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<東京怪談ノベル(シングル)>


チョコレート・サインボード

「ええっ、魔法菓子ですかあー!?」
 アンティークショップに大きな、それでいて明るい声が響く。声の主ファルス・ティレイラは大きな瞳を輝かせ、アンティークの透かし彫りテーブルに大きく身を乗り出した。
「あ、ああ……、そうだ」
 店のオーナー碧摩・蓮が、その勢いに思わずのけぞる。
「大型菓子店から依頼があってな。なんでも、魔力を含んだチョコやらクッキーやらの新商品を大々的に発表するらしい。そういう商品の宣伝なら、ウチがうってつけだと睨んだんだろ。実際、似たような商品も扱ってるしな」
 ちょいちょいと指をさす先には酒瓶。外見こそウィスキーに似ているものの、そこには媚薬によく似た魅了の魔法が掛かっている。だからこの店の菓子には手を出すんじゃないよと、一応ティレイラに釘をさす。ティレイラが大の菓子好きと知っての忠告だ。
「本来ならあたしが向かわなきゃいけないところなんだけどね……。そこまでの余裕はないんだ。よくて、展示場に顔を出す程度だろう。だから、細かい作業はあんたに頼もうと思ってね」
「そんな大仕事を私がお手伝いしてもいいんですか? しかもお礼まで弾むって」
 謙遜した様子を見せるも、興味は隠し切れていない。テーブルに置かれた大型店のチラシを視界の端で覗き見ながら、蓮の顔色を伺う。
「ああ、もちろんそのつもりだ。あっちだって、菓子への情熱がある奴に手伝ってもらえる方が、やる気のない奴を雇うよりマシだろう」
 ただし、つまみ食いはするなよ。何度目になるかわからない警告に、
「大丈夫ですよっ。お手伝いを始める前に、お菓子でおなか一杯にしていきますから!」
 と胸を張る。
 たしかにそれはいい作戦かも知れない。別腹を何度も繰り返すようならわからないが、それでもお礼は欲しいだろうから、ある程度は我慢してくれるはずだ。
 蓮は何度か頷き、ティレイラに姿勢を正すようやんわりと注意を促す。自身も椅子にきちっと座りなおし、真剣に――ただし、いつものように妖艶な笑みを浮かべて――、ティレイラを見つめ返した。
「よし。それじゃあ正式に、あんたを助手として迎え入れようじゃないか」
 嬉しさを隠しきれないティレイラが、はいっと首を大きく縦に振った。


 さて、ティレイラの仕事の内容だが。
 配置やら飾り付けやらで最も忙しくなる時期までに、機材やお菓子を現場へ配達することだ。女性ということもあり重い荷物を背負わされることはなかったが、それでも荷物を持っての往復は身に応える。
 しかしそんなときも、ティレイラが顔をあげれば、この大仕事を依頼した張本人――オーナーの女性と目が合う。
 彼女からもらったお菓子を一口食べて、ティレイラはすっかりその味の虜になってしまった。いかにも「おいしい!」という顔でお菓子を食べていくティレイラを見て、オーナーも心を許してくれた。
 そんな彼女が、あたたかいまなざしで見守ってくれている。
 よし、もう一踏ん張り。
 胸の前で小さくガッツポーズを決めた少女は、再び仕事場へと駆けもどっていく。その様子を見守るオーナーも、お菓子に一切手を出さずに(ただしにおいを嗅いでよだれを垂らしかけたことはあるが)作業に励む彼女をやさしいまなざしで見送っていた。

 そうこうしている間に運ぶ荷物も小さく軽くなっていき、往復の頻度も下がってきた。休憩時間が長くなり、休息日ももらえるようになった。
「もう少しで準備が整いますね」
 額の汗をぬぐい、オーナーを見上げるティレイラ。彼女は満足げに展示室を見回し、そこに置いてあるディスプレイの菓子やケースの輝きに目を細めた。
「そうね。いい働きを見せてもらったわ、ティレイラ」
 これは思ったよりたくさんのお礼が必要になるわね。くすくすと笑えば、少女の表情がどんどん明るくなる。
「まだお仕事残ってませんかー?」
 軽く伸びをした後、仕事場へ駆けていく。
 やれやれと眉間に指を当て溜息をつきながらも、彼女を見守るその目は温かい。そろそろ本格的に、お礼の内容を考えなくてはならない。


 さあ、展示室も完成に近付いてきた。
 最後の最後というところで、入口付近にいたティレイラを、作業員たちが突く。どうやら部屋の中へ戻ってほしいらしい。
 軽く頭を下げながら部屋に戻り、ディスプレイの魅せ方について細かい指示を出していたオーナーのもとに駆け寄る。
「ああ、ティレイラちゃん」
 指揮する手を止め、振り返る。
「ちょっと向こうを見ててごらんなさい。そう、入口の正面。すごいものを用意したのよ」
 すごいもの? そう聞き返そうとした直後。
 その“すごいもの”が、ティレイラの視界に飛び込んできた。

“壁”と呼んでも差し支えないであろう、巨大なチョコレートの看板。
 ところどころに金箔が張り巡らされ、彫刻めいた装飾は桃源郷を現しているのだろうか、桃やブドウの木々、それを見上げる鹿と仔馬の姿、彼らを映し出す泉はホワイトチョコレートで描かれている。
 その小さなユートピア(とはいえ高い天井のすぐ下にまで届くほどに聳え立っているのだが)の上部、林の上に、菓子店の名前が悠々とした筆跡で綴られていた。空に浮かぶ金色に輝く異国語。
 わあ、と、感嘆の声を上げる他ない。
 そして、お約束の一言。
「これ、食べれるんですかっ?!」
「とりあえず今はやめておいてね」
 わかってますよう、とでも言いたいのか、むすっと唇を突き出してオーナーを見上げる。
「あと一つ、気になってるんですけど」
 その表情もすぐに和らぎ、視線はチョコレートの絵画に移る。
「あんなに立派なチョコレートを置きっぱなしにして……溶けちゃったりしないんですか?」
「それについては心配ないわ。裏からドライアイスをあててるし、ほら、展示場は他より寒いでしょう? あのチョコレートのあたりは特に、冷房でキチンと冷やしてるの。換気や除湿も十分行っているし」
 だから溶けることはないでしょうね、人が触ったりしなければ。そう言ってティレイラを見つめ返せば――。
 思わずぎょっとなる。さすがのオーナーも。
 ティレイラはすでにチョコの壁をじいっと見つめ、涎を垂らしかけ、今にも飛びかからんとしている……気配を見せていた。らんらんと輝く瞳はまるで飢えた狼そのもの。
 もちろんチョコレートは猛獣に狙われる草食動物ではないし(それらの意匠が施されてはいるが)、ティレイラはここまで来て最も危険な行為に及ぶほどの命知らずではない。

「……あなたねぇ」
「えっ!? いっ、いえ、食べませんよう!」
「何も言ってないわよ」
 とはいえ仕事が一段落して疲れているのは明白だ。こんな餌を目の前にして飛びかからない獣はいるまい。ティレイラはその本能を理性で抑えてはいるが、それでも空腹と目の前のご馳走を一口でいいから食べてみたい! という欲望は隠しきれるはずない。食欲と野望が、なんとも言い難い強力なオーラとなって彼女を取り巻いていた。
 その様子に内心冷汗をかきつつ、オーナーは近くの菓子を探った。やがて高級チョコの訳あり品が詰まった袋を見つけると、ティレイラに差し出した。
「ひとまずはこれで我慢してちょうだいね。あのチョコも、展示が終わったら一口くらい食べていいから。はじっこのほうをちょっとだけ、ね」
 とたんに、少女を取り巻くオーラの雰囲気が変わる。
 お姉さま……! 私、感謝の言葉をもってしても、この気持ちをお伝えすることなどできません!
 早速袋からチョコを取り出してぱくんと一口。その間にも、彼女の表情からは感謝の気持ちがビンビン伝わってきた。
 とりあえずは一安心……かしら? 安堵しつつも、これから大量のお菓子が必要になることを考え、あらゆるディスプレイのあらゆる菓子をなんとかして少しずつ集めて回る方法を考え込むオーナーであった。


 そうこうしている内に、魔法菓子店のオープンが近づいてくる。
 展示室の入り口あたりを行ったり来たりしている人影。床を打つ靴の音。
 この店のオーナーは、チョコレートの看板の前で熟考していた。腕組みをしてつま先で床を叩き、少しだけ唸っては目を凝らして。
「何か足りないわ」
 豪華絢爛なチョコレートの看板。しかし、その真ん中……店名の真下、彫りこまれた木々の下、泉の傍ら。鹿と仔馬が頭上を見上げるその間に浮かんだ空白が、彼女から見ると非常にさびしい、埋めるべき余白に見えたのだ。
 とはいえ、チョコレートの看板はすでに出来上がっている。今から新しく何かを描き込むことはもちろん、彫刻も難しいだろう。
 再び、うーん、と唸る。
 仕方ない。これはこれで完成しているのだ。
 はあとため息をついて、照明を落とす。除湿機と冷房の音が、低く鳴り響いていた。


 オープンを間近に控えた、ある日。
 ティレイラは、その日一日の仕事を終えようとしていた。
 背に紫色の竜の翼を生やし、スカートの中から尾を伸ばして、今までと同じように配達を続ける。大きく翼をはためかせて空を進めば、正面から当たる風が、熱くなった体を冷やしてくれる。軽い荷物は壊れ物だからスピードは出せないが、それでも空を飛ぶのは彼女にとって気持ちいいものだった。
 店の入り口にふわりと着地し、そのまま展示室へと入っていく。
「お疲れ様」
 オーナーが振り返る。直後、彼女は目を丸くした。
「ティレイラちゃん、それは?」
 ティレイラが不思議そうにあたりを見回す。
 オーナーの視線の先にあるもの。それは荷物でも壁でもなく、ティレイラの翼と尻尾そのものだった。それに気づいたティレイラが、しまったと口元に手を当てる。
「あの、驚かせてしまってすみません」
 隠しているつもりはなかったんですけれど。後ろ手に荷物を持ち、もじもじと居心地悪そうに視線をさまよわせる。が、当のオーナーは驚いているばかりか、ティレイラばりの好奇心を発揮していた。

「素敵よ、ティレイラちゃん。それ、いいわ!」
「はあ?」
「ちょっとこっちに来てくれない?」
 返事を待つ間もなく、彼女は少女の両手をつかんで引っ張り出した。作業も終わり一人も店員の残っていない部屋、巨大なチョコレートの看板の前にティレイラを連れていく。
「あのう、荷物はどうしましょう」
「そこに置いておいてくれればいいわ」
 今まで見せたことのない表情で息巻くオーナーを目の前にして、ティレイラはどうしたものかと俯いていた。ひとまず荷物を、指さされたパイプ椅子に乗せ、手招きするオーナーの傍に歩み寄る。
「ねえ、ティレイラちゃん。ここに、この看板の中にいるつもりで立ってみて」
「はあ」
「想像してみて。チョコレートの中、泉の冷たい水と林から落ちる木漏れ日、そこで遊ぶ動物たちのこと」
 言われるがままにその光景を頭に浮かばせてみる。
「そうだ。これを食べてみるといいわ。はい、どうぞ」
 オーナーが取り出したのは、小さなチョコレート。においをかぐまでもない、強く甘い香りを放つチョコだった。形はかわいいハート型。ティレイラが飛びつかないはずはない。
「このチョコレートを食べて、チョコの中の景色を思い浮かべて。どんな気持ちになる?」
 そして、どんなポーズを取る?
 オーナーの言葉の真意を図りかねた――なにしろ、大好きなお菓子を食べ、その香りに魅了されている――ティレイラは、目を瞑る。頭の中にあのユートピアを思い描いて。
 オーナーの細くうつくしい指が、ティレイラの頬をなぞる。
「青葉の香り、朝露のにおい。どんな感じかしら?」
「すごく……いいです」
 指は頬から首へ、首から鎖骨へと降りていく。ティレイラは微動だにしなかった。指の感触を心地よく感じているのか、それとも頭の中の桃源郷に入り浸っているのか。
「ほら、仔馬があなたに頬ずりしてる」
 その指を離し、ティレイラの首筋をやさしくなでる。少女の口から、ほうっと熱い溜息が洩れる。今度はそっと頬をなでる。わずかに紅潮した、笑みで緩んだ頬を。
 そして、その手は……そっと、ティレイラを押していく。
 チョコレートに秘められた魔力のせいだろうか、ティレイラの体は床との摩擦を全く無視していた。まるで吸い込まれるように、チョコの看板への距離を縮めていく。
 ティレイラの尾はもはや、力が抜けて床にへたりと落ちていた。翼は半開きになり、先は地面すれすれのところまで下がっていた。右手は胸に添えられ、上体をすこしだけ反らし顔はわずかに上を向き、まるで森にたたずむ妖精のようだった。
 体を押す手の感触は、ティレイラにはあたたかく心地よく、そこから全身の力が溶けて抜けているようだった。体中を微熱が包む。
 オーナーの手が手際よく、肩を、腰を、翼を、足を、魔力を込めて押していく。
 最初にチョコレートの中にずぶりと飲み込まれたのは、翼だった。チョコレートの看板は液体のように彼女の体を受け入れた。
(あ……、なんだか熱い)
 ティレイラが感知できるのは、それくらいだ。あの時食べた香りの強いチョコレートのせいで、頭はぼうっと霞がかかったようで、目を開くことすらままならないくらい力が抜けてしまっていた。
 チョコレートの壁は、彼女の翼を飲み込んでいく。先から真ん中へ、そして付け根へ。ゆっくりと染み込んでいく、溶けたチョコ。
 さて、次の作業。するりとティレイラの体を撫でるオーナーの手。かすかに震えるティレイラの、肩と腰をそっと押した。
 たぷん。チョコレートの壁が波紋を広げる。
 ティレイラの姿かたちが、壁にだんだんと現れてきている。
 泉の傍にたたずむ少女として。

「足はもうちょっと、右足を曲げていた方がいいわね」
 そう言いながら、右のふくらはぎをそっと持ち上げながら押し込む。
「手はこのままでいいから……最後は、尻尾かしら」
 彼女の手が尾を持ち上げ、チョコレートの中に入れようとした瞬間。
 ティレイラが、自分の置かれた状況に、ようやく気付いた。
「あの……私、今、どうなってるんですか?」
 目が開かない。もちろん、二つのチョコに含まれた魔力のせいだ。
「大丈夫よ、とてもきれい。ねえ、そのチョコはどうかしら、おいしいかしら?」
「……はい。お店に置いても、……いいと、思います」
「そう? ありがとう」
 ティレイラのまぶたがようやく、とろんと開かれる。照明の消えた暗い部屋が見えるだけだ。
 このチョコがこのお店に並ぶのかな。
 そう考えている間にも、尻尾はチョコレートの中に押し込められていく。

 最後は、顔。
 もう半分は壁の中に埋まっているその顔、まだこちら側に残っている左頬を、オーナーの指がちょんとつついた。ティレイラの口から熱い吐息がこぼれる。
 魅了の魔法は効き目十分。これはその筋の人たちに売れるわね。
 心の中でほくそ笑んだオーナーは、ティレイラに向かって囁きかけた。
「モニターに付き合ってくれてありがとう。お礼はたんと弾むわ」
 お菓子の山を想像したのだろうか。少女は顔をほころばせた。

 手のひらから指へ、ゆっくりと力を移していく。
 ティレイラの頬が、チョコレートの壁画に完全に吸い込まれた。

「うん、完璧だわ」
 少し遠目から看板を見つめたオーナーが、満足げにうなずいた。
 桃源郷にたたずむ少女は、木漏れ日を受けて微笑む。動物たちは彼女に習うように空を見上げ、泉はそよ風に波紋を作る。伏し目がちなティレイラの、とろけるような甘い表情といったら! この店にぴったりではないか。
「ありがとう、ティレイラちゃん。これで間違いなく、店も繁盛するわ」
 あとで蓮さんにもお礼をしなくちゃね。少女の横顔に微笑みかける。壁面の少女もまた、微笑を返していた。


 さて、この看板だが。
 新しい店舗の看板として、まだまだ飾り付けられている。
 美しい景色と少女の幻想的な風景に惹きつけられ、思わず足を止める客も大勢いた。
「すばらしい作品ですね。これはどなたが制作されたんですか?」
 取材にきた記者に、オーナーが笑顔で応える。
「元を作ったのは、わが店のシェフ。そこに私とある従業員が、新しくデザインを施したんですの。我ながらすばらしい出来栄えだと思います。いかがでしょうか?」
 フラッシュの炊かれる音。
 壁の中の少女は未だ、チョコレートの甘く強い香りに酔いしれている。