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<東京怪談ノベル(シングル)>


結びついた

 珈琲のにおいがしみ込んだ机に、ステンドグラスを通り抜けた夕日がやわく差し込んでいる。黄金のエスプレッソマシンに降り注ぐ光の粒子は、さまよったすえに故郷を見つけた小さな魂のように見えた。
 きしきしと、床を一歩一歩踏みしめテーブルを行き来している給仕が、足元に伸びる自分の影をじっと見つめた。影も、影の主 久世・優詩も、口をつぐんだままである。
 色とりどりのガラスのそばで、塵が光の中を舞い踊っている。灰色交じりになった色彩のパズルの、その真ん中に人影が落ちている。
 朽ちた教会で祈る巡礼者のようだ。
 朽ちた教会に住む朽ちた神のようだ。
 最後に店を去った客の、使っていたコーヒーカップをトレイに乗せる。エスプレッソの残り香。
 カウンターを振り返る。トレイの上にあるカップと揃いの絵柄はひとつもない。淵も、色も、取っ手も、すべてが一つとして一致しない食器たち。それでいて棚の隙間を、いびつさを感じさせずに埋めている。
 ステンドグラス。この店にある、もう一つの。
 久世が目を細めた。何一つ、不必要なものなどない。それぞれに必要な色彩を身にまとい、宿命的に組み合わせられ、ひとつの絵となる。
 パズルのピースは個々が自らの存在を主張し、その凸凹を生かしたまま、こじんまりと――そして綿密な――絵画となる。
 初めて飲んだエスプレッソの、忘れがたい感覚がよみがえる。
 心の底で混ざり合った深く暗い、やさしい味。もはや記憶と溶け合ってしまい、記憶そのものになってしまったような。

 トレイがカウンターに置かれる音。カップに浮いていた薄い香りが消えていく。
 久世はゆっくりと瞬きをした。そしてゆっくり目を開いた。深海の色をした瞳に、ステンドグラスが写りこむ。
 ふっと息をつけば、店の持っている独特の、そこにいた人のわずかな影と、水と、珈琲と、古い木々の抱えていた空気が揺れる。ドライフラワーがかすかに、乾いた音を立てた、気がした。

 初めてこの店に来た客のように、久世の視線が窓にテーブルに、ドライフラワーを抱える花瓶に、その影を受け止める床に、流れる。
 いい店だ。
 ゆっくりと時間が流れている。
 どこかで時を刻み続けている時計と、窓を支える光の柱の傾きだけが、流れを作っている。
 しかし。ふと。
 久世の視線がもう一度店内をさまよう。
 いつもの店だ。カウンターもテーブルも、塵一つ残らないように拭いた。カップの並びも普段と同じ。ドライフラワーも花瓶も、取り替えた覚えはない。扉は閉まっている。昨日と変わらない光景が、眼前に広がっている。
 けれども。
 彼は既視感に囚われていた。
 なぜ、既視感を感じるのだろうか。
 決して未視感ではない。なぜなら、初めての場所に迷い込んだように――繰り返すならば、初めてこの店に来た客のように――感じるのだ。
 ここには以前来たことがあると。
 ここには無論毎日来ている。ここで働いている。客がいなくなり、Closedの文字をかかげた扉を閉めるまで、ここにいる。
 それなのに、全身の細胞が、初めて手を水に浸した時のように冷たく震えている。頭の中をさっと冷気が通り抜ける。

 久世はもう一度店内を眺めつつ、知識の井戸から情報を汲み上げた。
 既視感。たとえば、一度も訪れたことのない土地で、見知った光景と不意に出会うこと。存在しない過去に確信を持ち、一時的に“本物の過去”としてしまうこと。

 原因は妙な感覚を置き去りにあっさりと目の前に姿を現した。
 店内の隅のテーブル、見覚えのない本。
 こげ茶色のハードカバー、背表紙には金色の文字が書かれている。
 それが何なのかは、テーブルの傍に立った瞬間にわかった。表紙に書かれた文字、誰かの名前。そして背表紙と同じ金の文字で、DIARYと書かれていた。よくよく見ると、それは金色のインクで書かれていた。でこぼこの厚紙の上ににじんだ黄金がくたびれた表紙に浮き上がっている。
 筆者の名前も、銀色のインクで記してあった。こちらは表紙と共にくすみ、どんな光をも反射せずに沈黙していた。かすれた外国語の文字からはいかなる音も読み取れない。

 久世は決して、日記を覗き見するような人間ではない――むしろ、他人の秘密を暴こうと考えることもないであろう、そういう人間である。だから、忘れられた日記帳をカウンターの上か棚の隅に置いておき、持ち主がやってくるまで保管しておけばいい。普段の彼なら、そう考えていただろう。
 しかし、今日は別だった。
 店の空気を根本から捻じ曲げ塗り替えていたその本を、見つめる。手にとって、ざらりとした感触を確かめる。文字の上に指を這わせて、あたかも黄金が自分の指先に色を残さないかと期待しているように、行く先を目で追っている。

 なぜ?
 その言葉を反芻する。
 なぜこの日記を開こうとしているのだろう?
 きらりと英単語が光る。たった五文字のアルファベット。
 久世は顔を上げた。ステンドグラスを見、その隣の扉を見止めた。古い木を覆う、美しい装飾が施された扉。開店中は開き放しの、つまり内側に――久世の目の前に、見るものを魅了する蔦と蛇いちごの彫刻、金の葡萄を掘り込まれた扉。たとえ閉じてあっても惹きつけられる、つい取っ手に手をかけたくなる魔力を与えられた、空間と時間を閉じ込めている蓋。
 時空。かつて見た、感じたことのある時空。
 顔を、両手に戻す。触れてはいけない、しかし確かめなければならないことが、その本には記されている。確かな自信が無意識に芽生え、無言のままにページをめくった。


<今日は星がよく見える>
 という言葉から、その日記は始まっていた。
<黒い空にちりばめられた星々は、それぞれが異なる輝きを持っている。すべてに役割が与えられているのだ。赤い星は宇宙をあたため、青い星は人々の道しるべとなる>
 そこに添えられた星の名前に、久世が発音できるものはなかった。
 しかし星の色と星座の形、並び方を見れば、それがここ――地球から見えるものと大差ないことがわかる。
「たとえばこの星は、黄色い星の連なりである」
 声に出して読んでみる。
「これは人々の心を照らす。月よりも鋭く細く、心の奥を透かしてみせる」
 おそらく筆記者がつけたのだろう、星座の名前がすぐ下に記してあった。
<XXXXXXX、つまり声である。彼らのまたたきは、音を発するのどの震えである。彼らが宇宙にある限り、宇宙は私たちに語りかける>

 次のページにも、その次にも、星座の名が書き連ねてある。
(色とりどりの星が重なり、宇宙を形作る)
 心の中に文字が躍る。
(すべてがつながり、空は空として空になる)
 脳裏に、夜空が浮かぶ。星に繋ぎ止められた空。光のはりと暗闇の柱に支えられる天井。

<私が星に名前をつけたのは、XX年のことだった>
 数枚のページをめくった後、一行だけ、日記らしい文章が見つかった。今まではその人を表す日記というよりも星座の観察日記としか言いようがなかったから、その文章は何よりも珍しく見えた。
 次のページには、相変わらず星の名前と宇宙の解釈が所狭しと書き述べられている。
<XXXXは、ZZZZZの隣に突如現れた光である。いったいどれくらいの過去からやってきたのだろう?>

(星の輝きは、過去の輝き)
 たとえ専門に学んでいなかったとしても、光速や光年の知識は身につくものだ。
<私は星の生まれる瞬間に巡り合えたのだ。ZZZZZの隣にかすかな光があったのは確認できていた。それが輝きを増し、ついに星となった>
 筆者の心と共に文字は書面で舞い踊り、次の行に、あの金色のインクが姿を現した。

<わが友の死に乾杯!>

 突如飛び込んできたその一説に、違和感を覚えずにはいられないだろう。友人とは星のことか? 星はたしかに、過去その身を爆ぜて光を振りまいたのかもしれない。しかしそのことが筆者にわかるのだろうか?
 椅子を引き、腰を下ろす。姿勢を正し片手で日記を支え、読み進める。

<白い星とは命である。それは空に還った魂である>
 目を閉じ、夜空を思い描く。
 一目見ただけでは、白い星しか見当たらない。そこに色があるかどうかなど、肉眼では観察しきれないはずだ。どんなに寒い冬でも、都市から遠く離れた草原の真ん中ででも、星々の表情を読み取れたことはあっただろうか。
「何を見ていたのか――」
 頭の中に浮かんだ疑問を、そのまま口にする。
「あなたは、何を見ていたのですか」
 言葉の相手は遠い過去にある。たとえ現世にいたとしても、ここから声が届くはずもない。空気の振動は久世の鼓膜だけを震わし、窓に、扉に、食器の棚に、古木のひびの間に吸い込まれていく。
 ――はずだった。

<私が見ているのは、過去から現在まで生き続けた魂の流れである>
 答えは久世に宛てた手紙のように、ページの向こうで眠っていた。
<永遠に深くたゆたう宇宙の中で、醒めては眠る命の輝きである>

 目を凝らし、声に耳を傾ける。それは自分の声だった。ただ、自分の口から発せられたものではなかった。日記が、そこに書かれた文字と染みたインクが語っていた。
 そしてもう一つ、体に違和感が走る。最初はぼんやりと、右腕に誰かの手でヴェールが巻かれたくらいの感覚。しばらくすると、次のページにかけた右手がぴりぴりと痺れてきた。
 変な姿勢をとっていたんだろうか。手のひらを見つめる。ぐっと力を込めて握り、指を一本ずつ時間をかけて開く。痺れは一瞬和らいだが、直後に再び指先にまで広がった。
 あまりの変化に眉をひそめる。何より、痺れは不快なものだった。ただ不調だということだけではなく、もっと別の……例をあげれば、原因がわからないということ。
 痺れはやがて震えに変わり、腕の中まで及ぶ震えはけいれんを引き起こし、痛みを感じることはなくとも戸惑うには十分だった。

 そして。
 どうしたものかと指を眺めていた久世が、はっと息を飲み手を凝視した。
 明らかに、その手は文字を描いている。
 いややはり、客観的に見れば……つまり実際の久世の指は、万年筆一本握ってはいない。先ほどと同じように、本の上に掲げられているだけだ。
 しかし。筋肉の躍動、人差し指と親指に感じる筆の抵抗、紙の上を走るペン先の細かな動きまでもが、伝わってくる。
 もう一度自分の体、手に意識を集中する。“その手”は何も描いてはいない。ペンもインクもなく、今掴めるのは空気くらいだろう。ぴくぴくと不定期に脈打つ指では文字を書くことすらままならないはずだ。
 だからこそ不思議に――あるいは恐怖を覚えるしかなかった。
 あくまで久世は、目の前の光景と手の異変を感じながらも冷静でいた。それは彼だからこそできるのであって、常人であれば少なくとも日記を投げ飛ばし、人によっては店から飛び出していただろう。
 それでも彼は、日記を机に置き、ページをめくった。もう一つの“右手”は、文末を書ききったかのように、手首をそっとどこかに(おそらく、机に)乗せた。

<右手は――>
 再び、見えないペンを持つ手が動きだす。
<右手はYYY、この星座の東に。その青いまたたきは指をほぐす手のごとく。時には隣人の指揮をとり、振り上げられる腕の躍動と血の流れが光輝となる>

 血液脈打つ右腕を、左手で握る。一寸の狂いもなく血潮をめぐらす血管の青色がすうっと薄くなる。
<時に彼は光芒を鈍らせる。星座は指揮者を失い、辺りを探ることすらままならなくなる>
“右手”は拘束されながらも文字を書き続けた。血色が失せ冷たくなった右手を左手から解放する。一息つく間もなく、あたたかな血の細流が五指を駆け抜ける。

 自らの手が見えない何かに文字を書き続ける感覚は、妙なものだった。体から手の魂のようなものが剥離し、唯一繋がっている神経という名の糸が、厚紙をなぞり細かく上下するペン先の振動を伝えてくるのだ。
 右手をそっと机の上に置く。ざらざらした木の面が皮膚に薄く食い込んでくる。痒みにもならない触覚が、もう一つの右手と一致する。ようやく、魂の一部が体に還ってくる。
 それだけだ。ほかには何も共有していない。

 左手でページをめくる。
<のどが渇いているのはわかるか?>
 初めて現れた疑問。
<ところどころひび割れたくちびるが水を求めているのはわかるか?>
 そのくだりを読み、初めて口を薄く開く。
 ぴしりと亀裂が走る感触。自由がきく指で触れてみると、うっすらと血がにじんでいるのか、小さな赤いしみがついた。
<赤い星が輝きを失いつつある。黄色い星がその後を追おうとしている。こんなことがあってもいいのか?>
 息を吸い込む。からからになったのどの鈍痛。口腔の奥の奥まで、水分が奪い去られていた。

(もう声は出ない)
 かすれた声音が絞り出される。もはや枯れ木の森を吹き抜ける木枯らし、の、断片。たった一行の文句を読み上げることすらままならない。
(彼らはもはや星ではなく、夜空の一部となった。夜は言葉を失った)
 ひゅうひゅうと、隙間風が吹いているような。声を出そうとするたびに水気は溶けて消え――久世の脳裏に、宇宙へ取り込まれていく二つの星が浮かぶ。赤い光と黄色い光。黒い布に落ちて、しみを残すこともできずに失われる色彩。

<確かに空に繋がっていた星が、個々を失いつつ、ほどけていく>
 今まではそれぞれがまばゆく光り、決して競合せずに夜空を形作っていた星たち。寝床を離れていけばいくほど、灯りは擦り切れ闇に食われる。
<同じ灯を持つ星などひとつとしてない、だからこそ繋がっていたというのに!>

 久世は顔をあげた。
 棚を形作る何かがゆがんで見えた。
 気のせいとしか思えない、頭の中に残るのは、かきまぜられた後のマーブル。この光景はどこかで見たことがある。
 テーブルの影を覆うように、ステンドグラスのまぼろしが浮かび上がっている。
 うねる空間の中で、“右手”だけが忙しく文字を書き綴る。クライマックスに向けて、速度を上げて、終わりの果ての果てへ駆け抜ける。

 窓を見上げると、強烈な閃光に目がくらんだ。太陽がガラスをまっすぐに通り抜け、反対側の壁まで突き刺さっていた。
 色彩をおびた影は床で沈黙している、この世の約束事などなかったと!

<ほどけた星座はだんだんと、そのままの距離で散り散りになる>
 右手と“右手”のように。
<私には、空が歪んでいく工程のひとつひとつを、手に取るように理解していた>

“右手”が文字を書きつける間、全身の肌がひりひりと痛んでいた。枯れたのどで呼吸をするたびに、部屋の水分が書き消えていった。
 手首を木のささくれが浅く切った。しかし右手には傷一つついていない。

 久世の瞳孔がぐっと絞られた。宵闇の瞳に夜のとばりが下りた。
(歪みは空の、星の光さえ届かない遠くに……遠くから、始まっていた。それは空気を巻き込み、渦巻き、銀河の川をすいと滑りながらここへやってくる)

 突風が耳をつんざいた。悲鳴のような音だった。窓の外で何かが折れる。中庭の木の太い枝が、何かに当たって吹き飛んだのかもしれない。
 部屋が揺れる。コーヒーカップたちが身を寄せ合うようにかたかた震えている。棚はまだ歪みの中にあり、かしげる店とは逆の方向に空間を捻じ曲げた。
 直後。爆発に似た重い音を響かせ、店が大きく縦に揺らいだ。思わず目をつぶる。大地の割れ目から地の底に落ちたようだった。
 カップはがしゃんと音を立て、なんとかソーサーにしがみつく。テーブルと椅子は身をひねって床に着地した。柱が天井を押し上げ、それを壁が支えた。
 目を開く。照明が消えている。窓からあふれる光だけが、たおやかに部屋に満ちていた。

<ついにZZZZも消えた>
 暗がりの中、かすかに見える文字。
<空は目を失ったのだ>

 ふと気づく。自分の手はたしかに、日記のすぐ上に――ページをめくれるように、添えていたはずだ。右手は変わらず机の上で、勢い損ねず文字を書き連ねている。
 それも、もはや感覚だけだ。左手のひらに感じる細かな凹凸、紙の表面に触れている確証はある。しかし目には映らない。

<私は自分の手を捜した。足はどこに行ったか、体はまだあるのか? 幸い、手は腹を探り当てることができた。私は目だけを失ったのだ、空と同じに>
 日記の文字だけが、網膜に焼きつけられる。わずかな霞もなく。薄れていく視界の真ん中で、“右手”が綴っていく。
<私の中で、人々の声は響かない。耳があることはわかるのだ。顔の横に、たしかにそれは存在する。しかし私にはもう、いかなる旋律も届かない>
 左手が中空に放り出される――それとも、紙に触れていることがわからなくなったのだろうか?
<のどの震えもわからない。自分の呼吸も聞こえない>
 息を吸っていることすらわからない。
<なぜ自分がこの日記を書き続けていられるのだろうか?>

“右手”はそこで止まった。“右手”だけは、尚も万年筆を握り、手首を机で休ませていた。
 ぐるりと部屋を見回した……と、思う。もはや、筋肉の収縮弛緩さえ感じない。風もない、音もない、その場所で、“右手”から伝わる感触だけがどこかに伝わり伝え続けていた。

<私には――ページが見えていた。私は目を失いながらもなお、見ることができた。目はそこにあったからだ。探せば見つかるところに>

 瞼を、開く。

<目は中空を漂い、私を見つめる。私は肩を落とし耳をふさいでいた。何かを探しているようだった。おそらく目を探しているのだ……探せば見つかるのだから>

 自分の――久世の、背中が見える。視界だけが分離し、部屋の中を自由に飛び回っている。左を見れば、久世も左を向いた。右を見れば、右を向く。こちらを振り向かせようとすれば、当然視界も後ろの壁を映し出す。
 ここからでは顔が見えない。目がついているのかどうかもわからない。

<すべてがただの暗闇になってから、今日ようやく私はすべての知覚を取り戻した。それらはすべてばらばらで、かつてのようなつながりはない。漂うだけだ>

 視界があたりをふらついている間、右手は日記を書き続ける。聴覚はその隣にあり、未だけいれんを続けている腕の筋肉の、どくんどくんという脈を聞いていた。声を出そうとしても、のどがどこにあるのかわからない。果たして言葉が紡がれたとして、聴覚に訴えかけることはできるのだろうか?
 すべてばらばらで、かつてのようなつながりはない。
 漂うだけだ。

 ステンドグラスを見てみる。窓は相変わらず、きっちりと枠を決め、いつもの通りに色を分けている。棚を見る。さきほどのゆがみはどこへやら、部屋は平常を保っていた。コーヒーカップたちがこちらを見上げている。
 エスプレッソマシンの、かわらない輝き。光の膜をまとった、魂の故郷。

 ステンドグラスを通り抜けた光だけが違った。
 それはばらばらに見えた。色のひとつひとつが所在なさげで、よそよそしく、隣の色と手をつなげないでいる。それぞれが一色ずつの陰影を落とし、窓として存在することを拒否していた。

<私は空を再びつなげる方法を思いついた>
 休んでいた右手……の感覚が動き出す。
<すべては“これ”でつながっていた。星も空も>

“これ”とはなんだ?
 視界を絞り肩越しに日記を覗き込んで見ても、文字はそこで終わっている。左手は動かない。どうやって動かせばいいのか見当もつかない。
 自分の体から離れ、床を見つめる。続いて壁を、最後に天井を。
 いい店だ。
 木々と光と、エスプレッソの残り香が混ざり合ったにおい。ほどよく手入れされ、ニスの薄くなったカウンター。ドライフラワーの控え目な主張。無限に思える木目たちが、部屋のあちこち、四隅の暗がりにさえ自分だけの場所を持っていた。
 扉には、蛇いちごの蔦が絡まっている。金色のぶどうがたわわに実をむすび、明日の客を待っていた。
 すべてが結びついた場所。
 噛み合わないものはひとつだけ。

 久世はページをめくった。そこには何も書かれてはいない。視界には何も映らない……目をつぶったからだ。耳にはインクのついた万年筆が走るさらさらという音、のどにはわずかながら潤いが戻り始める。

 右手が記す言葉。
「久世優詩」
 すべてを繋ぎとめられるに足りる言の葉に、これ以上のものがあるだろうか。


 久世は瞼を開いた。見開きの日記帳、最後のページ。
 どんな色も飲み込む漆黒の。
 その上に、銀色の文字がある。

 なんのことはない。ここはいつもの店。いつもの時間、いつものように掃除を終えたところ。窓から落ちる色彩の光は床で広がり、久世の影を浮かび上がらせる。
 閉店準備を終わらせた給仕だ。
 あと残っているのは、最後の客が置いて行ったコーヒーカップを洗い磨くだけ。棚に戻すのはもちろん自分の仕事だが、カップが自ら棚に帰ろうとしているように思えなくもなかった。
 それですべてが終わる。ふたたび店は今日と明日を繋ぎ、同じ風景を彼の瞳に映し出すだろう。それは絵画であり、過去と未来に続くパズルのピースであり、記憶そのものになる。

 日記はあるべき場所に戻った。それは混沌であり、暗闇であり、歪みの真ん中でもあり、命と魂の生まれる場所だ。

 扉の開く音。
 夕日が一寸店を照らし、光の柱を机まで伸ばした。そこに日記はない。
 扉の閉まる音。赤い光が黒に溶け、消える。

 ばらばらになった音とにおいと空気と風景が、新しく、記憶と――