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<東京怪談ノベル(シングル)>


『カムラン湾に散った恋』


 1975年、4月末日のベトナムは陥落寸前のサイゴン、その大使館へ、綾鷹・郁は降り立った。
 郁にかせられた任務はとある米人科学者を救出することである。その科学者は、ベトナム人妻の内助の功により、NASA長官にまで出世をしている。そして、それをよく思っていない巨大企業が、この時代のうちに彼を殺してしまおうと、工作員を送り込んでいるらしい。
 現在、サイゴンでは在留米人の撤退作戦が計画されている。『フリークェント・ウィンド作戦』と呼ばれるこの作戦は、街の大使館、及び高い建物の屋上からヘリコプターで脱出するというもので、米軍ラジオから流れるとある放送を合図に実行される。
「よし、いっちょうやっちゃるもんね!」
 時代錯誤も甚だしいTC制服姿の郁は、服装もそうだが、桃色のウェーブヘアに加え、尖耳ときているのだから、注目を受けないはずがない。作戦実行待ちの軍人たちも、いきなり現れた異邦人にぽかんとすることしかできないでいた。
 そんな注目もなんのその、辺りを一瞥して、彼女は目的の科学者を探す。大使館は人であふれているが、米人を見つけ出すこと自体はそう難しくはないはずだ。
「科学者っぽいひと、科学者っぽいひと……」
 呟きながら探し続けていると、ふと、とある背の高い米人が、郁の目に止まった。いかにも科学者らしき、小難しそうな顔立ちをした男。その男を見つけた瞬間、郁の体に電流が走った。背も高いし、顔立ちもハンサム。ひと目見ただけで、郁の心は彼に持っていかれてしまった。すぐさま小走りで彼に近寄ってゆき、名前を尋ねる。彼は、目的の米人科学者だった。
「よかった、あなたを探していたの!」
「ぼ、ぼくを? どうして?」
「あなたを無事に母国まで送り届けるのが、あたしの任務なの!」
「は、はぁ……」
 科学者は困惑するばかりだ。
(――ああ、近くで見ればみるほどかっこいい! ステキ! やっぱり彼にするなら、こう背が高くて、ハンサムな外国人よね)
 そんなふうに目を輝かせる郁をよそに、ついにその時がやってきた。
 ラジオから流れる放送。『お母さんが帰宅する様言っている』、そして『本日は華氏105度以上です』。作戦実行の合図である。
「来たわね、さ、こっちへ!」
 郁は科学者の手をとり、屋上へと導く。ヘリはすでに大使館屋上へと降り立っていた。
「これに乗って、脱出して! 大丈夫。絶対、あたしが母国まで送り届けるから」
「あ、ああ、それはありがたいんだが、妻がまだ下にいるんだ」
 妻ときいて、郁は一瞬、我にかえる。
 ――そうだ、この人既婚者だったんだ。で、でも障害が多い方が、恋は燃える! ということで、郁は笑顔で、彼の妻を探すことを了承した。
 爆音を伴い、ヘリが飛び立ち、カムラン湾へと向かう。カムラン湾には米国の空母が待機しており、科学者はそこで空母に降ろされた後、海路を使って米国へと送り届けられる。
「さて、なんか癪だけど、あの人のために奥さん見つけなきゃ」
 屋上をあとにし、人であふれる大使館ロビーへ向かう。ロビーでは政府高官が、やや混乱寸前の民衆たちをなだめるように演説を繰り返している。そして、その政府高官にむしゃぶりつくようにして、必死に何かを尋ねているベトナム人女性が目についた。
「もしかして……」
 思って近づいてみると、やはりその女性は、主人である科学者のことについて訊いているようだった。だが高官は、「ベトナム人は別手段で脱出する」の一点張りである。現地人は米軍のヘリに乗れないため、仕方がないことではあるが。
「あのぅ……」
 郁はその女性に声をかけ、科学者の妻であることを確認したのち、事情を説明した。
「……っていうわけなので、旦那さんは無事よ」
「そう、ありがとう。でも、心配だわ……」
 科学者の妻は、顔を真っ青にし、しきりに額へ手を当てている。やがてたえきれなくなったのか、目前の郁の手を掴んで、涙目ながらに懇願した。
「ねぇ、お願い! すぐにあの人のところへいって! とても嫌な予感がするの!」
 そんな必死の頼みを無碍にすることもできず、おまけにこんな事態での、女の勘はバカにはできない。大丈夫、絶対大丈夫だから、と妻を励まし、郁はすぐさま大使館を飛び出し、カムラン湾へ急いだ。


 果たして、カムラン湾へ急行した郁は、科学者の妻の不安が的中していたことを知った。
 科学者を乗せたヘリは着艦に失敗し、彼を乗せたまま海へ墜落したらしい。現在、ドワーフ達が彼の救助に向かっているが、救助は難航しており、溺れ死ぬのも時間の問題かもしれないと言う。
 郁に迷いはなかった。高波の飛沫に紛れ、海へと飛び込む。その際、彼女は服の背中側を裂いていた。純白の翼が、美しい姿をあらわにする。
 ――空をとぶだけが、能じゃない。
 翼が力強くしなり、まるで鰭のように海水をかき分け、彼女の体を前へと押し進めた。ぐんぐん海底へ突き進み、すぐに彼女は、墜落したヘリと、潜水服を着たドワーフ達、そして彼らに助けだされようとしている、科学者を見つけることができた。さらに、かなり離れた位置に、敵のものと思しき潜水艦も。
(あたしが囮にならなきゃ!)
 すぐさまドワーフたちに合図を送り、前へ飛び出しながら、郁が盾になるよう翼を広げる。すると、敵潜水艦は標的を郁にかえたらしく、彼女へ次々と魚雷を放った。しかし、未来からきた郁に、もはや原始的とも言える武器が通用するわけがない。彼女はどこからか水中機銃を取り出し、鮮やかな手つきで、すべての魚雷を粉砕してみせた。
 ちらり、と背後へ目を向ける。科学者はドワーフたちに救助され、無事空母に保護された様子だ。良かった、とほんの一瞬だけ、郁は油断してしまった。その一瞬の隙を、敵は突いてきた。郁にソナー攻撃を浴びせたのである。不意のことで、かわすことも防ぐこともできず、攻撃をもろに受け、郁は思わず悶絶する。
(しまった――!)
 思った、次の瞬間、背後からものすごい爆音が鳴り響いた。ついで、体を揺らす衝撃。己を取り戻した郁が振り向くと、そこには海中にもかかわらず火の手を上げ、沈没してゆく米軍空母の無残な姿があった。
「……っ!」
 助け、られなかった。その事実に、彼女はもはや、言葉をなくすことしかできなかった。


 任務は失敗だった。消沈した面持ちで、郁は大使館へ戻り、科学者の妻へ、任務の失敗を告げた。
 たちまち泣き崩れる彼女の姿を見て、郁もこみ上げてくる涙を止めることができなかった。守れなかった。守るって、約束したのに。大使館に、二人の泣き声が悲しく響き渡るのだった。



 彼女は、知らない。実はこの任務が、当局の仕組んだものだということを。当局の本来の目的は、彼らにとって都合の悪い有能株の抹殺、すなわち、科学者の殺害である。だが、直接殺してはまずい。そこで、郁に白羽の矢が立ったのだ。この任務における彼女の役割は撤退作戦の撹乱と、彼の死の責任を、彼女に押し付けることだったのだ。ヘリの着艦失敗も、空母の爆沈も、すべて当局の別工作員の破壊工作によるものである。こうして当局は、心優しく人懐っこい彼女の性格を利用し、密かに不穏分子の抹殺を図っているのである。
 ――そうとは知らず、郁はただ、守るべき人を守れなかった悲しみに打ちひしがれるのみである……。

『カムラン湾に散った恋』 了