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【スナイパーとシスター】
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それは美しい、地獄だった。もの言わぬ骸。右も左も、見渡す限り、人の死体だった。遠く離れたこの場所からでも、血の匂いがしそうなほどだ。
まともな神経をした人間なら、それだけで腹の中のものを吐き出すなり、目を背けるなり、意識を手放すなりする。まさしくそれは、この世のものとは思えない惨状だった。
しかし、その男は腹の中のものを吐き出すことも、目を背けることも、ましてや意識を手放すこともしなかった。いや、正確にはできなかったのだ。
男は魅入っていた。地獄のような惨状の中心で踊る、一人のシスターに。
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視界が悪かった。時間は深夜と言っていい時間だ。周りは鬱蒼とした木々に覆われている。街灯のひとつもない。頼りは月明かりくらいだ。今日は満月だった。月の灯りというのは存外明るいものなのだ。ネオンに包まれた街に暮らす人間は知らない事が多いが。
しかし、その月明かりも今日の空模様では当てにならない。雲が意地悪をしているのか。それとも、月がよほどの恥ずかしがり屋なのか。どうにも雲が多く、陰っている。たまに顔を出したかと思うと、すぐに雲に遮られる。
白鳥瑞科はそんな中、躊躇いなく歩を進めていた。その表情は暗くてよく見えない。雲の隙間から気まぐれな月が瑞科を照らした。一瞬の事で、やはり表情はよく見えなかった。ただ、その目は怪しく光っていたように感じられた。
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任務の内容は単純でよくあるものだった。とある組織の殲滅。それだけだ。
その組織がいったいどのような組織なのか、瑞科は詳しく把握していなかった。
敵は重火器の武装をしている事が予想される。邪教に関わる組織である。今日は何やら大規模な儀式が行われるらしい。瑞科が把握している情報はその程度だった。
敵がどれほどの武装をしているのか。まずその前に、敵の数はどの程度なのか。儀式とはいったい何の儀式を行うつもりなのか。本当に必要であるはずの情報は、瑞科には知らされていなかった。だが、瑞科はその事を気にかけたりしない。
ただ、与えられた任務を遂行するだけですわ。
与えられていない情報とはつまり、与える必要のない情報なのだ。敵の数も、敵の武装も、儀式の内容も、瑞科が任務を遂行するのに必要ないと判断されたから、知らされていないのだ。
司令官である神父がそう判断したのなら、瑞科はそれに従うのみ。
不意に瑞科は歩みを止めた。
「裁きの時間ですわ」
瑞科は静かにそう零すと、鞘から剣を抜いた。気まぐれに顔を出した月が、その姿を鈍く照らし出した。
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白鳥瑞香。「教会」の誇る武装審問官。彼女はまさしく脅威だった。ありとあらゆる裏組織を、たった一人で壊滅させてきた女。それはたちの悪い冗談のような本当の話だ。
裏の世界に生きる者たちにとって、これほどまでに目障りな存在はいない。
「本当に一人で現れるとはな」
黒尽くめの男が嘲るように呟いた。
「あの女の伝説も今日で終わりだ」
別の男が静かに言葉を重ねた。
『時は来た』
そのとき、そんな声が頭に響いた。言葉を交わしていた男たちだけでなく、そこに集っていたすべての者の頭に直接だ。
『粛正の時だ』
男たちの目の色が変わった。
『さあ、女を殺せ』
男たちはその言葉と同時に、躍り出た。
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男たちが瑞科に向かい、剣や斧や槍、銃からサブマシンガンに至るまで、様々な武器を手に襲い掛かった。
その様子を少し離れた位置から、その男は見ていた。男の手にはスナイパーライフルが握られている。
これはただの狩りだ。男はそう思い、いや、これは狩りとも呼べない、悪趣味な虐殺だ。そう思い直した。
瑞科の周りには百を超える武装した邪教信者たちが取り囲んでいる。その男たちの表情は戦場に於ける、張り詰めた緊張とは程遠い、愉悦を帯びた下卑た笑いだった。
たった一人の女を殺すのに、ここまでする必要があるのか。ライフルを構えた男は嫌悪を表すように、眉を歪めた。
白鳥瑞科の噂はもちろん聞いた事がある。生きる伝説と呼んでも過言ではない。ただそれでも、この状況から生きて戻るのは不可能だろう。男は冷静に状況を観察していた。
普通に考えて、百の武装した人間に囲まれて、生き残れるはずがない。ただ、白鳥瑞科という女なら、それを可能とするのかもしれない。
しかし、この戦場とも呼べない舞台に用意されたのは、それだけではないのだ。そして、彼もその内の一つだった。
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「裁きの時間ですわ」
瑞科が剣を抜くのと同時に、殺意の波が瑞科を襲った。伺っていた任務内容とは、少し毛色が違うみたいですわね。
しかし、瑞科は焦りを見せるどころか、微笑を浮かべていた。
それでも、成すべき事は変わらないのですわよ。
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恐らく、あの女はここで行われる儀式の阻止という命令のもと、この場所に来たのだろう。それは間違いではない。ここでは確かに大規模な儀式が行われようとしていた。しかし、それだけではない。むしろ、本当の目的は白鳥瑞科にあった。
わざと情報を漏らし、白鳥瑞科という、脅威をおびき出し、討ち取る。なんとも単純で芸のないやり方だが、その狙いは見事に嵌まった。
俺の出番はないだろう。男は思った。
四方八方、といった言葉があるが、その倍以上の刃が、今、瑞科の身に襲い掛かっている。もしそれをやり過ごしたとしても、その周りにはさらに百を超える敵だ。生き残れるはずがない。せめて、伝説の最期を見届けてやろう。
男のそんな考えは呆気なく裏切られた。
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囲まれているのには、初めから気付いていた。気配を隠すどころか、わざとらしいほどの粘つく視線を向けられれば、どれほど間が抜けた者でも気付くだろう。
その時点で瑞科の心は冷めていた。
取るに足らない有象無象ですわね。
だから剣を振るった。何の気負いも、躊躇いもなく。
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それは圧倒的だった。それは狩りなどではなく、まさしく虐殺に等しい光景だった。 しかし、それはライフルを構えた男が考えていたのとは、まったく逆の意味でだった。
瑞科が剣を振るう。それはいっそ、緩やかとも感じるほど静かだった。しかし、その後に訪れる光景は、そんな生易しいものではない。
人が紙屑のように、いや紙屑よりも更に軽い何かであるかのように、瑞科が剣を振るう度に、人でない何かへとその姿を変えていく。そんな光景が永遠と繰り返されている。
しかし、瑞に襲い掛かる男たちは逃げることも、怯えることもせず、愚直なまでに次から次へと瑞科にその刃を向ける。その顔に歪んだ笑みを浮かべて。
きっと、これが悪魔と契約をした者の成れの果てなのだろう。恐れや恐怖を失くし、破壊を求める。その心は完全に壊れている。
男はその姿に怖気すら感じた。
しかし、本当に恐ろしいのはそんな邪教徒たちではない。
本当に恐ろしいのは、白鳥瑞科という、一人の女だった。
彼女の力は噂以上だった。男の想像を遥かに超えていた。確かにそれは恐ろしい。だが、男が本当に恐ろしいと感じたのは、そこでもない。本当に恐ろしいのは、白鳥瑞科という女がこの地獄絵図の中で一人、微笑を浮かべていた事だ。邪教徒たちのように心が壊れている訳でなく。まともな人間の心で。
しかし、男は瑞科から目を離せなかった。
瑞科が人を斬るその姿が、どうしようなく美しかった。
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男は、裏の世界ではそれなりに名の知れたスナイパーだった。狙撃などというものは、遠く離れた物陰から、相手の隙を狙う卑怯者だと思われるかもしれない。実際に、男は他の暗殺を生業とする者たちから、時には遠巻きに、時にはあからさまに揶揄された事が、両の手では数えきれないほどある。
確かに俺は卑怯で臆病な男だ。そう男は思いながらも、狙撃に誇りのようなものを感じていた。
狙撃とは、何の前触れもなく訪れる交通事故のようなもの。男はそう思っていた。
相手に気取られず、何が起きたのかも分からない内に、確実な死を与える。それがスナイパーというものだ。一発で仕留められなければ、それで終わりだ。
そして、その一発で仕留めるという事が、如何に困難なことか。ただでさえ、狙撃というのは遠距離から行うものなのだ。重力、風、湿度、ありとあらゆる条件を把握し、ミクロにも満たない照準が要求される。それは最早、精密な機械ですら不可能と言える領域だ。しかも、目標は止まった的ではない。常に動き続ける人間だ。その人間の動きを観察し、思考を把握し、呼吸すら読み切れなければ、狙撃は成功しない。
家族よりも深く、恋人よりも濃密に、目標の事を理解した時、引き金に掛かった指は自然と引かれる。その時、男は目標と一つになるのだ。
目標が男に、完全に溶け込んだ時、目標は死を迎える。男は狙撃を行う度に、自らを殺し続けているのだ。
しかし、今日の男の心情はいつもと違った。まず第一に、自分の出番が来るとは思えなかったということである。だが、これも仕事だ。男はスコープ越しに、瑞科の姿を捉えた。瑞科の動き、思考、呼吸、すべてを理解しようと、男の思考が醒めていく。
男の視界に映るのは瑞科だけになっていた。
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男は瑞科と一つになっていた。瑞科という存在が男の中に焼き付き、瞼を閉ざして尚、男は瑞科のことが手に取るように分かった。
襲い掛かる邪教徒たちを切り捨てていく剣、その剣を振るう腕は華奢なほどに細い。その動きに合わせて絹糸のような長く美しい髪は踊るように揺れ、敵の攻撃を躱し、返す刀で敵を沈めていく姿は踊っているかのようである。
瑞科は大振りをすることも、無駄に大技を繰り出すこともしない。的確に、邪教徒たちを斬り捨てていく。それはいっそ無機質で機械的でもあるはずなのに、どうしようもなくその姿は美しい。
男のところまでブーツの音が聞こえてきそうなほど軽やかな足捌きという名のステップを踏み、シスター服の深いスリットから大胆に覗く腿はあられもなく、見る人を魅了する。コルセットで絞られ折れそうなほど細い腰に、自己主張の激しい豊満な胸は戦闘には邪魔になるのでは、とすら思える。
しかし、瑞科からは苦しさもつらさも感じられない。ただただ、優雅に、華麗に、踊り続けている。そして何よりも目を惹かれるのが、瑞科のいっそ艶やかと言える、微笑を浮かべた口元。
男の中に、瑞科が確固たる存在として焼き付いていた。これほどまでに美しく戦う人間を初めて見た。それでも、男は今までに繰り返してきたとおり、確かに瑞科と一つになっていた。
それなのに、引き金が引き絞られる事はなかった。
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どうしてだ? 男には分からなかった。いつものように狙撃目標を観察し、理解し、一つになった。今なら、瑞科の次の動きどころか、呼吸のタイミング、その深さまで分かる。なのに、引き金に掛かった指はピクリとも動かない。
そうしている間にも、邪教徒たちは血を撒き散らし倒れていく。気付けば、瑞科を囲む人間は数えるほどしか残っていなかった。
撃て。撃つんだ。今、引き金を引き絞れば、あの女を殺せる。男はそう確信していた。なのに、指は言うことを聞かない。
瑞科は尚も踊り続ける。殺戮という名の舞踏を。
残り五人――。
残り二人――。
残り一人――。
瑞科は十字を切るように剣を振ると、ゆったりとした動きで剣を鞘に納めた。瑞科は無防備に、男に背中を向け、佇んでいる。
今だ、撃て!
男の中の自分が一層強く声を上げた。
男の指がようやく動いた。あとほんの少し引き金に掛かった指に力を込めれば、あの女は死ぬ。
男の口の端が吊り上がった。それは愉悦の笑みではなく、安堵の表情に見えた。
これで、終わりだ。
男は引き金を絞り込もうとした。
その時だった。瑞科が静かに動いた。
瑞科は不意に振り返ったのだ。その目は真っ直ぐ、男のスコープ越しの目を捉えていた。
気付かれた!
男は無理に引き金を絞る事はしなかった。そんな事をしても、瑞科を仕留める事はできないと、男は理解していた。こうなったら長居は無用だ。
それに、男は瑞科が最後に斬った男が、懐からある物を取り出すのを、確かにその目に捉えていた。
これで白鳥瑞科は終わりだ。
何とも芸に欠ける手段。しかし、確実な死をそれは与える。範囲五百メートルを吹き飛ばす爆弾が、起爆した。
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数キロ離れた位置にいた男の元まで、熱、爆風、轟音、その爆弾の余波は届いた。
呆気ないとすら思える結末だ。しかし、これが現実というものだ。たとえ、白鳥瑞科が恐るべき戦闘能力を持っていたとしても、あの爆発から逃れることは不可能だろう。
あれだけの爆発だ。直に警察などが押し寄せてくるだろう。その前にこの場を離れなければ。そう思ったときだった。
爆発の煙を洗うかのように、一陣の風が吹いた。
それはただの風。しかし、男は背が冷えていくのを感じた。
風に乗って、花のような甘い香りと、何よりも、嗅ぎなれた血の臭いがした。
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「もうお帰りですの?」
鈴が鳴るような、澄んだ声がした。
「いつの間に、そこにいた?」
男は動揺を押し隠しながら、振り向いた。振り向くまでもなく、分かっていた。そこには白鳥瑞科が堂々と立っていた。
「あら、質問をしているのはわたくしですのよ。それを無視して質問をするとは、失礼な殿方ですわね」
何の気負いもなく、まるで友人と話すように瑞科は言った。しかし、そんな彼女のどこにも隙はない。
「……」
男は黙ったまま、瑞科を観察した。先程まで数キロは離れた場所にいたはずだ。その前に、この女はどうやってあの爆発から生き延びたというのだ。
瑞科の服は綺麗なものだった。土も返り血も、汚れ一つ無かった。
「今度はだんまりですの? 寡黙は一つのアイデンティティーではあると思いますが、必要以上の無口は女性に嫌われますわよ。それとも、この服でも気になりますの?」
男の視線から、瑞科はそう言い、
「これは新しい戦闘服ですのよ。わたくしも気に入っていますの。あなたには差し上げませんけどね」
男は瑞科の軽口ともとれる言葉を無視し、思ったことを口にした。
「なぜ俺を殺さない?」
男には瑞科の動きが読める。瑞科はまだ、男に見せていない実力があるのも、この至近距離に立たれれば、理解できる。おそらく、瑞科はあの爆発を剣で斬ったのだろう。馬鹿げた考えだが、この女なら出来る。男には分かった。
今も呆れたように息を吐き、腰に手を当て、こちらに視線をよこす。その呼吸からタイミング、眉の傾きまで、男は手に取るように分かった。そして、すべてが分かるからこそ、男は確信することが出来た。
俺はこの白鳥瑞科という女に、絶対に勝てない。ありとあらゆる攻撃、フェイント、そして逃走をイメージする。しかし、どれを選んでも、確実に俺は殺される。なのに、なぜこの女は俺を殺さない?
「口を開いたと思えば、無粋なことを聞くのですわね」
やれやれとでも言いたげに瑞科は肩を竦めてみせた。
「あなたは先程の方たちとは違う。邪教徒ではないですわね」
「……ああ、確かに、違う。俺は金で雇われただけの男だ」
いったい、それがなんだというのだ?
男は瑞科の言葉に戸惑いながらも、そう答えた。
「それだけではないですわよね?」
瑞科は意味ありげに、言った。しかし、男には何を意図した言葉か分からない。
「どういう意味だ?」
「さあ、なんでしょうか?」
瑞科ははぐらかすように、両の手を腰の後ろで組み、
「わたくしの今回の任務は邪教徒の殲滅ですの」
唐突にそう言った。そんなことは知っている。なぜなら、そうなるように情報を操作したのだから。男はそう思いながら、瑞科の言葉を聞いた。だから、どうしたのだ? と。
「朴念仁もそこまで行くと罪になりますわよ」
瑞科はさらに呆れたような表情を浮かべた。瑞科を完全に理解したはずなのに、瑞科の言葉の意味が分からない。
「もう一度言いますから、よく聞くのですわよ。わたくしの任務は邪教徒の殲滅。そして、あなたは邪教徒ではないんですわよね?」
そこまで言われて、ようやく男は瑞科の言っている意味が理解できた。
「だから、俺を見逃すというのか?」
「わたくしは戦闘狂でも殺人鬼でもありませんのよ。無駄な殺生は好みませんわ」
先程、あれほどの惨劇を演じておいて、どの口が言うのか。男はそう思ったが、口にはしなかった。男もまた、自殺志願者ではないのだ。
「それにあなたのその目、悪くありませんわ」
瑞科は男の目を深く深く覗き込んだ。やはり、男には瑞科の言葉の意味が分からない。
「それでは、わたくしはそろそろお暇させて頂きますわ」
瑞科は男に背を向けた。
「お、おい」
男は思わず、瑞科を呼び止めた。なぜかは分からない。ただ、気づけばそうしていた。
瑞科は軽く振り返り、
「次に会うときは、わたくしを楽しませて下さいな。分を弁えた狙撃手さん」
そう言うと、瑞科は音もなく姿を消した。
まるで初めから、そこには誰もいなかったかのように。
世界は広い。男はそう思った。
慢心していたわけではない。しかし、これほどまでに圧倒的な存在がいることを、男は初めて知った。自分はまだまだ未熟だ。
あまりにも企画外すぎて、幻か悪い夢でも見ていたみたいだ。
しかし、振り返れば爆発によって出来た巨大なクレーターがあり、男の鼻腔には血と花のような甘い香りが、確かに残っていたのだった。
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