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<東京怪談ノベル(シングル)>


『narcissus』

 水嶋琴美にも心底憂鬱な時がある。オフィスの机に始末書を置き、それと睨み合いを続けている今が、まさにそうだった。彼女はまだ手を付けていない紙面を見ては嘆息して、天井だか壁だかを睨み付けるというのをもうずっと繰り返していた。ストライプが入ったブラックタイトスカートスーツとすらりとした黒ストッキング姿は、知的でシャープなシルエットなのだが、腕組みをしながらわざとらしく眉間に皺を寄せ口をとがらせている今の琴美の顔つきは、それとは違いコミカルで愛嬌がある。
 近くを行き来する人々は遠目から微笑ましく見ているだけで、何も言わなかった。話し掛ければ渡りに船とばかりに会話を長引かせ、仕事をほっぽらかすのが目に見えているからだ。皆、後で課長の小言の巻き添えを食うのはごめんだった。こと任務遂行に関しては戦闘だけでなく指揮にすらその類い希な才気を披露する琴美であったが、こうした地味なデスクワークに関してはご覧の有様である。切羽詰まりさえすれば華麗に仕上げてしまう事も含めて、周囲の面々にとっては聡明な彼女のこうした光景はいつも不思議だった。
「水嶋さん、課長がお呼びです」
 内線が鳴り、この一報を受けるや否や、彼女は机に両手を叩き付け勢いよく立ち上がった。そして憎らしげに目の前の紙を握り締めて、周りが唖然とする程ずんずん歩いて部屋を出て行ってしまった。
「以前から話していた新しい素材の戦闘服、一つ試したいものが出来たらしい」
 別部署で種々の確認事項を処理していた課長がそう言うのを聞いて、彼女はぱっと表情を輝かせた。するとその変化を目ざとく認めた彼は、少し呆れた顔をした。
「向こうで一度性能を見たいそうなんだが……それ、終わったんだろうな?」
「課長、こんな済んだ事よりも、新たな事態に対応する術を優先すべきじゃない?」
「言いたい事はそれで終わりか?」
 あっさりとそっぽを向き、次の書類にかかり始めた彼に向かって、琴美は唸った。手の中の始末書を広げ目を落としてみても、当たり前だが、あれから何も書き加えられていない。彼女はがっかりした。その態度と白紙を横目で見やると、課長は悩ましげに頭を掻いた。
「あちらをあまり待たせたくはない。明日中には仕上げてくれよ」
「課長! 愛してる!」
 その言葉を言い終わるか終わらないかの内に、琴美はもう部屋からいなくなっていた。残された彼は、机の上のくしゃくしゃの紙を見つめた後、眼鏡を外し目をマッサージしていたが、やがて諦めたように、再び自分の前に積まれた仕事に取りかかった。
 ビルは商社という表向きの姿通り特別な設備などなく、セキュリティも簡素なものだ。地下にある駐車場も静かな空洞がただ広がるだけで、誰もいない。ただ一つ、琴美が自分の車に乗り込みドアを閉めた音が、長く彷徨っていた。
 キーを回し、特注の車両が心地よいエンジン音を鳴らすのを聞いて、彼女は一息ついた。カーナビゲーションを操作して音楽を再生すると、いきなり大音量でフォークギターが激しくかき鳴らされる。牧歌的な楽器達がスピード感溢れる旋律を紡ぐ、最近気に入っているバンドだった。そうして彼女は満足そうにギアを入れ、アクセルを踏み、赤いスポーツカーがテールランプで帯を引きながら颯爽と走り去っていった。

「早かったわね」
「こんにちは。期待していますわ」
 バイパスを使い郊外の研究施設へ到着した後、琴美はすぐにその分室の一つへ赴いた。それを出迎えたのは、ぽってりとした唇に煙草をくわえた、薄化粧の女だった。寝不足らしく気怠そうな顔をして、白衣をラフに羽織り、長い髪を飾り気のないバレッタでまとめている。ポケットから取り出した携帯灰皿に吸っていた細長い煙草を収めると、彼女はその三白眼でじろりと琴美を見やった。
「やれる事はやったつもりだけど、こんなデザインを維持したまま機能的に仕上げる、なんて事がどれだけ大変か、多少は理解ってものが欲しいわね」
 まとめられた服を受け取った琴美は、早くもそれらを撫でたり伸ばしたり叩いたりしながら、手触りや伸縮性等を確かめていて、まるで聞いていない様子である。夢中になって衣服をいじり回しているその様が、子供のままごとのようにも映った。色気のある妙齢の女がそれ程までに純粋な興味を外に向けるのは、いかにも幸せそうで、より一層彼女の愛らしさを引き立てるのだった。
 自分の開発したものに対するそんな態度は、くすぐったくもあったが、寝る間も惜しんだ身にとっては嫌味の一つも言ってみたくなるような無邪気さだ。
「誰かさんの強い要望とやらがなければ、もう少しスマートな開発や生産を行えるし、それでコストや手間も大分違ってくるんだけれどね」
「だって、服は重要だもの」
「これだ、まったく……」
 研究員は肩をすくめ、さっさと訓練設備の方へ向かっていった。この施設には巨大なドーム型のスペースがあり、そこで実戦に非常に近い形で訓練を行える。琴美も何度も足を運んだ事があった。彼女の場合はその力を遺憾なく発揮するために特別製のプログラムが組まれ、苛烈な演習が行われるのだ。
 先に全体を見渡せる部屋で待っていると、琴美が指ぬきグローブの感触をチェックしながら入ってきた。黒髪は後ろでまとめられ、上下とも身体にぴったりフィットするインナーとスパッツで、編み上げのロングブーツを履いている。しなやかな筋肉が四肢を引き締め、腹には割れた腹筋が浮かんでいた。しかし一方で、豊満な胸と尻からは見るからに極上の柔らかさが伝わってきて、力強さの中でいやが上にも女らしさが香り立っている。女性である研究員はふと自分の肉体と思い比べてみて、それからひどく後悔をした。
 そんな事にはまるで無頓着な素振りで、琴美はミニのプリーツスカートと、袖を短くした着物を身に付け、帯を鮮やかに結び終えた。姿形は、以前のものと寸分違わない。だが軽く全身を動かしてから、彼女はニッコリ笑った。
「どう?」
「悪くありませんわね」
 戦闘関連にシビアな琴美にとっては、非常な賛辞である。外へ向かう後ろ姿を見送りながら研究員は苦笑し、端末を操作して準備を整えた。後は頭の後ろに手でも組み、楽な姿勢でこの魅力あるパフォーマンスを楽しむだけだ。優れた開発者である彼女もまた、琴美の能力を極めて高く評価し、自分の生み出したもののポテンシャルをどれだけ引き出してくれるか楽しみで仕方なかった。誰彼構わず忌憚ない物言いをする彼女だからこそ、個人の資質に対してはストレートに評価するのだった。

 琴美はその場からほぼ移動せずに、くるっと前宙をした。軽く各部位を揺らし、細い息を吐く。
「始めて」
 小型通信機にそう言って制御室へ準備よしのサインを送ると、すぐに奇妙な凹凸があるだけの白い空間に、夜の市街地の映像が投影された。かすかな駆動音に耳を傾ける。突然何かが弾ける音がして、それを置き去るように琴美は駆けだした。
 あらゆる角度から放たれたゴム弾が側をかすめていく。本人はもちろん避けているのだろうが、端から見るとただ思い切り突っ走っているように感じる程、彼女は目標に向かって一直線に加速していった。みるみるスピードを上げるその挙動を、研究員の前にある計器類が刻々と記録していく。
 人型のダミー目標を一体蹴り飛ばし、琴美は方向を変えて壁を蹴り跳躍した。そして建造物が映し出されたブロックの上に回転しながら降り立った時、射撃音が変わる。跳んだすぐ後で甲高い音が響いた。紛れもない実弾である。
 空中での移動が多くなるこの場所では、発射位置の特定及び、弾丸の軌跡の読み取りを瞬時に行い、移動に緻密な工夫を施さなければあっという間に蜂の巣だ。もちろんこんな無茶苦茶な訓練を普通の人間が行えば即死である。しかし琴美は軽快に、宙を踏むように飛んでいた。時たま手元で火花が散る。クナイを持ち、避けきれない分を弾いているらしい。
 目標に一太刀浴びせ、彼女は再度下へ降りた。銃声が消え、今度は視界が炎に包まれる。実際に噴射された火が囲む中を、キューブを組み合わせたような人間大の機械が幾台も動き回っている。それには無数の刃物が仕込まれていた。電子眼が彼女を探知すると、車輪が強く回転して一斉に迫ってきた。
 既に上も炎で塞がれている。高低を使わずに切り抜けなければならない。人間では到底不可能な多方面からの斬撃、それが複数、リーチも様々に襲いかかる。陣形が容赦なく組まれており、抜け道はない。琴美は細かくステップを踏み、身体を反らせ、間接を折り、筋力で支え、起き上がり、間隙を縫った。数瞬耐え、更なる隙を嗅ぎ付ける度に反撃を返す。クナイの投擲やピボットブロー、ダッキングアッパー、攻撃と防御の流れに一切の停滞は許されない。
 三台を沈めた、その時だった。聞こえるはずのない銃声が響いた。
 制御室にいた女研究員は、さっと自分の血の気が引くのが分かった。時間が遠大に引き延ばされ、記憶が回転していく。このプロセスでの銃撃は設定した覚えがない。今琴美が受けている太刀筋、そこに意図的に残された逃げ場所はごくごく僅かである。彼女は避けきれずに、死んでしまう……。
 切っ先に向かい、琴美が一歩踏み込んだ。目の前に迫る横薙ぎをブーツで蹴り上げ、更に前へと行く。軌道を変えられた長ドスが右から振り下ろされた肉厚の刀に当たり、それが彼女の頭髪を数本切り取って、耳が痛くなるような金属音を立てた。

「気に入りましたわ。軽さや頑丈さも確かに増しているようで」
 部屋に入ると、琴美は髪を解き頭を振った。
「それにしても、随分意地悪なプログラムを組みますのね。こういうものには性格が出ますわよ」
「……この施設内のデータに外部からアクセスする事は出来ないわ」
 研究員は、画面を注視して動かない。
「……あなた以外に触った人は?」
「あんたの訓練は全て私が扱ってる……」
 しばしの沈黙の後、二人はまっさらな状態に戻ったドームに目を向けた。そこは無機質で、じっと押し黙っている。ただ茫漠とした白だけが広がっていた。