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<東京怪談ノベル(シングル)>


『song』

 彼女は、小振りのキャスケットを目深に被り、口をつぐんで立っている。
 駅前の繁華街から一本入っただけなのに、狭く陰気な路地だった。季節柄、空気は生暖かく湿っている。両手には汚らしい居酒屋が窮屈そうに建ち並び、ボロボロの電気看板が片付けられぬまま置き去りにされていた。遠くの方へ追いやられた喧噪の合間に、ジャズになり損ねたような音楽がどこからか漏れ聞こえてくる。それに誘われるように彼女が足を踏み出すと、瞬間夕焼けが鋭く差し込み、しかし次の一歩にはもう光は建物の影に引っ込んで、目の前は真っ暗になっていた。扉が開き、溜息のような鈴の音が鳴った。
 入ったのは、日中はカフェとして営業しているバーだった。バーとは言っても、古ぼけ赤茶けた店内に屋台で使うような机や椅子が並べられている様は、大衆酒場どころか東南アジア辺りの安宿を思わせる有様だ。それぞれ隅の方に座っている三人の客は、どれもすり減りくたびれきったような男達で、ここを朽ち木ばかりが流れ集まる淀みのように見せている。
 この中で、彼女の姿が異質に映らないはずはない。上はオフショルダーのチュニックワンピースで、アクアブルーの生地にかすかな花柄が散りばめられており、下は七分丈のスキニージーンズが脚をぴっちり包み、アイボリーのグラディエーターヒールサンダルを履いている。キャメルベージュのキャスケットから垂れる艶やかな黒髪が、脇に抱えた白いレザーバッグによく映えた。
 ボーイッシュなアイテムと少女性を感じさせる様相、その中に垣間見える潤った唇、顕わな両肩、白い素肌、形の良い足指等の端麗なエロス。それらが入り混じり、視線を上から下へと動かすだけで、七色に輝くような魅力が彼女にはあった。良家のお嬢様のような立ち姿に生々しい妖艶さ、媚びるような肢体に不服従を伝える目付き、カレイドスコープを覗き見たようなある種の目眩が、そこにはある。
 しかし、客達はほとんど反応しなかった。三十手前の比較的若い男が一人ちらと目を向けただけで、この場所では誰もが無関心だった。店主に至っては奥に引っ込んでいるのか、出てきもしない。女は周囲を軽く見回し、黙って適当な席に腰を下ろした。すると暗がりから禿げて痩せこけた老人がのっそり出てきて、水を置いた。
「コーヒー、一つ」
 老人は返事もせずに帰って行った。彼女はバッグを置き壁の時計を眺めていたが、ふとそれが全く見当外れの時間を指している事に気が付いて、首をひねった。
「どうして、君のような人がここにいる?」
 その時、後ろから声をかけられた。振り向くと先程の若い客である。無精髭をたっぷり蓄え、ぼさぼさの髪の間からはっきりした二重の目がギラギラ光っている。彼女が怪訝そうにしている間も、彼は瞬きすらせずに目線を外さなかった。それは子供がじっと相手を見つめる、あれに似ていた。
「きっと、いてはいけないんでしょうね」
 女がそう答えると、彼は満足したように唸って、彼女を自分のテーブルへと招いた。間もなくコーヒーが運ばれてきたが、それはどんなにミルクと砂糖を入れても誤魔化しきれない程、不味かった。

「正直に言うと、僕は物語ってやつがいよいよ嫌になってしまったんだ」
 男は彼女の大きく張り出した胸をじろじろと睨め回しながら口を開いた。彼は作家だと名乗った。しかしその風采を見るに、よくて作家崩れと表現するのが妥当だろうと、彼女は思っていた。
「ものを書いていると、ふとゾッとする事がある。自分が書いているものは、そのほとんどが過去に体験した事や見聞きした事でしかないんじゃないかってね。諦めるように、そう認める人もいる。けれど、僕はこの考え方が大嫌いなんだ。だってもしそうなんだとしたら、世に言う物語とは、所詮は他人の日記か何かという事になってしまう。僕が書いているのは、僕のエゴやつまらない言い訳でしかないという事になってしまう。そんなものはくそくらえだ。全くくだらないよ。自分が何かを、物語を口にしようとする時、真に己が考えて生み出したものを言えない……。全て過去に従って定まりきった自分自身の焼き直し、コピー、金太郎飴みたいな切っても切っても同じ、決まった事しか出てこないんだとしたら、これ程寂しい事はないよ」
 彼女は机の上に腕を置いていたが、その指先がぴくりと揺れた。それからそれを隠すように、小さなカップを両手で包み込んだ。
「だから僕は、これまで精一杯戦ってきたつもりさ。だけどふと恐ろしい反証に気付いてしまったんだ。『であればこそ、人は物語を欲するのじゃあないか?』。物語がその本人にとってはくだらないものにしかなり得ないからこそ、世の中には物語というものが、他者の語る言葉というものが、存在を認められているのじゃあないのか? 意志によって自己を変容させ、新しく何かになろうとしたとしても、結局はその小さな檻の中でグルグルと走り回る事しか出来ないからこそ、人は人に物語を要求し、それを許す。……これじゃあ何だか、地獄的というか、絶望的だとは思わないかい?」
 女は息を呑んだ。彼が涙を流していたのである。見開いた瞳から珠のような雫がこぼれ、それを拭おうともしない。彼女はコーヒーを口にした。一つ息を吐き、下を向いたまま徐々に力を込めて話し始めた。
「そうだわ。きっとそれが本当なのよ。私は小さい頃から厳しい環境に身を置いてきた。人の死ばかりに触れ、闘争に青春を注いできた。私が語れるものはあまりにも少ない。……この間、ネズミを育てていた男と出会ったの。そして私はそれを壊した。すると彼は、なるべくしてなったのだろう、とあっさり言ったわ。それからただ自分がすべき事だけをした。私はその姿を美しいと思ったのだけれど、酷い哀しさも感じたわ。まるでそのために生まれて死んでいった、ネズミみたいに思えて……」
「誰でもそのネズミのようなものさ」
「それでも、人は物語を書けるでしょう? 自分から動こうとする事は出来るはずじゃない」
「そうだ! 僕はそうして一歩踏み出そうとして、奈落の底に叩き落とされたんだ!」
 男はもう泣いてはいなかった。怒りにぶるぶる震えていた。彼女の二の腕を、鎖骨を、首筋を今にも飛び付きそうな表情で睨み付けている。そこにサッと冷笑的な態度が加わった。
「物語は、最初から最後まで、無責任な他人に支配されていたのさ。例えば僕が、君のその涼やかな眉の下に配置された、涼やかな目を書こうとするだろう。そうすると二連続した君の涼やかさは、少なくとも片一方が抹殺されなくちゃならない。僕は君の事を本当に涼やかだと思い感動して、それ以外に表現のしようがないと確信したんだが、彼らはそれが嘘か真かなんぞ知ろうともせず、そのような同じ文字列の連発を突き返してこう言うんだ。『馬鹿。こんな下手くそ読んでられるか。俺が欲しいのはこんなものじゃない』」
「結局あなたは、適当に取り繕った言葉を並べ立てる」
「ゴッホって画家がいる。彼が描いたひまわりの絵は何枚もある。あの中には実は、毛程も価値がないものもあるんじゃないのか? 少なくとも、名もない他の画家が描いたひまわりの方が余程良い場合があるんじゃないのか? だけど今では、そのどれもが素晴らしい芸術品とされている。例えそれが、ゴッホ本人が気に入っていない落書きめいたものだったにしても、人々にとってそんな事は心底どうだっていいんだ。それに、彼はもう口がきけない」
「読み手からの注文に受け答えする事しか出来ない消費物……」
「そうさ。君もさっき言っていた。私はここにいちゃいけないんだって」

 壁の時計は、どうやら長い間止まっているようだった。
「人間の身体もまた、何者かによって語られた言葉で構成されていると?」
「うん。君は寝起きに低いしゃがれ声で喋る事も、スウェット姿でゴロゴロしながらくだらないテレビ番組を見る事も、決して許されない」
「これまで歩んできた道を振り返って落ち込む事も、洗面所の鏡の前でニキビに悩まされる事も、虫歯を作る事だって……」
「まして口が臭いなんて事もね」
「そう! 誰も私の口臭を知りはしない!」
 彼女は男の鼻先へ、ハーッと思い切り息を吐きかけた。しかし今しがたコーヒーを口にしたはずなのに、彼には何の臭いも感じられなかった。
「その辺の男と恋を楽しんだり、まして君がそいつにフラれるなんてもってのほかだ。君は誰かに酷い事をされたり言われたりしちゃいけないんだ。そうならないように、生きていかなくちゃいけない」
「それが私を狭苦しい小部屋に閉じこめて、縛り続けている……。私はそこで読者が飽きるまで待ち続け、その後は、ただ忘れられる。時を経て家庭を持つ事も、老いた父や母と憩う事も出来ない」
「君はきっと気取らない人だろうし、そもそも美人ってのは何をやっても許されるケースが多いはずだけれどね。だけど、美人は美人として生きなければならない」
「私が私として在るための諸条件。他者からの視点により空洞化された臓腑。物語を求める衆人によって仕立て上げられた映像と、彼らのために同じようなシーンばかりを繰り返す映写機。……だけど、こうしたシステマティックな社会と生は、実際には誰の前にもあるんじゃない?」
「ああ、あるよ。人が人としてある限り、皆、大なり小なり読者の注文を損なわないように気を付けて生きている。自分の存在意義を取りこぼさないように、鏡に映る登場人物を必死に読み解いて。……しかし状況がドンと目の前のテーブルに置かれ、それをどう食べるかよろしく、礼儀作法に従って手を動かすだけ、そんな物語に価値はあるんだろうか?」
 男は声を絞り出し、深々と俯いてしまっていた。彼はもう心底苦しんだのだと女には分かった。それは彼女もそうだったからなのかもしれない。にもかかわらず、彼女ははっきりと背筋を伸ばし前を向いていた。
「それでも人は、一人にはなれないわ。面白いお話だったけれど、もし世界に自分しかいないのなら、言葉なんて必要ないわ。語られる事こそ、物語のレゾンデートル。きっと私達は、語るという行為に捧げ得る努力や工夫と、何者かの眼球の裏に潜む欲望や思惑の間で、いつまでも足掻いていかなければならない。でもそれが、生きるって事じゃあないのかしら?」
 そうして、彼女は手を差し伸べた。
「さあ、いきましょう」

 押し潰されたようなビルの二階にある、安さだけが取り柄のカラオケボックス。ここもまた彼女が来てはいけない所だろうか、と彼は考えていた。それを知ってか知らずか、彼女は数曲連続で歌い終わると機嫌良さそうに座り込み、ニカッと笑った。
「よく一人でも来て、ストレス発散するの」
「歌、下手なんだな」
 それも可愛げのある感じではなく、勢いよく歌唱するために少々反応に困る下手さだ。
「いいでしょう? だって今日は『休日』なんだもの」
「そうかもしれない。でも明日になれば、また戦いの日々か」
「ええ、そう。……そうですわ。でもその前に、もう一曲行くわよ!」
 水嶋琴美は、誰よりも楽しそうに歌を歌う。
 彼女は明日を、勇気と優しさを持って受け入れていた。それはその強い自信がなせるわざだろうか。彼女の胸奥の鼓動は、次へ向かって軽やかに駆けるように高鳴っていた。