしかないもの。教えてやるよ」
それは。
――本物なのか、贋物なのか。ただの幻影なのかもしれない「それ」が顔をもたげた気配がある。玲奈は鋭く水底に沈むそれの背面へと回り込み、大きく蹴り上げた。浮力を千切り捨てるような鋭い一撃、相手が水面から上へと弾き飛ばされたのは気配で知れる。水中の空気抵抗を最小限に留めるように身をくねらせ、玲奈の身はそれを追った。水面に跳ねあがり、手にした安っぽい柄を握り直す。打ち上げられた女の顔が嘲笑に歪んだような気がした――女の身で、そんな醜悪に成り果てて、おまけにそんなものを振りかざして。己の姿を見よ、と笑っている。
だが、それを玲奈は鼻で笑い飛ばした。
「それがどうした!」
口にすれば、いよいよもって気分も身体も軽い。
柄を振りぬく。限界を超えて加速した身体が痛む。眩暈を覚えるような浮遊感があって、そして、振りぬいた得物が「彼女」を貫いた――
――そう思った瞬間。
玲奈の眼前は、桜の花弁で覆い尽くされた。
「……相手を見て仕掛けるべきだったよなぁ、うん…」
反省しきり、という口調で呟いている少年がいる。真夜中、丑三つ時の神社の境内。一日の中でも、黄昏に次いで神社に「人間以外」の客が増える時間帯だ。彼は全く季節を度外視して境内に降り注いでいる桜の花弁を抵抗もせずに頭上から浴びながら、嘆息した。手の中には、罅の入った酷く古い鏡があって、彼はそれを無造作に投げたりひっくり返したりしていた。見る者が見れば、その鏡はご神体じゃないか、けしからん、と怒鳴りつけそうな様子である。
「悪戯相手は選びなさい、藤」
その少年の頭上には、これまた見る者が見れば、桜色の着物を装い、薄紅色の髪を宙に揺らす青年の姿が見えたはずだ。
「反省してるよ、さくら。でも元気出ただろ?」
「…随分と元気な霊力の有り余ってる御嬢さんだったねぇ」
お陰ですっかり元気にはなったけれど、と、青年は嘆息する。彼がため息をつくごとに、空から降る桜の花は色合いを増し、量を増すように思われた。
「ああうん、だから『神前試合』の相手に選んだんだし。神様に試合を奉納する、ってのは、相撲もそーだけど神様に元気になって貰う手段としちゃ定番だしな!」
元気よく少年は胸を張り、それからちっとも悪びれない口調で、
「まぁ、今回相手が元気すぎて鏡が割れたけど!」
「…それ怒られない、藤?」
「怒られるだろうなぁ」
大丈夫なの? と「さくら」と呼ばれた青年の方は視線だけで問いかけたようだったが、少年は眠たそうに欠伸をしただけである。
「まぁだいじょーぶだろ。さっき境内に『変な連中』が入り込んでたから、あいつらも神前試合の生贄にしとけば、鏡の付喪神様も元気になって罅くらい自力で治すんじゃね?」
「お前は神様を何だと思ってるんだい、藤…。それとその、『変な連中』だけど」
「うん?」
「さっき、あの御嬢さんが目を覚ましてすごい勢いで全員吹き飛ばして去って行ったよ」
その言葉に、少年はむ、と目を覚ましたように勢い込んで、
「なんて勿体ないことを!!」
「…他人を生贄扱いするのは本当にやめなよ、藤」
捧げられる側の神様の私が言うのもなんだけど、そのうち人間の友人を失くすよ。
神社に所属する有難い神様のお言葉にも、少年は悔しげに叫ぶばかりで、耳を貸してはいないようだった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【7134/ 三島・玲奈 / 女性 /16歳 】
NPC:秋野藤、さくら
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■ ライター通信 ■
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お手数おかけしました。
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