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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


- Home Sweet Home -

 この時期の廃教会内部は、陽射しがない分外よりも空気が凍てついている気がする。
「…………」
 その予感を確かめるよう、彼はゆっくりと息を吐いた。白く上ったそれに今日も寒いと当然のことを確認し、枕元に放っておいた携帯電話を手繰り寄せると現在時刻を確かめる。
「……んっ」
 支度と言っても着替え程度だが、その時間を引いても起きるにはまだ少しばかり早い。というのも、今日は恋人とデートの予定があった。待ち合わせの時刻は午後一時。
 けれど昼も近いせいか、すっかり覚醒した意識を再び眠りへ落とすのももったいなく思え、彼はそのまま身体を起こす。少しばかり寝癖のついた髪を掻き上げると、躊躇うことなくベッドを降りた。
 身支度を済ませ予定よりも大分早く外へ出れば、嘘のように暖かく天気も良い。冬晴れの空を仰ぎ、雲ひとつない空に満足げに目を細めると、真っ直ぐ待ち合わせ場所へと向かった。
 せっかくだから相手より早く到着して驚かせてみたい、という考えが多少あったのかもしれない。
 駅前広場が近くなると煙草を取り出し、まずは近くの喫煙所で数分時間を潰そうかと考えていた。
「おや、随分早い到着ですね、キャロル?」
 しかし、突然呼ばれた名に思わず彼――アドニス・キャロルは、手に持った煙草の箱を落としかける。
「――どうして、もう…来ている?」
 アドニスが振り返れば、そこには声の主であるモーリス・ラジアルの姿があった。モーリスは読書にいそしんでいたのか、手に持つ本を静かに閉じるとベンチから立ち上がり笑う。
「それはこちらの台詞ですよ?」
 首を傾げ言われた言葉に、驚き戸惑うアドニスには返す台詞がない。すると返答がないのをいいことに、モーリスは思い当たったことを一つ。
「今日が楽しみで早く目覚めてしまい、一刻も早く私に会いたくて早々に来た――だと嬉しいのですが」
「……あの、な…」
 声色と表情からして、からかわれているのか本気なのか分からない台詞。けれどその仮説は当たらずしも遠からずと言ったもので。
 アドニスは煙草の箱を上着のポケットに捻じ込むと、わざとすぎたかもしれない呆れ顔を思わず伏せた。
 さり気なく時計へ目を向ければ、約束の時間まで三十分以上。まさか彼が先に着いている時は、こんな早い時間から待っているのかとアドニスに焦りが過ぎった。
 一方、もう少し遅れてくるべきだったか、と言う妙な後悔。けれど彼の戸惑う表情を見れたのは収穫だった――そんな感情と台詞を呑み込んでいたモーリスは、ゆっくり頭を振り「まぁ、いいです」とアドニスの問いに答えを出す。
「午前の予定が思ったより早く終わってしまい、今日はたまたま到着が早くなっただけです。気にしないでくださいね」
 最後に軽く念を押されてしまい、完全に考えを見透かされた気がしたアドニスは再び押し黙る。その反応に、モーリスはさり気なく手で隠した口元に笑みを浮かべた。先程の笑みとは違い、少し意地の悪い笑み。当然目の前でぐるぐると考えを巡らせているアドニスがその仕草に気付くわけもないのだが。
 「さて」と呟きながらモーリスも時間を確認した。それにしても早い。自分こそ行動を見られていたのでは? と頭に過ぎるほどアドニスの到着は早く、尚且つ紙一重のものだった。モーリスは開いた本のページを捲る暇もなかったのだから。
 時間にすれば短かったはずだが、一言発し時計に目を落としたきり微動だにしないモーリスに、アドニスは「どうかしたか?」と不安げにその顔を覗き込んだ。
「いえ、少し早いですが、ここで時間を潰す理由もないでしょうし、大丈夫ならば行きましょうか?」
 顔を上げそう聞いたのは、アドニスが一服していくのなら待つ――という確認のつもりだった。けれど、そんな必要は煙草の箱がしまわれた時から必要なかったのかもしれない。
「あぁ、行こう」
 不安げな表情を消し、眠たげに見える目を更に細めて見せたアドニスに、モーリスは思わず一つ言葉を呑み込んだ。
 彼をまた黙らせてしまってもつまらないし、そろそろ機嫌を損ねるかもしれない。宥める方法など今でも後でも思いつくものの、折角余分に出来た時間をそんなことに費やすのももったいないと。隣に大人しく立つアドニスを見て、モーリスは目的地へと足を向けた。


 事前に今日は買い物が目的だと聞かされてはいたものの、どこで何を買うのかまでは聞かされていなかったし、アドニス自身それを問うことはなかった。それはそれで一つの楽しみ方になる。見知った街でも、どこへ向かっているのかと考えながらモーリスの隣を歩くのは、少しばかり不思議な感覚だった。
 街は平日のおかげか人通りが少なく、誰に邪魔されることもないモーリスの足取りは駅から五分ほどの場所で止められる。一歩遅れアドニスも足を止めた。見上げた先にはタワービルが建ち、その中にある店舗が目的のようだ。
 エントランスホールにある噴水を横目に、乗り込んだガラス張りのエレベーターには二人きり。晴れて遠くまで一望出来る場所を独占しながら昇っていく。
 結局目的の階まで一度も止まることはなく、最後は身体に不快感を与えることもなく停止しドアを開けたエレベーター。そこから降りると、アドニスは入り口の看板を見るより先に言葉に出していた。
「インテリアショップ、か」
 少し先には、淡い灯りに照らされたショールームの姿が見える。
 フロアマップを見る限りどうやらここは店の中では最上階。ごく限られたカテゴリを揃えたフロアであり、下の階に別部類の家具や食器・生活雑貨などが更に細分化されているらしい。挙句ワンフロアの面積は広い。
「まずは、この階から。ここが終わったら降りていきます」
 足取りを見る限り馴染みの店で、買う物も既に決まっているのかもしれない。モーリスは迷いなく店の奥へと進んでいく。そしてやはり一歩遅れながらも、アドニスはその隣を歩いた。
 買い物は予想以上に大きい。種類はもちろんのこと、金額もだ。
「随分一気に買うんだな」
 なんともなしに言葉にすれば、モーリスは珍しく笑うだけで言葉を返してこなかった。
 新調と言うには隅から隅まで徹底的で、新たな別荘のために揃えるものだろうかとアドニスは想像する。
 最初こそ多少驚きはしたものの、クローゼットにブックシェルフ、チェストにテーブル・チェアと買う頃には、すっかり肩から力は抜けていた。こうなることは安易に想像できるような、ゴージャスな振る舞いをするような人なのだから。
「次は何を選ぶんだ?」
 やがて余裕の表情で問うアドニスに、モーリスは含み笑いを浮かべる。一体何を笑われたのか分からず首を傾げれば、彼はそのままエスカレーターを降りていった。
 大方の買い物はモーリスが選びスムーズに進んでいたものの、アドニスは何度か不意に選択を迫られる。それはデザイン違いや色違い、あるいは機能性の問題で、アドニスは決めかねているらしいモーリスの手助けをした。
 いずれこれらの家具はどこかで見ることになるのだろうし、多分使うこともある。だから、多少自分好みを入れてしまっても良いという考えが過ぎりもした。モーリスもそれを望んでいたのだろう。アドニスの選択に「やはりキャロルはこちらですよね」と嬉しそうに反応を返してきた。
 人の買い物に付き合い、その選択の一端を担うのは素直に嬉しく、楽しいものだとアドニスは思う。何より、目の前で楽しそうに買い物をするモーリスの姿を見れば尚のことだ。喜びは共有でき、分けあえる。
 しかしそんな楽しそうな顔のまま、モーリスはアドニスを振り返り問う――というより、それは少し前の問いに答えた上での問い。
「さて、キャロルはどれがいいですか?」
 エスカレーターを降りた階で待ち受けていたのは、ずらりと並んだベッドだった。
 目が合うと一瞬黙った後、アドニスは眉を顰める。
「……それを、俺に聞くのか」
 今回はモーリスの選択があった上でアドニスに意見を聞くではない、完全な丸投げだ。もしかしたら彼の中では既に答えがあるかもしれないものの、「次は何を選ぶのかと、嬉々として聞いてきたじゃないですか」と追い討ちを掛けられた。確かに捉えようによっては自分が選ぶようにも聞こえるし、これ以上反論しようが上手くはぐらかされるだろう。
 おとなしくサイズ別に並べられたベッドの脇を練り歩き始めれば、モーリスもゆっくり後を追う。ただし彼は明らかにベッドを見るアドニスを見つめていた。
「そうだな…この辺り、じゃないか?」
 視線は気にせず少しして、アドニスは気になったベッドの横に立つ。見るといってもブランドは統一されているため、サイズが決まれば必然として見る範囲は狭い。
「――――そう、ですね」
 何か問題でもあるのか、ベッドを見たモーリスは少し考える素振りを見せたかと思うとそこに座る。かすかに響くスプリングの軋む音。そしてしばし感触を確かめた後、彼は躊躇いなく横になった。
「っ……」
「何を驚いているのです? やはりベッドは実際確かめなければ」
 確かにこのような光景はよく見るものだし、実際の感触や大きさを確かめるために展示されているのだろう。言われてみれば、すっかり見た目と説明文だけで判断してしまっていたことにも気づかされた。
「キャロルも感触は確かめておいたほうがいいと思いますよ」
 当然二人のものだと分かっているから選んだものだったけれど、改めて言葉に出されるとなんとも言えない気恥ずかしさもある。
「何か、考えているのですか?」
 スーツ姿のまま上半身だけ寝そべり、どこか挑発的に見上げてくる恋人。それをすぐ目の前で見下ろすというのは、精神衛生上あまり良くはない。
「いや、なんでも。それじゃあ、俺も――」
 いっそのこと隣に並んでしまおうと、渋々横になろうとしたところアドニスは唐突にバランスを崩してしまった。モーリスに手首を掴まれたせいだと頭が理解したのは、身体がベッドに落ちてからのこと。
 一体どういうつもりかと思う反面、ベッドの心地良い反発に思わず掴まれた手のことも忘れ自画自賛しそうになった。予想どおり、これは良いベッドに違いない。
 心地よさから引き戻されたのは、不覚にも隣で寝そべるモーリスの言葉のおかげだった。
「寝心地も良さそうだし、大きさも充分。でも、もう幾つか試した方がいいかもしれませんね?」
 マットレスとスプリングの具合でも寝心地は大きく変わりそうだと、天井を仰ぎながら言うモーリスの横顔を思わず無言のままジッと見つめてしまう。一体何を考えているのか、何も考えていないのか。
「随分言葉が少ないようですがどうしました、キャロル。いい雰囲気にでも酔いましたか? 辺りに人が居ないとはいえ、ねぇ」
 そう言われてみれば、この階には不自然といえるほど客の姿はもちろん店員の姿も見当たらない。事前に人払いでもしたのではないかという考えが浮かぶが、いくらなんでもそれはないだろう……と、思いたい。
「まぁ、監視カメラはあるでしょうけれど所詮防犯上のもの。誰も見てやいませんよ」
「――――あの、なぁ…」
 目が合うと掴まれたままだった手首が引かれ、そこへ一瞬だが確かにモーリスの唇が触れる。
「お、い…?」
 こんな場所で自制心でも試されているのだろうかと、アドニスは内心悪態を吐いた。そんな聞こえるわけもない悪態に、モーリスは笑みを浮かべ手をほどく。
「それにしてもキングベッドとは」
 呟きながら身体を翻すと、モーリスは頬杖を突きアドニスを見る。
「部屋に入らないか?」
 そんなことはないのだろうが、意味が理解できず聞き返す。
「いえ、入りますよ」
「なら一体何なんだ」
 アドニスは二人で使うベッドだから、という基準でこのサイズを選んだものの、モーリスにしてみればベッドなど大きくても小さくても良いものだった。小さければその分相手と常に身を寄せ合って眠ることができるし、大きければその分寛げる。
 ただ、アドニスが明らかに二人のものだという認識を前提に選んでくれたのが嬉しかったのかもしれない。
「……(まぁ、大きくても身を寄せ合うのは容易いものですしね)」
 大は小を兼ねるともいう。
 突然浮かべられた含み笑いに、今この場ではあまり掘り下げてはいけない空気を感じアドニスは急ぎ起き上がった。
「どうかしました?」
「…キングサイズを、端から全部試してくる。独りで、行ってくる」
 そう言って、アドニスは足早に一番奥のベッドの方へと向かう。
 ベッドの上で笑っていたモーリスのことは、決して振り返らないことにした。


 その場を切り抜けるための言動だったものの、その後アドニスは律儀にもキングベッドを全て試し、それをモーリスも確認すると結局最初のベッドに決められた。
 一通りの家具を揃えると今度は小さな買い物が続く。照明にカーテン、クロックに小型の空気清浄機など。最後に二人の意見で揃いのグラスや食器をいくつか買い終えると店を出た。
 先客の居たエレベーターに乗り込めば、随分長い時間買い物をしていたようで。外の景色はすっかり夕焼け色に染まっている。
「今日は長い時間付き合わせてしまいましたね。疲れましたか?」
 モーリスの問いに、アドニスは思わず小さく吹き出した。おかしなことは言ってないと、それは互いに分かっている。
「いや、違うんだ。キミこそ元気だなと」
 返した言葉は答えでもなければ、笑ったことに対する言い訳にもならなかったけれど、一度出してしまった笑いをなかなか引っ込めることはできず、後に言葉は続かない。
 大分引っ張りまわされはしたものの、新しい家具や食器は見ていて楽しかったし、共に選んで買うなんて。これはまるで、これから新居を構える新婚気分なのでは、とアドニスは思っていた。
 今は気分だけとはいえ、近い内今日購入した様々なものに再び出会え、モーリスと共に楽しめる時間も過ごせると思えば喜びは尚のもの。
 そんな満足げなアドニスの表情を読み取ったモーリスは、脈絡もなく切り出した。
「それは良かった。軽くお茶でもしていきたいところですが、今日はこの辺にしておきましょう」
「ん、このまま家までの荷物運びは手伝うが?」
 言いながらアドニスが両手に持った荷物を掲げてみせれば。
「いえ、これは私一人で持ち帰りますよ」
 と、言われて軽く奪われてしまった。これで今、モーリスの手の中には買い物袋が三つある。
「どうしてそうなる」
「ここまで付き合ってくれたので十分ですよ」
「じゃあ、せめて後日家具の移動だとか」
「それも配送業者がある程度やってくれますから大丈夫です」
 エレベーターが停止し人が降り、二人きりになった途端アドニスは不機嫌を露にした。モーリスにはそれが空気はもちろん、隣を見なくともガラス越しによく見えている。
 それが分かっていながら、モーリスはあえてアドニスの顔は見ないまま。
「気にしないでくださいね」
 と一言だけ言った。
 モーリスにとっては今放っておく分後で甘やかすという心理があるものの、当然それが伝わるわけもなく、言葉で伝えるつもりもない。
 出会い頭に聞いたのと同じ言葉は、今のアドニスにとっては少し突き放されたように聞こえたかもしれない。
 ただ彼はそれで怒るでもなく、少し哀しそうな眼でモーリスを見たかと思うと、何か言いたそうで言えなくて。無言のまま目の前のガラス壁にコツンと額を付ける。その小さな音は、結局地上階に着くまで不規則に続いていた。
 駅までは共に戻ると、確認するかのようおずおずとアドニスは口にする。
「……じゃあ、また」
「ええ、また。気をつけて帰ってくださいね。額も、少し赤くなってますから早い内に冷やしてください」
 独りでいじけておいてなんだが、誰のせいだと恨めしげに思いながらアドニスはモーリスを見る。
「モーリスこそ、そんな大荷物で……独りで転ぶなよ」
 あえて独りの部分を強調して言えば。
「誰にものを言っているんですか」
 モーリスは笑いながら軽やかに背を向けた。それは両手に持った荷物の重さなど感じさせぬほど、やわらかな動き。その姿が見えなくなるまで見送ると、アドニスはゆっくり踵を返す。
 慌しい一日だった。主には行動面でなく、感情面だったかもしれない。今になってドッと押し寄せた疲れがそれを教えていた。楽しい時間ほど疲れを感じさせないというのは本当だ。
 すっかり夕陽は沈んでしまったものの、まだ薄明の残る空を仰ぎ息を吐く。吐いた息はまだ目には見えず、今夜はそれほど冷え込まないのだろうかとぼんやり考えながらアドニスは岐路に着いた。


    □□□


 買い物から数日、モーリスから電話の一本もない日が続いた。そろそろ自分から掛けてみるべきかとアドニスが悩み始めた頃、携帯電話が着信音を奏でる。当然モーリスからのものだ。
 計られたかのようなタイミングに苦笑いを浮かべるが、それを悟られぬよう電話に出る。用件はいつもどおりデートの呼び出しだった。
 モーリス低を訪れるなり、アドニスはなんとなく急かされながら家の中へと入れられる。そして無言のモーリスに彼の部屋まで連れてこられた時、思わず目を見開いた。
 扉を開けた先、見慣れたはずの部屋がいつの間にか大きく改装されている。
「これは……どうしたんだ? 随分と思い切ったような」
 それに、リフォームというには何かが明らかにおかしい。
 モーリスの生活スペースは確かに存在しているのだが、寝室へ抜けるドア――そうと分かったのはドアが完全に開放されていたおかげだ――その向こうに更にドアがあり、もう一部屋新たな空間が出来上がっていた。
「なぁ、モーリス?」
 彼はまだ口を聞こうとしない。ただ、足は確実に寝室へと向かされた。
 あのキングベッドが置かれ、まるでホテルのようにセッティングされた空間。しかしそこには目もくれぬよう通り抜けると、モーリスはアドニスの背を軽く押す。
「おかえりなさい。」
 それが今日この家を訪れたアドニスに、モーリスが初めて口にした言葉。そして、アドニスがその部屋に踏み込んだ瞬間。
「……おかえり、なさいって」
 戸惑いながら振り返ると、モーリスはわざとらしく肩をすくめて見せた。
「おや、もう忘れてしまったのですか?」
「――……ぁ、あ…、いや」
 肯定ではなく、上手く言葉に出来ない結果おかしな声が出てしまう。
 けれど、今の言葉でようやく全てが一致した。自分で振っておいて忘れるわけがない。ただ、モーリスの言葉は明確だったのにどこか曖昧な態度で、結局は流れるような話だと思っていた。
「同居、できるんだな」
 疑問ではなく、確信はしているが本人を前に確かめるように言う。
「そう言ったじゃないですか」
 目の前には先日購入した家具などが、全て綺麗に揃えられ設置されている。
「このための買い物だったのか。だから荷物持ちや家具運びも……」
 モーリスは隠していたわけでもないだろう。今日まで気づかなかったのが悪いのだ。
「さて、生活を共にするといってもメリハリは大事ですから。一応、生活空間は分けました」
 言いながらモーリスの手がアドニスの両肩に置かれ、身体が今来た方に向けられる。
 一見モーリスの部屋、寝室、アドニスの部屋と区切られ並んではいるものの、壁にぴたりと付くまで開放されている大きなドアにより、この三部屋は見ようによっては一つの部屋にも見えた。
「一応、なんだな」
「ええ、一応。ドアは開けっ放しでも構いませんよ」
 改めて室内を見渡すと、モーリスの部屋と同じくもう一つドアがある。位置的に廊下へ出るドアだろう。
 設置された家具には見慣れないものも多くあった。その一つ、壁際に置かれた小さなワインセラーには、ワインが六本入っている。
 アドニス部屋専用の物で、独りで飲みたいときはこの部屋で、共に飲みたくなったらいつでもベッドルームなりモーリスの部屋に持ち込み飲む趣向のものらしい。アドニスにはそれが悪魔の箱に思えた。下手をすると、この空間から出ずにしばらく生活が送れてしまう。
 クローゼットを開ければ、真新しいネクタイが数本掛かっていて思わず絶句した。
「何か、言うことはありませんか?」
 さすがにこんな数のネクタイは要らない――はともかく、まったくいつの間にだとか、改装してまでありがとうやら。そんな台詞がいくつも過ぎりはするが、今求められている言葉はきっと違うと理解はしている。
 一度室内から目を離し、まっすぐモーリスと向き合ったアドニスは少し照れくさそうに目を伏せ言った。
「ただいま、モーリス」
 待ち望んだ言葉を受けたモーリスは、二度目になってしまう台詞の代わり、軽くアドニスの唇に口付ける。
「――ところで…まだ昼、なんだが?」
 一度離れはしたものの、二人はまだ唇同士が触れ合うか否かギリギリの距離を保っていた。腰に手を回してくるモーリスに、アドニスはこそばゆさを堪えながら恐る恐る問う。
「帰り際、随分不機嫌そうでしたからね」
 隠されない悪い笑み。
「やっぱりわざとか」
「そのお詫びといっては聞こえが悪いですが、嫌ならこのまま自室で寛いでいてください。私もおとなしく部屋に戻ります」
 何がお詫びで誰が嫌だと、一体どの口がどう言うのか。互いにこのまま引き下がれるわけも、つもりもないのだが、アドニスはまた一方的に不利な選択肢を突きつけられた気がし、どうにも腑に落ちなかった。
「…………」
 この状況をどうすべきか考え、目は合わせたまましばし沈黙を守った後。
「…俺は間を、取るよ」
 言うなりアドニスはモーリスから素早く離れ、彼の手を引くと隣の部屋へ移動した。
「えっ? あ…ぁ、私とキャロルの部屋の間ということですか? これはこれは」
 モーリスの虚を突くことはできたものの、彼はすぐさま理解すると同時余裕気に微笑を浮かべている。
 そして、言葉はどうあれ素直なのは良いことだと言うモーリスにアドニスは追撃を掛けた。
「おかえり、モーリス」
 この場で耳にするわけもない言葉に、モーリスは意表を突かれ「……は、い?」と余裕なく聞き返してしまった。
「おかえり」
 お返しのように同じ言葉を、けれど少し声色を変え繰り返す。
 近い内にきちんと帰宅したモーリスを出迎えたいものの、アドニスにとってこの瞬間彼が帰ってきたといっても間違いではない。アドニスは寝室でモーリスが来るのを一瞬だが待ち迎えてもいた。いらっしゃいというべきだったのかは、悩むところではあるけれど。
「おかえり…って」
 返答を返してくれないモーリスに、アドニスは再三繰り返す。
 同居という意味では、確かにここがアドニスの帰る家になったけれど、それは単に場所の話に過ぎない。本当に帰るべきところは、いつだって互いのもとだと思うからこその言葉と流れだった。
「ええ、ただいま戻りましたよ、キャロル」

 二人で選んだベッドにゆっくりと堕ちていく。
 アドニスは最後、寝室のテーブルに先日購入したグラスとワインクーラーに入ったワインを見たけれどそれは一瞬のこと。すぐさまその視線は目の前のモーリスへと戻される。
 きちんとした同居祝いをするというのなら、それはもう少し先の話になりそうだった。