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<東京怪談ノベル(シングル)>


新たなる真名

 人は、大切なものの価値を、失ってから初めて知るという。
 自分にもそれが当てはまるのかどうか、松本太一にはわからなかった。
 とにかく、懐かしい自分のアパートに帰って来た。48歳の中年・松本太一としてだ。
 年齢の割に若く見られる事が多い、とは言え充分に年齢相応な老いかけた男の身体で、太一は畳の上に倒れ込んだ。
「もう2度と……元に戻れないかと思いましたよ、本当に」
 口から男の声が出て、頭の中で反響する。懐かしい感覚だった。
 みすぼらしく痩せさらばえた、中年男の肉体。こんなものを懐かしいと思うような目に三日三晩、遭っていたのだ。
(ふふっ……別に、虐められていたわけではないでしょう?)
「ええ、本当に……可愛がっていただきましたとも」
 頭の中から笑いかけてくる女悪魔に、太一としてはそう応えるしかなかった。
 変身願望、と言うのだろうか。
 今までの自分を捨てて、新しい自分に変わってしまいたい。そういう思いは、人間誰しも多かれ少なかれ持っているものだと太一は考えている。
 その変身願望が、ある日突然、叶ってしまった。新しい自分に、変わってしまった。
 そうなると、捨ててしまったはずの古い自分が恋しくなる。
 今こうして古い自分に戻ってしまうと、安心出来る一方、あの若く美しい魔女としての自分に、恋しさを感じない事もない。あれはあれで手放し難い、などと思ってしまう。
 人間とは身勝手なものだ、と感じざるを得ない。もっとも自分は、今や人間ではないのだが。
 姿までもが人間ではないものに変わり、魔女たちに半ば慰みもののように扱われていた。
「まあ、良くも悪くも得難い経験でした。いい思い出という事にしておきますよ。毎年、お正月の度にあんな目に遭うのは……ご勘弁願いたいですけどね」
(うーん……来年のお正月にならなくても、ああいう事は起こっちゃうかも知れないのよね)
 女悪魔が、何やら不穏な事を言っている。太一は、思わず身を起こした。
「どういう事です……」
(私ね、あなたが元に戻れるとは思ってなかったのよ)
 女悪魔が、信じ難い事を口にしている。
(ああ、もちろん狼ちゃんから魔女の姿に戻るのは簡単よ? 私が言ってるのは、その男の身体……元の松本太一に戻っちゃうなんて、本当に想定外。あ、でも安心してね? 魔女の姿には、いつでもなれるから)
 この女悪魔は本当に、本気で、自分に「松本太一」を捨てさせるつもりでいたのだ。太一は、今更ながらそう思った。
(脱ぎ捨てたはずの蛹が、また甦ってくるなんて……その松本太一という存在、私の想像以上に強く、あなたの魂を支配しているようね。それこそ、真名と同じくらいに強く)
「それは……そうですよ。何だかんだと言っても50年近く、私は松本太一だったんですから」
 こんな自分は捨ててしまいたい、と思ってばかりの48年だった。
 それでも半世紀近く、「松本太一」は自分の名前だったのだ。
(そうよね、私たちにとっての50年は一眠りの時間……だけど人間にとっての50年は、下手をすると一生涯。重さが全然違うのよね)
 魔女としての真名は、この女悪魔に「隠して」もらった。魔術的なプロテクト、のようなものであるらしい。これで、あの魔女たちのような強大な存在が相手でも、うっかり真名を知られて異変が生じたりという事態にはなりにくくなったようだ。
(私たちには想像出来ないほど重く濃密な、人間としての50年。その間に「松本太一」は、あなたの真名にも等しいものになってしまった……問題はそこよ。どういう事なのか、わかるかしら?)
「どういう事、とは……」
 例えばあの魔女たちに、松本太一という名を呼ばれたとする。そうすると、あれと同じ事が起こってしまう。
 自分の考えに、太一は慄然とした。
(わかったようね。あなたってば本当、頭は悪くないからそんな気苦労ばかり……もっとおバカさんになれば、この状況もいろいろと楽しめるのにね)
「楽しんでしまっては終わり、という気もしますが……それで、何か手は打っていただけるのでしょうか? 人の名前を呼ぶだけで、あんな事態を引き起こしてしまうような方々が、他にいないとも限らないんでしょう?」
(と言うか、たくさんいるわね。まったく、最近の人間の世界はどうなっているの? 私たちでさえ油断出来ないような化け物が、うようよいるじゃないの)
 貴女もその1人でしょうけどね、などとは太一は言わずにおいた。
(とにかく、そんな相手にうっかり出くわしちゃった時のために……松本太一という名前に、防御を施しておく必要があるわね)
 女悪魔の姿は、当然見えない。
 だが彼女が何かをしている事は、太一にもわかった。
「あの……防御とは、どのような?」
(あの魔女たちと同等、少なくとも真名に干渉し得る力を持った相手に、松本太一の名を呼ばれた場合……変化が起こる前に、あなたは一時的な眠りにつく。仮死状態にも等しい、深い眠りよ。意識を保ったままだと、真名への干渉を受けてしまうから。で、私が強制的に表へ出て来る事になるわね)
「貴女が、その相手と会話なり対決なりして下さると。そういう事ですか」
(それを、あなたが知覚する事はないのだけど……ね)
 女悪魔は、少し微笑んだようだった。
(あなたが「松本太一」を完全に捨て去ってくれれば、それが一番有効な防御手段なんだけど)
「そんな事、自分の意思で出来るようなら苦労ありませんよ」
 太一は再び、畳の上に寝転がった。
 自分の意思で、自分を捨てる。
 そんな事が本当に出来て、それで楽になれるのなら、この女悪魔と出会う前にしていただろう。