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<東京怪談ノベル(シングル)>


『緑の庭』

 霧とまでは言えなかった。しかし、もやが風景を覆っていて、見る者の心を落ち着かなくさせていた。イギリス北西部の湖水地方では珍しくもない気候である。季節柄気温が低く、川沿いに密生している木々の多くが葉を落とし、繁茂する草もひどくかすれた色をしていて、ここには侘びしさが沈滞しているようだった。白鳥瑞科はその中を風切るように、淡々と歩いていた。
 舗装の甘い小径をある所まで来て、彼女は急に足を止めた。脇に流れる水音は止めどなく、陽光も弱々しいままだったが、明らかに何かが変わったのに気が付いたのだ。不安感によく似たざわめきが、うっすらと彼女の全身を駆け巡っている。それは今、大気よりも冷たい瞳を走らせている瑞科にとって、馴染みの深いある特定の気配だった。
 この辺りに屋敷を構えていた、ナイトの称号を持つ大商人が死んだのが一月前だ。子もなく親類縁者もいなかった男の莫大な遺産が全て夫人へと渡るに当たって、政府当局が彼女の経歴に近付いたのが始めだった。女は謎に満ちていた。それだけでこの件が教会に持ち込まれるに至った程、あまりにも判然としない事が多すぎた。現在の交友関係、夫とはどう出会ったのか、それまで何をしていたのか、学歴はどのようなものか、果ては年齢や国籍ですら、調べれば調べるだけ情報は疑わしさを増すばかりだった。
 捜査活動が教会に移っても、さして多くは知れなかった。ただし二点、女はこれまで少なくとも五度の結婚歴がありその相手が現在全て死去している事、またそれ以前の過去に全くと言っていいくらい痕跡がない事、これだけが明かになった。そうして、ここに瑞科が差し向けられたのである。
 彼女は今、確信していた。向こうにある枝々、痩せて乾いた梢が重なり合う先にちらと見えているあの水上の屋敷。そこに悪魔か魔物か、人ではないものがいる。

 石造りの古めかしい橋を見ただけで、この邸宅がかなり昔からあるらしいと分かる。川岸から約二十メートルの距離を門へ向かっていくと、一体どこに隠れていたのか、白い鳥達が一斉に飛び立っていった。彼らは一声も鳴かずに、慌てて逃げるような格好でたちまち上流の方へ見えなくなってしまった。
 門は錆び付いていて、誘うように開いていた。時折吹く風にきいきいと音を立てて揺らぎ、まるで口を開ける廃墟のようだった。瑞科は刀袋から鞘ごとロングソードを取り出して中に入ると、二歩三歩してから思わずたじろいだ。開けた庭の中に、艶々と輝くようなブロンドショートカットの女の子が、膝を抱えるようにしてしゃがんでいたからである。年の頃は五、六歳だろう。少女は下を向いてじっと地面を眺めていたが、そこに何かがあるようには見えなかった。だがその小さな顔立ちには確かに何らかの寂しげな感情が彩られていて、少女は幼いながらも、明らかに一つの完成した美しさというものを手に入れていた。それは他者の視線と心を、きつく縛り付けるのだった。
 どれだけそうしていたかは分からない。女の子が立ち上がってこちらを向いたところで、瑞科は正気付いた。そして思わず、眉間に皺を寄せた。すると彼女は小さな身体を更に縮こまらせ、胸の前にか細い両手を握って怯えた様子を見せた。
 少女には不可解な点がいくつもある。その最たるものは服装だ。この気温だというのに、彼女はフリルが付いた高級そうな半袖の白いシャツの上に、柔らかいベージュ色の短いサロペットスカートを着ているだけだった。いや、と瑞科は思考を中断し、より表情を険しくした。気が付けばあの芯まで冷えるような寒さを感じなくなっていたのである。周囲を見渡すと、そこは豊かな草木が生い茂る、緑の世界だった。川の流れを汲み上げているのか、ところどころに水が通い、原始の森に立ち入ったような光景だ。
 入った時からこうだったろうか。彼女は思い起こそうとしたが、しかし幾層もの緑色の濃淡が視界をぼかし、記憶ははっきりとしてくれなかった。見上げると、薄弱とした青が遙か遠くにあり、空がひどくよそよそしく映った。
 低い唸り声が目の前から襲ったのは、その時だ。降って沸いたように、そこには体高七十センチを超える巨大な犬が二頭いて、牙を剥き出しに威嚇していた。首周りに獅子のような毛を蓄え、筋肉が大きく膨らんだ体型を見るに、チベタン・マスティフと呼ばれる獰猛な犬種に違いない。彼らは明らかに、瑞科を敵と見なしていた。
「ちょっと大人しくしていてね」
 飛びかかられる前に、彼女の空いた掌から歪んだ光が走った。弾けるような音と共に相手に電撃がまとわりついて、即座に身体の自由を奪う彼女の能力の一つである。だが次の瞬間、瑞科は咄嗟に剣を抜いて自分の身を守らなければならなかった。
 マスティフの横振りは、八十キロを超すその重量の何倍もの衝撃を彼女の細身に叩き込み、吹き飛ばした。転がりながら受け身を取ったところにもう一頭が飛びかかったが、瑞科は咄嗟に下から蹴りを見舞って危機を脱すると、ロングソードを両手で構え直し頭を振って髪を払った。
 犬達はゆったりと円状に歩いている。狩猟動物によく見られる、緊張の押し引きだ。もう一度強く電撃を撃ってみようかしらと彼女は考えたが、期待は薄く思われた。だから、駆けた。野生よりも速く洗練された走りで間合いを縮め、振り上げ一閃、手応えがあった。しかし妙な手応えだ。鋼を叩いたような、そんな痺れが手に残る。
 二匹は怒り狂ったような咆哮を上げ、同時に躍りかかった。その強烈な攻撃も、間一髪で避ける事は出来る。ただ圧倒的なパワーを相手に、受ける事が出来ない。獣の鋭角なステップを二つ同時に対処するだけで手一杯で、有効な反撃に転じられないのだ。先の切り払いで彼らの体毛、皮膚、その下の肉体かは分からないが、何か非常に硬いものが全身を包んでいるのが分かっていた。迂闊な手出しはただ隙を作るだけに過ぎない。
 瑞科は意を決した。そして飛び退きながらマスティフの腕を正面から受け止め、その勢いを利用して距離を取った。敵はすぐさま追ってくる。だが、この少しばかりの時間が欲しかった。彼女は左手を開いて前に突き出し、こめかみに血管を浮き立たせると、一気に指を閉じた。
 腕に噛み付こうとしていた一匹が、宙にピタリと止まる。そして気味の悪い音が鳴った。肉が爆ぜ、骨が粉砕される音だ。全身の穴から汚い液体が噴き出し、犬は一回り小さくなって、ぼろ雑巾のような形で地面に転がっていた。
 額の汗を拭う間もなく、迫るもう一頭の頭上を回転しながら飛び越えると、瑞科は振り向きざまに肩口から両手で握った剣を突き、獣の口中を貫いた。断末魔も聞こえなかった。直ちに離れた彼女の服には汚れもなく、辺りは閑寂としていた。

 少女がいた。彼女は少し離れたところで犬達の死骸を見て、目にかすかな涙を溜めていた。子供が悲しい出来事に心を痛める様は、どうしてもやるせない。瑞科はロングソードの血を払い鞘に収めると、何と言ったらよいか、とにかく近付こうとした。そこで、背後から声をかけられた。
「まあ酷い。これ、あなたがやったの?」
 場違いな、あっけらかんとした響きだ。振り向けばそこに、貴婦人が立っている。彼女はラフな格好をしていた。青みがかった大きくシャープな襟のブラウスの胸元を大胆に開け、下は真っ白いスキニーパンツを履いていた。全体のシルエットはかなりタイトで、裾や袖口がほんの少し開いているデザインだ。それはこの場にいかにも相応しくない姿だった。にもかかわらず、女はやはり貴婦人としか思えなかった。
 肩口まで伸びたブルネットの髪や、それを掻き上げる仕草が、この上なく上品だったからだろうか。小顔の中のはっきりとした目鼻立ちから、知性を超えた何か奥深いものを感じるからだろうか。
 女は母のような眼差しで、色っぽい柔らかそうな唇から、透き通った生娘のような声を出した。
「あなた人間?」
 薄ら寒い台詞だ。瑞科はその妖しい微笑みを睨め付けていた。その様子を上目遣いで見比べた後、少女は子猫が母猫を見つけた時のように女に走り寄って、ばふと抱き付いた。
「ねえ、そんなに怖い顔をしないで? 怯えてる」
 脚にすがり顔をこすりつけている子の頭を撫でて、彼女が言った。
「レディ、あなたに聞きたい事がありますわ」
「シスターとお話しする事なんてあったかしら?」
 瑞科は黙っている。間を置いて女は笑った。
「ご招待させて頂きます。……ほら、先に行っておいで」
 泣き出しそうに不安がる子供の背を押してから、彼女はゆっくり歩き出した。いつの間にか少し離れたところに色の乏しいエリザベス朝様式の建物が見えていて、歩はそこへ向いているらしかった。