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<東京怪談ノベル(シングル)>


『Downstream』

 三月も半ばにさしかかっていたが、朝から雪が降っていた。外の気温は、五度を下回っている。しかし幼い頃から札幌で育ってきた白瀬沙雪にとって、今日はやはり春に違いなかった。それは始まりを予感させる優しげな季節だ。沙雪は今、新千歳空港の国内線ラウンジで座り、窓越しに春の雪を眺めている。
 彼女は先程卒業式を済ませた中学の制服に黒タイツ姿で、紺色のコートと安物の帆布トートバッグを膝上に置いていた。大袈裟な旅行鞄はもう預けてしまっている。黒髪が肩口まで真っ直ぐに伸びて、おでこで綺麗に切り揃えられているのが、長めのスカートと相まって現代においては少々野暮ったい。だがそのシルエットの中で、つぶらな瞳が一際強く印象を放っていた。きらきらといかにも楽しそうで、そこに彼女の表情が凝縮されているように見えた。その奥には瑞々しく愛らしい気持ちがあるのだと、人は皆そう確信するだろう。なるほど、彼女には雪がよく似合う。
 ガラスの向こうに音と色彩はなく、雲が変に明るくてモノクロ映画のようだった。遠くの方で、千歳基地から飛んだF-15J戦闘機が低空を横切り旋回していった。彼女はその鼻先を泳ぐスカイフィッシュという化け物を目で追っている。
 突如として人類の前に現れたその脅威は、空飛ぶ深海魚と称されていた。スカイフィッシュの奇妙な見てくれは、確かに魚を思わせる。ホースのように長細くうねる胴体は、てらてらと赤みを帯びた乳白色で臓物のようにも見え、たまにぼうっと光った。先端には大きく拳骨のように膨らんだ頭が付いていて、広く裂けた口に鋸状の歯が汚く並んでいる。目は皮膚の内側に埋まりきっており、全く無機質な顔つきをしていた。
 あれは怒っているのだろうか、と沙雪は考えていた。その異様な形状は敵意や恐怖を否応なく感じさせるが、実際に彼らが何を思っているのかは誰にも分からない。自分達に向けられた暴力に怒り狂っているのか、盲目の中で恐怖しているのか、それともじゃれついてきているだけなのか。また、何故深海魚と呼ぶのかも気になった。それは彼らが地獄という深い淵から顔出す存在だからだと噂されていたが、何か別の理由があるのじゃないかしらと、彼女はいつも不思議がっていた。
 やがてF-15Jから発射されたサイドワインダーが上空に向かってふらふらと進み、スカイフィッシュを捉えた。これを合図に慌ただしく旅客機が飛び立ち、別の戦闘機がその後ろから付いていく。残ったF15-Jは、血を噴きながらも食い下がる化け物についに取り付かれ、徐々に高度を下げていき見えなくなってしまった。
 しばらくして、沙雪は白い小さな音楽プレーヤーを取り出した。聴きたかったのは、米国の女性シンガーソングライターで、世界的なポップアイコンとして大きな人気を誇るミュージシャンだった。明るく勢いのある恋の歌だ。彼女は音楽が好きだった。
 あの正月は、もう三年も前になる。臨月を迎えた母のいる寝室で父と三人、弟の名前を考えていた時も、沙雪は有名な楽曲から一つ提案したのだった。彼女がどんな歌か、ボールペンをマイクに見立て披露すると、両親は微笑みながら手拍子をしてくれた。その矢先。ビル程もあるスカイフィッシュが現れて、嫌らしい舌を伸ばし母を縛った。抵抗する父は吐き出された火球で吹き飛び、家が崩れ落ちた。彼女が覚えているのは、ただ母の名を叫び続けていた事だけだった。
 記憶の断片化が、事実そのものの現実味を希薄にしたのだろうか。そんな経験をした沙雪があっけらかんと、スカイフィッシュは何故深海魚なのかしらなどと興味を抱くのは、他人にとってはなかなか理解しがたかった。けれども、それこそが彼女の資質に他ならないのかもしれない。好奇心が強く、透き通るように天真爛漫な心は、ただこう言っている。
 あの日はもっと寒かった。もう春がやってきている。新しい所へ行かねばならない。

「沙雪! 本気で行くつもりなのか!?」
 ラウンジを出て、彼女は閉口した。そこにはあれから世話になってきた叔父が、息を切らせて立っていたのである。住職の格好そのままで、和装、袈裟、坊主とひどく目立っている。
「あたしもう決めたの! 沖縄の叔母さんの家から、向こうの高校に通うんだから!」
 彼女も負けてはいない。間髪入れず大声で切り返し、辺りは騒然と二人に注目した。
「なあ沙雪、お前はうちの寺を継いでくれるんじゃあないのか? 私はずっとそのつもりだったんだ」
「そりゃあ叔父さんには感謝しているけど、尼になるなんて一度も言ってません! 得度なんて絶対嫌!」
「沙雪!」
「何よ!?」
 ギリギリと歯を食いしばるような睨み合いがしばし続いたが、先に叔父の方が表情を崩した。どうやら作戦を変えたらしく、語り口も柔和なものだ。
「大体こんな状況で飛行機なんぞ乗っちゃ危ないだろう。ほら見ろ、化け物がすぐそこで暴れ回っている。もうあれで何機か墜ちていると言うじゃないか」
「ここはまだ大丈夫よ」
「政府の発表だって簡単には信用出来んさ。安全が確保されていると言っておけば、とりあえず物資や金の流れが極端に滞る事はないからな。それに沖縄は遠すぎる。向こうがどうなっているか知っているのか? ほら、もう帰ろう。……あ!」
「もう決めちゃったの! 大丈夫、あたし運が良いから!」
「運が良いってお前……。こら!」
 顔を真っ赤にして追ってくる叔父を振り切り、彼女はついに空へと旅立っていった。

 暗がりに、この世で最も綺麗な色の絵の具を垂らしてかき混ぜたような、そんなような空間が広がっている。大気と海を湛えたガス星雲、南銀翔洋。ここは豊かで、目も眩むばかりに荘厳だった。しかし星雲とは星が生まれる元か、もしくは星が最期を迎えた姿である。ならばこの長大な輝きは、死の集積なのか、それとも無数の命が胎動する母胎なのか。それはここに巨大な都市船を浮かべる天使族すらも知らなかった。
 スカイフィッシュはこの宙を泳ぎ、男児を攫う。翼の生えた女天使が、隠匿された男を守るため血眼になって周辺を哨戒していたが、彼女らはもう男性の九割を失ってしまっていた。敵は煌びやかな宙域の中で、発光する体をカウンターイルミネーションとして潜み、彼女達の隙をつく。たった今も、奇襲により大量の犠牲者を出しながら、女達はスカイフィッシュの舌を銃撃していた。
 男児のみをその標的とするのは、如何なる理由があってか。単なる捕食という意見が大勢だったが、一方で矮雄として取り込むためだと主張する者もいた。そのおぞましい異種交配という説に一時誰もが戦々恐々としたが、戦いながら行われた数々の調査でも、未だに真実は明らかになっていなかった。情報があまりにも少なすぎるのだ。僅かな手がかりだけを頼りに編成されたこの銀河戦線・航空翔洋軍団も、これまで常に苦戦を強いられてきた。
 銃声を押しのけるように、不快な叫び声が彼方まで通り過ぎていった。巨木をへし折るのと似た音が波打ち、時空に醜い歪みが生じていく。
「ヘイダルゾーン!」
「逃げるぞ!」
「行け!」
 攻撃を受けていたスカイフィッシュがそこへ潜り込むと、彼女達の間に怒号が飛び交い、可変複葉ジェット戦闘機が舟から飛び立った。飢えた怪魚は不規則な歪みを作り、地球から子供を奪ってくる。数台の戦闘機が、次元の激流に曝されながらそれを追撃した。そうして彼女達が辿り着いたのは、沖縄海上だった。

 目の前が白から燃えるような夕焼けへ一挙に開けていく。音は機体が立てるエンジン音ばかりだった。静けさが伝搬していく中で、視界の端に煙が上がっているのが見えた。そこでは墜落した旅客機の残骸を、スカイフィッシュがむしゃぶりつくように漁っている。歪みを抜ける際に若干の時間差が生じたに違いない。
 女天使達の清廉な顔立ちが、みるみる憤怒にまみれていった。顔面の中央に向かって深い皺が幾筋も刻まれ、食いしばられた歯を剥き出しに、目が見開かれた。阿修羅のような形相のまま、彼女達はミサイルを十数発叩き込んで敵を八つ裂きにした。捕食に夢中だったためか、ひどく呆気ないものだった。
 死を確認するために海水面まで降りていった際に、一人がスカイフィッシュの舌に絡め取られいる少女を見つけた。全身に火傷を負いぼろきれのようではあったが、確かに女だ。稀に誤って宙まで連れ去られてくる女児もいる。天使達が地球の情報を得てきたのも、そんな子達からだ。それらの成果が、こうしてこの空気の中をも自由に飛び回る戦闘機だった。
 しかし違和感を覚えた。怪魚は、この焼け焦げた少女を喰らおうとしていたのではないか。そう思わせるような姿形で死んでいたのだ。機体を水上に止め、部隊長が彼女の身体を抱き上げてじっと見つめた。それから通信機を取り出してどこかへ向けてあれこれ喋っている間、少女の唇はかすかに震えていた。まだ息があるのだ。
 彼女に、声が降り注ぐ。
「意識はありますね。あなたに美しい肉体を差し上げます。ですから私達に献体しませんか? 奴らの事を知り、全てを守るためにも、あなたの身体を調べたいのです」
 優しげではあったが、有無を言わさぬ調子である。か細く恐怖に呻いた音が、爛れた喉奥から漏れた。天使達は、それを同意と取った。

 どれくらい経ったかは分からない。沙雪は目を覚ました。彼女は青々とした世界にいた。足に水が触れて視線を向けると、水面には耳のとがった純白の天使が映っていた。それは理知的で、無表情で、見知らぬ顔だった。
 徐々に呼吸が激しくなっていき、訳も分からず涙が溢れてきた。彼女はじきに正気を失って、嘔吐した。