コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


羽化

 何かの本で、読んだ事がある。魔女とは、女性のみを指す言葉ではないと。
 中世ヨーロッパの魔女狩りの時代においては、悪魔との繋がりがあると判断された人間は男女問わず魔女として扱われ、惨たらしく殺されていったという。
 男でも、魔女に成り得る。
 それを松本太一は今、己の身体で実感していた。
「うぐっ……ぉおおお……な、何なんですかっ、これはぁ……」
「我慢なさいな。初めては何でも……痛いものよ? 苦しいものよ?」
 女悪魔が、笑っている。
 姿は見えない。が、その邪悪なほどに妖艶な微笑を、太一は視覚ではないもので認識していた。
 自分は今、笑われている。それを、太一は認識していた。
 女性に嘲笑されるのには慣れている。勤めていた会社の女性社員たちは皆、太一の事を陰で嘲り笑っていた。
「ぐぅ……がふっ! はあ、はぁ……ッ」
 思い返しながら太一は悲鳴を漏らし、呼吸を乱した。
 女悪魔の言うように痛いのか、苦しいのか、それすら太一はわからなくなっていた。
 感覚そのものが、女悪魔の見えざる手によって弄られ、こね回され、作り変えられてゆく。
 痛いのか、苦しいのか、よくわからない。わかるのは……ひたすら熱い、という事だ。
 全身から、汗が噴出している。
「そうそう、搾り出してしまいなさいな。古いもの、嫌なもの、何もかも」
 女悪魔の声が、優しい。優しく、耳元で囁かれているかのようだ。
 それと共に、熱い、わけのわからぬ感覚が、太一の全身で蠢き暴れる。
 安物のベッドの上で、48歳の貧相な身体がのたうち回る。
 年齢よりも若く見られる事が多い、とは言え充分に老いさらばえ始めていた肌が、しかし今夜は妙に、若々しい色艶を帯びている。ぼんやりと、太一はそれに気付いた。汗で濡れているからそう見える、というわけでもなさそうだ。
「古いもの、嫌なもの、汚らしいもの、何もかも脱ぎ捨てて……貴方は、新しい貴方になるの。新しい、私になるのよ……」
「はあ、ふぅ……あ、新しい、あなたに……あたらしい、私に……?」
 熱に浮かされ、呆然と呟きながら、太一はゆっくりと自分の身体を撫で回し、確認してみた。
 気のせいではない。肌に、張りが出て来ている。身体が、引き締まってきている。
 自分は今、若返っている。それを太一は、ぼんやりと実感していた。
「かわいそうに……辛い事ばかりあったのね、今まで……」
 女悪魔が、優しく囁く。
 ルージュの引かれた、美しい唇。甘い吐息。
 存在しないはずのそれらを、太一はしかし耳元に感じていた。
「私が、何もかも忘れさせてあげる……」
 自分は騙されている。太一は強く、そう思った。
 投資詐欺の類と同じだ。騙す者は、耳に心地良い、甘い言葉を囁きかけてくる。そして騙される者を、地獄へと誘い込む。
 わかっていても、太一は止められなかった。地獄かどうかはわからないが、とにかくどこか得体の知れぬ所へと誘い込まれつつある自分をだ。
 思わず、おかしな声が漏れた。
 裏返ったような、甲高い悲鳴。男の声帯からは出るはずのない、高く澄み渡って甘く弾んだ悲鳴。
 得体の知れぬ感覚が、太一の全身を走り抜けたのだ。
 すべすべと滑らかに若返った細首がのけ反り、身体がベッドの上で痙攣する。
 年齢相応に弛んでいた胴が、形良くくびれて引き締まりつつ、切なげにうねる。
 両脚が、ほっそりと長さを増した。臑毛がつるりと消え失せ、左右の爪先がスリムに形整ってゆく。ふっくらと美しく肉感を増した両の太股が、もじもじと悶えて擦れ合う。
 胸で、何やら重たいものがプルンッと揺れた。
「何っ……これ……何なん……ですかぁ……っ」
「ふふっ、本当はわかっているくせに……」
 女悪魔の声は、今や太一自身の唇から紡ぎ出されていた。
 ルージュが引かれたかのように赤い、端麗な唇。
「自分の身体が今、どんな事になっているのか……私の口から聞きたいの? 隅から隅まで克明に、言って教えてあげましょうか」
「嫌……言わないで、下さい……」
 大人びた女の声と、初心な乙女の声が、太一の唇から同時に漏れる。
 今や松本太一という男のものではなくなった身体が、火照っている。
 その火照りの中、痛いのか苦しいのかよくわからなかった感覚が、心地良い高揚感へと変わっていった。
 火照った身体が、ゆっくりとベッドの上で起き上がる。艶やかな黒髪が、優美な背中をくすぐる。綺麗な肩の丸みを、そっとなぞる。
「新しい、あなた……新しい、私……ふふっ、こんな素敵な魔女になれるなんて……私自身、思ってもみなかったわ」
「魔女……私が……」
 グラマラスに変化を遂げた身体が、ベッドから下りて、すらりと立った。
 その全身が一瞬、キラキラと光に包まれる。鱗粉のような、光の粒子。
 煌めきの中で、衣装が生じていった。
 左右の美脚には薄紫のストッキングがぴっちりと貼り付き、その高貴な脚線の末端では、踵の高い黒のブーツが軽やかに床を踏んでいる。
 溢れんばかりに豊満でありながらも美しく引き締まった胴体は、紫色のドレスで覆われていた。どこか蝶を思わせる広い両袖からは、付け爪のある長手袋に包まれた繊手が、しなやかに伸び現れている。
 魅惑的なヒップラインには背面だけのスカートが被さり、大きく開いた胸元では、黒のインナーを内側から突き破ってしまいそうなほど豊かな膨らみが溢れ出していた。
 端正な顔の輪郭の中、ぱっちりと見開かれた左右の瞳は、幻想的な紫色をしている。
 その美貌を囲む黒髪は、頭の左側に咲いた赤い髪飾りによって、いくらか悪魔的に彩られている。
 平凡な人間・松本太一ではない。得体の知れぬ女悪魔、でもない。
 両者の融合体とも言うべき……魔女の姿が、そこに出現していた。
「あなたは蝶々……蛹を脱ぎ捨てて今、自由になったのよ」
 赤い、端麗な唇が、にっこりと歪みながら言葉を紡ぐ。
「さあ舞い踊りましょう、躍り出ましょう。自由な、夜空の下へ……」