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<東京怪談ノベル(シングル)>


『濡れた翼』

 窓の外には冷え冷えとした雲海が広がっていた。白鳥瑞科はシンプルな陶製のカップを持ち上げ紅茶をすすりながら、その景色を見つめている。機内に人気はない。エンジン音がじっと響き続けていたが、目に映る空の色がそれを吸って、とにかく静かだった。彼女は頬杖をついて、その軽やかな睫毛に縁取られた瞳を少しだけ曇らせているように見えた。しかし常日頃からそうであるように、この美しく聡明な女性の胸中を深くまで推し量る事は、容易ではなかった。
 地上には雨が降っていた。瑞科は差し出されたパコダ傘を開きながら、小型ジェットのタラップを降りた。風が冷たく、吐く息は白い。ゆったりとした歩調に合わせてハイヒールが甲高く鳴り、その音がスラリとした脚を一層凛として見せた。ミニのタイトスカートスーツとストッキングはいずれも鋭い黒で、見る者にはっとした緊張感を抱かせる。それは彼女自身の容姿も同様だった。女らしい各所の膨らみや茶色の豊かな長髪は誘うように甘い妄想を掻き立てたが、流麗な曲線で跳ねる眉や微笑を形作る口の端、上品な鼻筋が他者に一種の警戒心を要求するような、そんな支配力を持っていたのである。完璧な優雅さと隠しきれない色香とが激しく衝突し華やかに均衡する様が、深みのあるその表情にもよく出ていた。

「お待ちしておりました」
 空港の外に待っていた運転手が頭を下げ、瑞科をよく磨かれた国産高級車に乗せて出発した。後部座席に乗り込んでから深く息を吐いて、しばらくして顔を上げた彼女は、助手席に男が座っているのに気が付いて「あら」と声を漏らした。それは芯の太い、穏やかな声だった。
「骨が折れたかね?」」
「いいえ。そういうわけでは」
「冗談だ、シスター。君の実力は十分分かっている」
 彼は、神父である。太古から世界に根を張る教会という名の組織において、瑞科の上司に当たる男だ。教会は、人類の脅威を取り除く事を目的としており、その対象は危険人物から魑魅魍魎に至るまで多岐に渡る。中でも彼女はその実務に最も近い立場である、武装審問官と呼ばれるシスターだった。
「どうだった?」
「悪魔のような、男でしたわ」
「そうだろうな」
 彼はしゃがれ声で笑った。だが、瑞科は黙っていた。それを怪訝に思われたのか、ルームミラーに音もなく手が伸びていって、そこで神父とはっきり目があった。彼は浅黒く、小さな丸眼鏡をかけており、炯々とした目付きをしていた。前頭部はエム字に薄くなっているが、白髪が几帳面に短く刈り揃えられ、額には知性を感じさせる深い皺が幾筋も刻まれている。まじろぎもせず、言葉を促すように彼は待っていた。
「そんなような物言いをする、男でしたの。人を出口のないロジックに誘い込み、自己問答に迷わせるような」
「まさに悪魔のやり口だ」
「ですが、男は紛れもなく人間でしたわ。それも法を遵守している。遵守と彼は言いました。自分は人質を取って身代金をせしめるような無法者ではないと」
「それは間違っていない。彼はあくまでもルールに則って、信じがたい程の富を手にしたのだから。だから悪びれる様子だってないはずだ。例え大衆の貧困を元手にしていてもな。近年世界中で巻き起こった金融危機が分かりやすいだろう。あれで職を失い、家を失い、自ら命を絶った者が無数にいる。その一方で、あの壊滅的事態が確実に起こると理解しながら市場を操作し、自分の儲けに走った連中がいて、彼らは数千万ドルを超える金を年単位で手にし続け、今も悠々暮らしている。それこそ、法に守られてな」
「もちろん、手を下した事には異議も後悔もありませんわ。ただ、それを抑制する事はもちろん、裁く事すら、法で触れる事すら出来ないのは、やはり人の限界なのでしょうか? 敗北と言い換えてもいいのですけれど」
「連中は議員達に大量の献金を送り、優秀な弁護士を雇い、格付け会社や教育の場である大学すらも囲い込んでいる。法律を含めた社会構造はもとより、倫理観すらも形作れるわけだ。その上、国際市場の中に巨大な存在として組み込まれる事で、仮に破綻しそうになっても公的機関によって救済される形を強制している。十重二十重さ。君の言い方を借りれば、勝てっこない。だが重要なのは、彼らがやっている事が本質的には戦争と変わらない点だろう。冷戦が終わり、職を失った戦争屋が次に頭を使い出したのが金融だ。奴らは拳銃や爆弾は持っていないが、既にその兵器で何万人も殺している」
「そこには、わたくし達の役割がある」
「それでも難しければ、キリスト教におけるマンモンにでも見立てればいい。典型的なのは、彼らの間でコカインや売春が蔓延しているところさ。神経学者が行った実験によると、金を得る時に反応する脳の部位は、麻薬による刺激箇所と同じらしい。そういえば、今回君が向かったのも高級娼館だと聞いたが」
「ええ。ですが理屈をこね回して寄る辺を作るような真似は、わたくしには必要ありませんわ」
「それを聞いて、心の底から安心したよ。では何が気になる?」
「人が人として彼らに勝利しない限り、延々と血が流れるだけなのではないかと、そう思いまして」
「我々が半人半妖だとでも?」
「社会とそこに巣くう異敵、その隙間に潜んでわたくし達は剣を振るっている。それを知る存在は、極々限られていますわ。眼前の危機に抗するための特異なアクセス、この境界侵犯が、いつか何かしらの形で報いてくるとは考えられませんか? 時代が進み、距離や時間、感情や関係の格子が次々と取り払われていく中にあって……」
「そんな事、あるはずがないさ」
 神父は再び笑った。喉奥がかすれて出たような、ひどく冷笑的な笑いだった。瑞科は彼のこうしたシニカルな面がどうしても好きになれなかったのだが、とにかく口をつぐむ事にした。そして車窓から外を眺めた。雨中の街並みや人混みは、まるで影法師のようだった。
「君は頭が良すぎる。目の前の子が傷つけられ泣いていれば、手を差し伸べてやる。それが人間というものじゃあないか? 我々が何千年とやってきたのは、単にそういう事だよ」
 彼は彼で、困ったものだと考えていた。彼女はずば抜けて優秀だ。いずれもっと重い職務に就いてもらいたい。しかし、生真面目すぎる。彼女は管理者という立場だけではなく、正義というものをも真っ向から見つめているのだろう。
 雨が強くなってきた。辺りは灰色で、信号の色がそれに刃向かうように鮮やかだった。

 車が修道院と呼ばれる組織拠点に到着すると、瑞科は一息つく間もなく戦いの装束に着替え始めた。わざわざ神父が出向いてきた事で、既に次の仕事が待っているのは分かっていた。だが彼女は憂鬱そうでも、疲れた風でもない。あくまでも気丈で、その機会を歓迎しているようにすら見える。ただし、やはりその思惟は根本的には誰にも分からず、決して理解出来ないのだった。
 狭く、小さな窓が一つあるだけの部屋で、調度品もベッドと机、椅子、そして本棚しかない。彼女は着ていたものを全て脱いでしまうと、頼りない外からの光に全身を晒した。絹のように滑らかで白い素肌が輝き、柔らかい影が浮かび上がる。背筋を伸ばすと尻肉が僅かに持ち上がり、胸が重力に逆らってつんと上を向いた。
 戦闘着は落ち着いた黒の修道服で、身体のラインがはっきり出る程タイトなものだ。素材は見慣れない特殊なものを使っており、優れた伸縮性があるらしい。下は腰まで深くスリットが入っていて、そこから見える細い脚をニーソックスで包むと、彼女は白い編み上げロングブーツを履いた。そして慣れた手つきでコルセットを装着し、純白のケープとヴェール、細やかな模様が縫われたロンググローブを付けていった。
 最後に見事な装飾が施された黒革の手袋に手を入れて、瑞科は指を順番に折り曲げた。肌の露出こそ少ないが、豊満な線が惜しげもなく衣服の上から見えており、そこにくっきりとしたモノトーンの色合わせが隙のない印象を添えている。その姿には、まさしく才媛という言葉が相応しい。
 キドニー・ダガーを巧妙に身に付け、刀袋に入れたロングソードを片手に、彼女は部屋を出て行った。後にはベッドの上に畳まれたスーツやシャツ、しっとりと丸まるストッキングだけが残った。それから二時間後には、瑞科はまた機上の人となっていた。