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<東京怪談ノベル(シングル)>


『echo』

 水嶋琴美の裸体を後ろから眺めると、引き締まった筋肉が肩周りから腕、背中、尻、太もも、ふくらはぎと、彫刻作品のような曲線を描いており、傷一つない滑らかな素肌に完璧な陰影をもたらしているのが分かる。その立体的な美の造形は、見る者にとって男女の性をも軽やかに飛び越えた。今この更衣室にいる数人は全て女性だったが、その誰もが一糸纏わぬ琴美に視線を向け、手を止めたまま嘆息していた。
 中でも今回の作戦で随行する事となった支援隊員である彼女は、ある種の特別な想いを抱いていた。彼女にとって琴美は、年下の上官であると共に、小さな頃から溺愛してきた幼なじみでもある。そして何より、代々忍びとして生きてきた琴美の家系から血を分けた彼女の家の者は、水嶋家の人間を影ながら支える役目にあった。つまり水嶋琴美とは、彼女の可愛らしい妹であり、完全無欠の長姉でもあり、そして密やかに自分を誘惑してくるニンフでもあった。
 無邪気に野原を走り回るような少女性と、妖艶すぎる肉体や表情。琴美のそれは、彼女に己の中で友情や憧れを過ぎた、何か妖しげな花弁が開いていく事実を自覚させ、まざまざと見せつけてくるのだった。例えばまさに今、ショーツをずり上げる琴美から彼女は決して目を離せない。その瑞々しい尻肉がわずかに持ち上げられ、履き終わった時にぷるんと揺れる様を見つめ、彼女は息を呑んだ。クリーム色の高級そうな生地に、黒のレースと精巧な植物の刺繍を施された下着が、琴美の張りのある稜線で押し広げられている。
「それ、勝負下着ってやつ?」
 横で着替えていたオペレーターが、全く気さくな様子で尋ねた。琴美はそんな事はないとやんわり否定しながら、流れるような手つきで衣服を纏っていった。短いプリーツスカートは、チェック柄に若葉から真夏の濃緑までを入り混ぜた鮮やかな色合いで、ブランドロゴを刻印した金ボタンが一つさりげないアクセントになっている。上は袖を短くした濃藍の着物を、白と淡いすみれ色の帯であやめ結びにして着付けており、下にはスパッツと編み上げのロングブーツ、双方の黒色の隙間に透き通るような肌が垣間見えた。
 誰も見た事のないような着こなしである。にもかかわらず、琴美の微笑が一筆加えられたその立ち姿は、可憐という他に言葉が見当たらなかった。
「相変わらず見事なものだけど、それにしてもよくそんな格好で任務に行くわね」
「服は重要だもの」
「まあ、動きやすいならいいけどさ」
 オペレーターは黒い上下の下着にストッキングを履きながら、諦めたように頭を振った。その様子、琴美とのいかにも友人らしいやりとりを横目で見やり、支援隊員である彼女はそっと奥歯を噛んで苦悩した。これは琴美への愛情が生む嫉妬か、それとも敬愛が起こす憤慨なのか、自分でも分からなかった。だがやはり普通ではないだろうと、そう思われた。琴美にそれを知られるのが怖い気持ちもあった。だから彼女は、平素より少ない言葉数を一層抑えながら室内の雑談を振り払い、さっさと自分の準備を進めていった。無造作に切られた黒髪のショートヘアをきっちりと整えた後、施設潜入のための白衣を、ブラウスとタイトスカートを身に付けた長躯の上にはおり、薄い黒縁の眼鏡をかけた。それからジュラルミンケースに入れた機械端末や破壊工作のための爆薬を確かめて、彼女は逃げるように部屋から出ていった。
 無論、琴美が他者を魅了するのは一個人に限った話ではない。そんな事は分かっていたが、それでも彼女には、自分の胸を締め付けるこの感情が特別なものとしか思えなかった。琴美と長く接しているという事もあるだろう。あの瞳が、唇の動きが、漂う香りが、外に出て夜風に当たっている今も、温もりを持って思い出されるのだ。
「今日は課長が別件にかかりきりみたいですから……」
 突然の声に、驚いて振り返った。
「現場指揮は私が。気楽に参りましょう」
 そこには琴美が一人、そっとウィンクをして笑いかけていた。色気も何もない自分には、こんなチャーミングな仕草はきっと一生出来ないだろう。彼女はぼんやりとそう思いながら、そのあまりの愛らしさにしばらく見とれたままだった。それからふと、もしかしたら自分を気遣って来てくれたのかしらと考えて、あたふたと言葉を探した。
「琴美殿」
「なあに?」
「あたしは、とても素敵だと思います。その、服」
 言ってから、彼女は顔を赤くして後悔した。先程のオペレーターの言葉でも気になっていたのか、何故突然こんな事を口走ったのか、自分でも分からなかった。それを誤魔化すように、彼女は頭を掻きながら深く俯いてしまった。
「ありがとう。ほら、髪が乱れてしまいますわ」
 すると何と、琴美の柔らかい手が伸びてきて、優しく髪を整えてくれた。撫でて褒めるように、何度も何度もそうしてくれた。琴美は言葉の意味や真意と呼ばれるものよりも、口にした者の目をじっと見るような人だった。そして自分に向けられた厚意に対しては、強い感謝の気持ちを包み隠さず示すのだ。
「ね、緊張しないで?」
 頭に置いていた掌を頬に、顎に移して彼女の顔を上げさせた琴美は、首もとをそっと撫でるように手を離した。まるで魔法か何かのように、相手の求めるものが分かってしまうのだ、この少女は。彼女は目眩にも似た何かを感じ、力の入らない足腰にかろうじて意識を集中しながら、その切れ長の瞳でじっと琴美の口元を見つめていた。
 その後すぐに、二人を含む今作戦の人員を乗せた、数台の車両が出発した。

 県境の山中に見通しの悪い道路が延々と走っていて、その途中に舗装もされておらず、地図にも載っていない脇道がある。入り口には進入禁止という古びた看板と、ポールにかけられたバーが無造作に置いてあるだけで、向こうには木々と落ち葉に包まれた道とも言えぬ道が暗がりに向かって伸びている。近付いてみると、地面にはタイヤの通った跡が僅かに見受けられるのだが、いつ来てもそこは進入禁止のままだった。都市伝説として、語られた事もあった。その先に何があるのか、調べに行くと帰れなくなる。こんな噂も立って一部の物好きを騒がせたが、いつしかふっつりと忘れられてしまった。そんな場所である。
 琴美と随行隊員がひた走ったその先に見たものは、狭い平地に造られた白塗りの施設だった。闇夜の中に薄ぼんやりと光を放つ建造物は一階建てだが、事前の調べでは地下に複数階層広がっているはずだ。届け出は医療系独立行政法人、疫病の分布状況や新種の調査、ワクチン開発をその目的としている。琴美は明かりに触れない距離で観察を続けながら、確認のために口を開いた。
「中では通信が使えない可能性も高いみたいですから、決して離れないように。でも、私の援護は考えないで。あなたはあくまで情報収集を優先し、必要の場合には破壊を……」
 と、そこで黙った。ガサガサと彼女達のすぐ側を、でっぷり太った野ネズミが悠然と横切っていったからだった。途中、ちらと目があったような気もする。二人は顔を見合わせた。
「琴美殿、今のって……」
 支援隊員が顔を引きつらせているのは、もちろんそれが苦手だからではない。今回の任務は、そもそもネズミが発端となっているからだった。
 三ヶ月前、この山の麓に位置する村で、一人の男性が破傷風によく似た筋肉麻痺、痙攣発作で死亡した。わざわざよく似たと表現するのは、破傷風に対する抗生物質等の治療が全く効果をあげなかったという医師の報告からである。後日、遺体はこの施設に運ばれて解剖、ウィルス解析が行われたそうだが、新種のウィルス等は発見されなかった事になっている。
 その一連の手続きや報告に関して、防衛医科大学内の防衛医学研究センターが疑問を持った。そこで自衛隊の調査機関が動いたところ、興味深い事項が判明していった。
 死亡した男性は生前、ネズミに噛まれたと言っていたらしいが、報道や報告書にその事実が全く載っていない事。遡ると、一年程前からこの地域の保健所に、その場をぐるぐる回ったりおかしな動きをする野ネズミを見たという、周辺住民からの通報がいくつか記録されていた事。また関連性は不明だが、この山の付近で行方不明者が過去に多数出ている事。そしてこの医療系独立行政法人に、何故か防衛省の流れで何人か天下っているという事。そうして、この件は特務統合機動課に持ち込まれた。
 いずれもが繋がっているとは限らない。しかし臭い。事実関係を正確に確認し、火急の危険性が認められた場合にはそれを破壊殲滅する。これが彼女達の仕事だった。

 辺りは静まりかえっている。野ネズミが去った後は、嫌味な程に音がない。
 琴美はハンドサインで支援隊員に指示を送ると、闇に紛れるように後退った。地面には砂利や小枝が広がっていたが、それを避けているわけでもないのに、静寂は全く乱されない。するすると幹の間を流れていくその動作は、琴美がこのまま夜に溶けていってしまうかのような錯覚を覚えさせた。
 程なくして、彼女は動きを止めた。周囲を見回していた眼が、ある一点を捉えて微かに細められている。豊満な胸が呼吸のために一層隆起したその時、目の前ののっぺりとした黒の中から、暗視装置を身に付けた大柄の男がぬっと現れた。
 琴美が上体を反らしてスウェーバックした空間を、棒状の武器が風を切り通り過ぎていった。パチパチと小さな異音が耳に残る。恐らくスタン警棒だろう。琴美は木の多い所までステップで後退すると、いつの間にか手にしていたクナイをくるっともてあそんだ。艶のある長い髪が横顔に落ち、揺れている。
「あら、こんな所で何をしてらっしゃるの? ネズミ退治かしら?」
 男は190はある筋骨隆々の体格を迷彩で包み、狩猟者らしく身を屈めて黙っていた。彼女に逃げる意志がないのをすぐに見て取ったのか、その場から動こうとしない。琴美と彼とではリーチに大きな差がある。スタン警棒を相手に打ち合える武器も少ない。彼女のいる障害物の集中した場所に行く理由が、彼にはないのだ。
 すると、琴美が駆けた。身を低くして疾駆する敵に男は警棒を振り下ろしたが、彼女はいない。既にその横を走り抜けている。すぐに武器を右手に、薙ぎ払いながら振り向くと、女は彼の懐、その下に背を丸めて潜んでいた。
 琴美は背後、それも自分より上の対象を信じられない速さで蹴り上げた。身体をひねりながら、踵で鋭い楕円を描くように放たれた撃が、鞭のように顎を打つ。男はくらくらと仰け反りながらも、警棒を前に構えて何とか間合いを確保しようとした。無意識に働く防衛本能である。琴美から見れば、それはあまりに緩慢だ。あたかも差し出されたようなその手首を、左手で捉えた。
 男があっと思った時には、彼は腕を思い切り引っ張られて、一本背負いのような体勢に持ち込まれていた。琴美の右手には、逆手に持ったクナイがある。それが彼女の脇腹から背後に突き出していて、彼の胴体は吸い寄せられるようにその切っ先に向かっていった。
 鈍い音がした。影絵のように冷たい光景が浮かんでいる。シルエットだけなら、少女が大男に肩を貸しているように見える。彼の足が地面から少し浮いているのだけが、不自然だ。
「ちょっと急ぐ必要があるみたいですわね」
 琴美は大男を横へ放り、それを見下ろしながらクナイの血を払った。
「かなり物騒な事をしているみたい」
 先んじて施設へと向かい、用意していたIDカードや端末でセキュリティにアクセスしていた支援隊員に近付くと、既に準備は整っているらしかった。手早い仕事に感嘆し、琴美は開け放たれた扉を堂々とくぐっていった。