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<東京怪談ノベル(シングル)>


『body-centered cubic lattice』

 水嶋琴美は何かを羨むという事がほとんどなかったが、音楽家にだけはほんのかすかな憧れを持っていた。
 代々忍びの血を受け継ぐ家系に生まれ、幼い頃から戦いの技術を磨き続けてきた琴美は、声や指先一つであんなように素敵な時間を作り出せる彼らを、いいな、と何の曇りもなく思っていた。決してくだらない価値観で歪められる事なく、彼女は透明な眼で物事を眺められた。それは生き死にを含む厳しい現実に対峙する兵士として、いささか清白すぎる程の綺麗さを思わせた。
 琴美が戻った移動指揮車は、何人かの支援隊員が出入りしたりと慌ただしかった。彼女は前が大きく裂けたラバースーツを着替えもせずに、方々に指示を出す課長と、集まるデータを対処するオペレーターの手が空くのを待った。課長には詳しい報告のために、オペレーターの女には最近聴いているミュージシャンは誰かと聞くためである。
 二人はもう長い付き合いだった。今は作戦の後方でその高い情報処理能力を発揮している彼女も、少数精鋭のこの特務統合機動課にあっては当然戦う力を持っている。琴美とは訓練期間を共にしており、年齢も近かったためよく一緒に話をした。彼女は恋愛を楽しむ質でその遍歴も派手だったが、今見えるサバサバした表情からも分かるように、情念には大して縛られず軽やかな友情を持てる人だったため、琴美とも馬が合った。本は全く読まないものの、映画と音楽が好きで、特に音楽は面白い趣味をしている。事実、琴美がいつも聴いているものの少なくとも三分の一は、彼女のカラフルな嗜好が影響していた。
「お疲れ様ー」
 多少は落ち着いてきたらしく、インカムを付けたまま彼女が振り向き、ロイヤルブラウンのショートボブがかすかに揺れた。シルバーのブラウスとグレーの細いパンツスーツをひどくラフに着こなしていたが、それでもまだ窮屈そうに肩がこったジェスチャーをしている。
「あーあ、疲れた。ちょっと、凄い格好ね」
 彼女は片眉を下げながら琴美を見やり、脇にあるパウチ型のドリンクを取って一つ手渡した。
「動いている内にどんどん裂けちゃって」
「下まで見えそうよ。下着付けてるの?」
「ううん」
「課長、大興奮なんじゃない? 目に焼き付けようとしたりして」
「まさか。昔はうちの家にも時々来ていて、お風呂に入れてもらった事もあるんだから」
「げえ」
 からからと笑いながらオペレーターが彼の方を一瞥すると、向こうも一段落していたのか、腕を組んで呆れたような顔で見ていた。彼女はうわっ、と大袈裟に驚いて、それから見え透いた作り笑顔で手を振った。琴美は可笑しかった。それはあまりに日常的な、この職場らしい光景だったのだ。

「薬品は解析に時間がかかるが、暴力団との取引内容や、持っていた武器を見ただけでも、彼らが組織の全容とは言い難いのが分かる。具体的な声明等はどこにも出されていない。それはこの件がうちに来る際に確認済みだ。作戦を強行した形になったのは、大きな問題にはならないだろう。重要なのは、彼らが誰にも知られずにやっていた事が、政治的目的のための所謂テロリズムなのかどうかと、どうして我々を知り得たのかだ。それによって次にどう動くのか、どう動かねばならないのかがおおよそ見えてくる」
 モニターに映し出された簡易的なレポートには、琴美が確認した事項もほぼ全て網羅されている。課長はそれから目を移し、少し困ったように下から上へと視線を上げた。本人は全く頓着していないようだったが、琴美の妖しい肢体はスーツの割れ目からものを言うように迫って見えて、やはり弱った。咳払いを一つすると、奥でオペレーターがクククと噴き出すのを堪えている。落ち着きのない上司の姿が珍しいのだろう。
「連中がしようとしていた事は何なのか、そして本当にこの課の存在と役割を認知していたのか? 考えを聞こう」
「確認しなきゃならない事は多いけれど、どうしてもバイオテロがちらつくわ。それも大規模な。あの男の言葉には確かに思想があった、そんな気がする。戦争でも起こそうとしていたように聞こえた。もし人を出来るだけ多くその渦中に引きずり込むのなら、細菌兵器は国家未満の集団にはおあつらえ向きだしね」
「混乱に乗じたとしても領土や政治権力に触れられない外国人テロ部隊が、戦争を起こす理由はない。他国の特殊工作機関か、国内のどこかに繋がるか?」
「この国の有り様を嘆いていたように、私には感じた。もちろん目眩ましかもしれない。だけど、そうではない真実味があったから」
 言葉のニュアンスに、心なしか力がこもっている。課長は気が付いて、珍しいなと訝しがった。冷静な解釈かどうかは置いておいて、あまり彼女らしくない態度だ。
「何か心当たりでもあるのか?」
「客観的事実。今の職務や待遇に不満はないわ。でも、国民が武力や暴力に蓋しているのは明らかだもの」
「そいつを平和と、呼べなくもない」
「ええ。だけどそれが巨大な力の均衡と、これまでに流された血で成り立っているという実態に対して無知でいるのは、平穏とは言えないんじゃない? 例えば他者の手が届く位置、つまり殴られたり命を奪われたりするというリスクから限りなく離れたネットの世界には、酷い悪意や攻撃的な民族意識が渦巻いている」
「彼らは何も出来やしない。他人を受け入れて共同体として活動する事も、何物かを壊し作り替える事も、まして銃を持って理念を掲げるなど……」
「それでも声は上げるのよ。姿を伴わないのに、他国との外交問題に武力衝突も厭わないような強硬的な態度を見せたりね。そうかと思うと、米軍を締め出そうとしたりする人もいる。日本からあの戦力を一切消してしまうなんて馬鹿馬鹿しい夢物語だったとしても。私の立場で言うのは心苦しいけれど。それともそういう人達は、自衛隊にもいなくなってほしいのかしら……?」
 琴美はじっと、課長を見つめた。
「危険からは最も遠く、そこに居るだけで、全てを知っている。呼びかけにも確たる声が返らず、捜す事も出来ない。そして、何もしない。まるで神様ね。そんなものが溢れてる」
 彼女にはそれがとても不誠実に映るのだと、課長は思った。その気持ちは、立ち位置の近い彼にだってもちろん理解出来る。だが、琴美はあまりに純粋すぎやしないか。その透き通るような意志は、強い自負に支えられているのだろう。見知った仲間の内ではそれもいい。彼女には無二の実力もあるのだから。しかし琴美が巨大な組織に巻き込まれるのを想像すると、彼は気を揉んだ。仮に身内に敵がいると考えれば真っ先に心配が及んだし、彼女はひょっとして、信条さえ正しいとなれば華麗に身を翻し反体制派にだってなるのではないか、と。

「実際的には」、そう彼女が沈黙を破った。
「暗幕を剥ぐ事で何かを動かしたいのかもしれない。例えば、自衛隊を治安維持目的で大々的に出動させれば、自衛軍としての地位確立や軍拡路線へ、確実に話が及ぶでしょうし」
「憲法改正に騒がしい時期だ。自衛隊内にも昔からそうした問題を憂える集まりというのが常にある。政治家だって国防族に限らん。この国の軍備増強を希望する他国と繋がりがあれば、そこに利益が生じる」
「軍事費の拡大で得をする企業も入れれば、政府の外にだってスポンサー候補は多いわ」
「辿るとすれば、我々の存在を知っているという話だが……、確かなのか?」
「悪いけど、断言はしかねるわ。そんな風なように言うだけなら簡単だもの」
 課長は鼻から息を吐き、背もたれに身を投げた。捕まえた男も、話す公算は薄いだろう。
「何にしても、こちらからは迂闊に動けんな。もし内側に不穏な流れがあるのだとすれば、知りつつも動かない事が僅かでも状況をましにしてくれるだろう」
 彼は眼鏡を置いて口に手を当て、黙想した。終わりの合図だった。それを見て琴美が背を向けると、後ろからぼそっと声がかかった。
「よくやってくれた。助かったよ」
 彼女はすぐに振り返り、にっこり笑った。彼は改めてはっとした。
「楽な任務だったわ。課長はこれから大変ね?」
「馬鹿。他人事みたいに言うな」

 非常に短いタイトスカートスーツに着替えた琴美は、どう見ても口説かれ上手ではなさそうだったが、そのスタイルのいいシルエットや凛々しい顔立ちが、美しさを颯爽と見せつけて、すれ違う隊員の足をその場に縛り付けた。ストライプの入った黒い生地が、月明かりの下で優美さを際だたせ、夜全体が彼女の着物のようだった。
 まわされた車の運転席に乗り込んでドアを閉じると、音はさざ波のように遠のき、車内の匂いがゆっくり肺に流れ込んでくる。オペレーターから教えられたCDアルバムの名を忘れないように携帯へ打ち込みながら、彼女はまだ見ぬ明日へ、胸の高鳴りを覚えていた。新しい音楽、新しい仕事、新しい物語、新しい空。その全てを、琴美ははつらつと待ち望んでいた。