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<東京怪談ノベル(シングル)>



■小さな主張■





「扉を開ければ図書館とか」
 ロン・リルフォードが来館者の前に姿を現したとき、その来館者ことアルバート・ゲインは楽しげにそんなことを呟いていた。悪くないね、と続く言葉にロンは夜闇の色の眸を微かに緩め、歩み寄る。
「いらっしゃいませ。ようこそ」
「あ、と。勝手に失礼。俺は――」
 柔和な笑みを刷いた上品な人物。その登場に気付いたアルバートは、僅かに忙しなく口を開いて詫びるが、相手であるところのロンはごく穏やかにかぶりを振った。大丈夫ですよ、と微笑んだまま。それに促されて来館者が慌てた素振りを落ち着かせ、言葉を続ける。
「俺は、アルバート・ゲイン。その、なんというか」
「御心配なく、アルバートさん。私は当図書館の司書、ロン・リルフォード。貴方が当館を利用頂くにあたって、お手伝いが出来るかと思います」
「……ありがとう。助かるよ」
 勝手な来館を問い質しに来たのではないと含んでロンが話せば、手に提げた荷物と、周囲の本棚と天井と、それぞれをちらりと見遣る程度の間を空けてからアルバートは苦笑した。
「すぐに戻ることを考えるには惜しいなと思っていたものだから」
「どうぞごゆっくり。お急ぎでなければ存分に御利用下さい」
 利用を希望するのを拒む理由もなく、ロンはにこりと笑んだまま、優雅な所作で腕を巡らせた。



 ** *** *



 迷路だと喩えられたこともある図書館の中を、迎えた者と、訪れた者は、ゆったり進む。
 後ろにも目がついているのかというように、夜闇の色をした司書は、来館者が足を止める、その折を逃さない。
「……ああ、これは本当に、凄いな……」
 感嘆の声が静謐な空間に波を起こす。
 ロンが佇み見守る先でその人物は幾度目か、本に引き止められていた。
 無意識に伸びたアルバートの指先が一冊の背表紙を辿る。
 それは、彼の世界には存在しない文字が刻まれたものなのだけれども。
「そちらの言葉も御存知なのですね」
「いや、読めるものだから。知っているかと言われると、知らないな」
 題字を確かめるだけ確かめたアルバートは、結局その本を抜き出さずにロンに応じた。
 読める。それは素晴らしい。ロンは品の良い笑みを改めて刷く。本を読むことが出来る、まったくもって素晴らしい。
 そんな図書館の司書らしいと言うべきなのか――只人ではないだろうと、迷い込んだ状況からだけでも充分に察せられたが、口にするほどのことでもなかった――ロンの相槌に、アルバートも微笑んだ。
 そしてまた歩き出す。読書は荷物を置いてから。まずはゆっくり眺めたいということで案内がてら進んでいる。
「これだけの蔵書を管理するのは大変そうだ」
「どうでしょう?大抵のものは『協力的』ですし、苦労した記憶もさほど」
 どちらかと言えば時折現れる不埒者、つまり存在しないとされるものや絶版となったものを現の世に持ち込もうと目論む輩なぞの方がロンに手間をかけさせているはずだ。とはいえ、図書館内でロンは絶対の管理者である。訪れる人々のあれやこれやとて、アルバートの考える大変、にあてはまる程のものなのかどうか。
「協力的か。いい言葉だなあ」
「もちろん、ちょっとした我侭を向けられることもありますが」
「こっちがいい!なんて勝手に移動したり?」
「ありますね」
「え」
 頭の片隅で司書業務の記憶を辿っていたロンは、自分の返答に驚くアルバートを見遣った。
 実際に本棚を移動されるくらいのことは稀にある。魔術書ほどにクセのあるものでなくとも臍を曲げれば多少の駄々は捏ねるもの。本と一口で言っても、あらゆる世界から流れ着く以上、全てが等しくきちんと本棚に収まってくれるわけでもないのだ。
「勝手に場所変えるんだ?」
「はい。そういったことも起こります」
 予想して訊ねたわけではなかったらしいアルバートは、ロンに重ねて確かめる。肯定すれば、彼は、はあと感心した様子で吐息を洩らしてかぶりを振った。
「やっぱり大変だ。俺も資料が勝手に移動したりして困ることがあるけど、あれは堪ったもんじゃない」
 なお、うち何件が真実『勝手な』移動であり、何件が彼の自己責任であるのかは不明である。
 そんなアルバートの経験の内訳なぞ知るわけもないロンは上品に微笑むまま、そうですねと相槌を打つ。これで控えた文字が逃げ出したり、傷ついて言葉が失われたりもするのだと言えば、この来館者はどんな反応をすることだろう。あえて話したりは、しないけれど。
「部屋の扉と繋がるだけのことはあるな。不思議なことも不思議じゃない」
 話す間にもアルバートの足はときに止まり、手が本棚へと伸びている。
 ロンはその都度歩みを緩めて数歩先で彼を待つ。かさり。紙を捲ってみる音は時々だ。
「この図書館は」
 ぱらぱらと中程を捲ってみているアルバートの目が素早く上下し、文章を辿っていると知れた。
 それが止まる瞬間を見計らってロンは唇を動かす。この図書館は。
「ときに思いもよらぬ世界と接し、穴が開くことがあるようです」
 あらゆるところから本が流れ着くという変化があるからなのか、空間として安定していない場所らしいといったところだろうか。不明であるが。ともあれ、ロンが望んだわけはないけれど、それゆえに此処はとある魔術教団の監視下にある。思えばロンの纏う憂鬱さが増すようだ。司書の物憂げな空気
にアルバートは窺うような視線を投げ、それだけで終えた。
「じゃあマンションがまた気紛れ起こしたってだけでもなかったのか」
「あるいは近付いたからと招待されたのかも知れませんね」
 どちらがどちらに――とは言わず、気配も戻してロンはアルバートが言うのに応じる。
 何冊かを手に取っては戻していた来館者は「不安定か」と周囲に聳える本棚の壁を見回して呟いた。直線はなく、やわらかな曲線を描いて並ぶその壁は頭上からの灯りを分ける。囁き声までもが響きそうな静謐さが満ちる館内だが、ひそやかに空気は巡って留まることもない。度を過ぎる何物もなく、要らぬ緊張を強いることもない。うん、と初めて訪れた男は頷いて、再びの言葉を先程よりも実感込めて繰り返した。
「だとしても、悪くないね」
 それにロンは、光栄です、と返して色濃く笑んだ。
 司書の双眸が更に深みを増したように見えたアルバートは、感情の読めない穏やかさに内心で苦笑するばかりだった。なかなかに特別な場所と特別な人だなあというわけである。正直なところ手放しで褒めてもいいくらいに図書館の雰囲気を気に入っていたのだけれど、そこはそれ。常日頃からの言葉選びというやつが影響した。
 そうして二人は本棚の間、書物の渓谷を抜けて道を行く。目指すテーブルセットは今暫くか。
「……見渡す限りの本、本、本……」
 立ち止まり、周囲を見るたびにアルバートは感心して言葉を洩らす。ロンは彼を待つ。繰り返し。
「お探しのものがあれば御案内致しますよ?」
 本棚に伸ばした手の先、多くを触れるだけで終わらせる中、その指で選び取る本があると、この来館者は中身を確かめていた。傍目には無造作に開いては何頁かを読む。
 であるから改めて声を掛けたのだけど。
「いや今は特に探す本は無いよ。ただ――」
「ただ?」
 目当ては無いとの言葉に僅かばかり、首を傾げたロンである。
 ぱらりぱらりと頁を飛ばし読んでいたアルバート本を閉じると優しい手付きでそれを戻し、思案する風に在らぬ方へと視線を投げた。うーん、と小さな声。一冊戻したばかりの本棚を眺めて動かない。これといってクセのある本を読んではいらっしゃらなかったようだけど、と戻された本を見遣ってロンも思案する。
 あるいは、この来館者にだけ、本が何かを起こしてみせたのか。
 無くも無い。本はときにロンの思わぬところでも意思表示をしてみせるのだ。
「ただ、ときどき」
「はい」
「引っ張られている、ような」
 わからないなあと首を傾げるアルバートの言葉に、ロンも心持ち首を傾ける。
 引っ張られる。この場合は本か、文字か、なんにせよ書籍だが、ロンが見ていた限りではアルバートが背表紙に指をかけてから腕を戻すまで変化は無かった。いつぞやのメモの如くに文字が移動、なんてこともない。彼の手にタイトルの一文字もかかってはいなかったのは断言出来る。はず。
「手に取って御覧になる本が、アルバートさんを引っ張る本、で宜しいのでしょうか」
「指先をかけるだろう?そこが引かれる感じがして、気になるから取ってみる」
 失礼、とアルバートは荷物を置いた。話題に挙がったのならばとしっかり話すつもりのようだ。ロンにも否やは無い。
「読んでみての違いは如何でした」
「なにも。おかしなものはなかった」
「……そうですか」
 アルバートが戻したばかりの本を取って開いてみる。文字が躍っているでもなし、言葉が消えているでもなし、文章が絡まっているでもなし、行儀のいいものであった。これが背表紙に指をかけた相手を引っ張る?そこまでして主張したい何かがあるのか。
「ここまでに取ってみたものも全部、ごく普通の本だった」
「よほどアルバートさんに読んで欲しい、ということも有り得ますが」
「読みたい……とは、正直それほど思わなかった」
 図書館に来ておいて何を言う、とばかりの言葉であったから、発した当人は少々の恐れを抱きつつ穏やかな佇まいの司書を窺う。なるほど、と頷くロンの面差しからは不快の色は読み取れない。が、アルバートの方で落ち着かない気持ちが抜けずに忙しなく言葉を継いだ。
「むしろ訳してみたいな、とは割と思ったんだけど、ほら俺は翻訳家で」
「ああ。それかもしれません」
 その継いだ言葉にロンは答えの可能性を見つけた。司書の手の中では本がこっそりと文字を揺らす。
 アルバートは言いかけた言葉を飲み込んでロンを見遣り、彼が身に着けるリボンタイを経、彼の持つ本へ視線を向けて。
「引っ張られた本を開いて読んでみたときに、訳してみたいとお思いになったのですね?」
「ああ、うん。これを翻訳するならどう表現するかなとは思った。言い回しをどうするか、なんて考えるのが好きでね」
 読むのも勿論好きだけど、と言い足すのを疑うこともない。案内する間の会話で充分に知れている。
 ロンは目を伏せて本を確かめてから、それをアルバートへと差し出した。受け取った相手はそのまま表紙を開いて頁を繰る。その本もまた異なる世界からの集積物だが戸惑う様子もなく、ロンの目の前でアルバートは幾つかの文章を読み上げた。それからぱたりと表紙を閉じる。
「魅力的な文章だ。知り合いが読める言葉にしたくなる」
「そういうことなのでしょう。私の推測ですが」
「成程なあ。読まれたい、か」
 理解に至った様子のアルバートが本を戻す。ささやかに引き止める気配が背表紙に刻まれた題字から、ロンには感じ取れてなんとなし面白かった。アルバートには引っ張られている感覚のままらしい。指の腹を数度擦っていた。それからつと首を捻る。
「読むのって此処の来館者だよな」
「誰もが全てを読めるわけではありませんから」
「ああ、うん」
 おまけのような疑問もすぐに片付いた次第。


 ** *** *



「翻訳作業も楽しそうだけど、今日はとりあえず、読んでみる」
 更にのんびりと進んで辿り着いたテーブルセットに荷物を置いたアルバートは、手近な本棚へ一目散。
 重くはないけど邪魔でね、と言っていた荷物が手を離れたからと両手で一冊ずつ取って見比べたり、何冊かを抱えて回ったり。うきうきと傍目にも楽しそうである。
 ロンは新たに増えた蔵書リストを整えていたのだが、彼が椅子に落ち着いたところで手を止めた。
「それから、アルバートさん」
「はい?」
「当館ではお茶を楽しんで頂くことも出来ますよ」
「読書の合間に一服とは贅沢だね。素晴らしい」
「お茶は好みを申し付けてくだされば、お好みのものをご用意いたします」
 ふふ、と仄かな声を零してロンは新しい来館者に案内する。

「ですから、どうぞご遠慮なく」

 そして数多の本が辿り着く図書館に、仄かな茶葉の香りが混ざり、静謐さを揺らしていった。





end.