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<東京怪談ノベル(シングル)>


『冷えた暖炉』

 中は暗い。重厚な音を立てて扉が閉まり、明かりはそれぞれの部屋からかすかに反射してきた光だけとなって、玄関ホールは薄闇に包まれていた。風の音が失われ、途端に何もかもが止まってしまったかのような錯覚を覚える。事実そうなのかもしれないと、白鳥瑞科はゆっくり鼻で呼吸をしながら考えていた。塵や埃は全く感じられない。しかしここには、長く人が出入りしていなかった建物によく見られる、川底に淀んだような空気が確かに充満していたのだった。
 油断なく這わせていた視線を前へ戻すと、貴婦人のぼうっとした目の光が彼女のしなやかな肩越しに見えていた。それは宵の月にそっくりの静けさで笑っているように見受けられて、瑞科はあまり面白くない気持ちになった。そして、そういえばあの子供はどこに行ったのかしらと思いを巡らしたが、その間に女が奥へと向かい暗がりに溶けようとしていたために、瑞科もまた鞘を握りながら彼女を追っていった。

「何もないでしょ?」
 女は煙草を取り出し、それを鼻の下に滑らせて香りを楽しんでから口へと持って行った。そして火を付けようという姿勢のまま瑞科の方を見て、片眉を上げた。年季の入った大きな机の上に足を組んで腰掛け、歯で煙草をくわえたままのその無頓着な姿は、退廃的な美そのものだった。それはこの屋敷のように、歴史ある上品な過去と肉体を持つものが、虚ろに時と色とを失っているようにも見える。瑞科は促すような瞳を向ける相手に、慎重に質問を投げた。
「どうして、この部屋に?」
「あの人がよくここにいたから」
 社交的に答えてから、彼女は鈍い色のライターで火を灯し煙を一杯に吸った。そしてゆっくりと、嘆息のように吐き出していく。
「独りぼっちが嫌いだったのに、いつもこんなところに閉じこもっていてね。酷い場所よ。あるのは空だけね。後はろくでもない本ばかり」
 確かに、無機質な空間である。ここは二階の、書斎らしかった。邸宅の一室にしては広くもなく天井も低いが、西側の一面がガラスになっていて、モノクロの空が高いコントラストを中に落としている。室内は調度品も含めて主に直線で成り立っており、趣向を凝らしたというよりも実用性に偏ったデザインに思えた。もちろん、これが美しいと言えなくはない。しかし元からそうなのか、そうなってしまったのかは分からないが、ここは生活感がぽっかりと抜け落ちていて、とかく冷たい印象が先に立った。
 部屋の構成上の中心である大きな暖炉が、最も目を引いていた。それはもうずっと使われていないらしく、あたかも暗い洞窟のように見えて、かつてここにいたはずの主が寒さや孤独に震えている様子が脳裏に浮かぶようだった。
「ねえ、主人の話を聞きたいのだと思ったんだけど、違った?」
「いいえ、聞かせて頂きたいですわ。彼がどんな人物なのか、あなたとどんな生活を送っていたのか、そして、何故死んだのか」
 二人は距離を測るように、互いの神経をまさぐり合う態度を投げ合っていたが、じきに女はつまらなさそうに歯を見せて笑い、灰皿に煙草を押しつけた。
「優しかったわ。隣で寝ている人の毛布がはだけていれば、絶対に起こさないようにと、怯えながらそっとかけ直してあげるような、そんな臆病で寂しい優しさ。彼、母親に捨てられたの。だから人を信じ切れなくて、特に女の子をどうしても受け入れられなかった。いいえ、本当は何もかも信じていなかったのね。お金すらも。お金を持っていれば誰もが一目置くけれど、それは結局いつかは失われるもので、何より彼はいつだって今よりももっと人を信じていたかったの。だから死ぬ程お金を集め続けて、その分だけ心が削れるように虚無的になっていった。こんな部屋で巨万の富を得て、動かして、凍えていたわ」
 彼女は、こんな部屋、と殊更に強く言った。
「孤立していたのよ。少しでも嫌なところ、疑わしいところ、不誠実なところが見えると、めちゃくちゃに相手を攻撃してしまって。あの人が口を開けば、それはとても理路整然としていてちゃんとした理由あるんだけれど。彼はいつだって正しかった。そして独りだった。他人の感情については考えても考えても不安ばっかりだから、全て論理に帰結させようとしていたのね。自分で伸ばした手は、後から後悔するか途中で引っ込めてしまうかのどちらかだった。結局、進んで一人でいる事を選び取って、心を守っていたわ。だけどそのせいで更に深く傷付いて苦しんでいた。馬鹿みたい」
「でも、あなたは受け入れられていた」
「本能が求めたのよ。私はあの人を愛していたから。その愛に、ずっと焦がれていた母を見たんだわ。だけどやっぱり、救われなかった。彼は僕なんかでいいのか、いつか僕は見切られてしまうんじゃないかって、怖がり続けていた。何度愛していると言っても。いえ、愛が深まる度により一層。でも快感は本当だったから、最初はそれで繋ぎ止められていたの。けれど、やがてそれだけが永遠に続くようにと願うようになった」
「それで、殺した?」
 女は床に降りてモデルのような歩き方で近付いてくると、長く蠱惑的な手を下から差し出して、瑞科のへその下部辺りをさすった。肌と生地が柔らかく擦れ合い、快楽に最も近い音がした。
「産んだのよ」
「……彼を?」
「そう。君に産んで欲しかったって、こうしてずっと君の中にいたいって、この腕の中でブルブル震えて泣きじゃくるあの人を見て、私も本当にそう思ったの。それから彼の意識が幸福に霞んだ時、また渇きが襲ってくる前に、私は彼を包み自由の中に産み落とした」
 彼女は新しい煙草を箱から取り出した。そして例のやり方で匂いを嗅いで、再びライターを掴んだ。

「他の男性達も、同じですわね」
「一人は仕事にも女にも縁がない、ただ死を待つだけのような心持ちでいた童貞の子。その前は、時間や状況に追い詰められた、とても真面目なつまらない人。それから……」
「あなたはサキュバス? それともリャノーンシー? エンプーサ? ニンフ?」
 問いに意味などない、とでも言うかのように瑞科は剣の柄に手を伸ばしていく。
「彼らは知っていたわ。愛を語る時、私は自分の事を話していたんだもの」
「愛ですって? 人ではないあなたが?」
「可哀想に。あなたには愛が分からないのね。彼らよりもずっと気の毒。処女で、人殺しの……」
 引き抜かれたロングソードが銀線を引いたが、女は目の前から消え、奥の椅子に座っていた。
「皆、望んでいたのよ。安堵したように、ありがとうと言っていた。彼らの想いだけは、誰にも否定出来ない」
「それはあなたが騙していたから」
「騙す? あの人達は全員、もうずっと苦しんできたのよ。価値観を刷り込ませて騙していたのは、あなた達なんじゃなくて? こうありたい、こうなりたくない、生は素晴らしく、死は破滅。どうして騙そうとするの? あなたも騙されているから?」
 紫煙が停滞していた。双方とも表情からは感情が読み取れない。
「ねえ、何故私を殺すの? 私が、人ではないから?」
「あなたのやっている事は、相手を自分の都合の良いように作り上げて、食い物にしているだけですわ」
「どの口が言うのかしら。そうやって限りない他者の都合によって縛られ、社会という装置に取り込まれて身動きが取れなくなっていた恋人達を、私は逃がしてあげただけ。彼らは本当の自治を手に入れて、自由になりたかったのよ」
「自由なんてそもそもどこにもありませんわ。あるのは起き続けている状況だけで、人はそれに不自由や束縛を感じ、その反証として自由めいたものを口にしているだけ。それとも真の自由とはあなたのように、好きな時に好きな獲物を捕まえて食べる事? わたくし達はそれを拒む事で、雨風を凌ぐ家を得たのです。社会はそもそも、個を認識するものではありませんわ。ですが守ってはくれます。生まれた時からその庇護に与っておきながら、今更小賢しく権利だけを主張するなんて身勝手が過ぎる。人間は死を選ぶ事など決して許されないのです」
「死すら奪うなんて、悪魔よりも恐ろしいわ」
 女はカラカラと女学生のような笑い方をした。
「もしも自由に眠り夢が見られるのなら、そこから帰ろうとしない人は、残念ながら大勢いるでしょう。死はそのようなもの。ですがそれが本当の望みであっては、いけないのです。世界は夢魔に食われてしまう」
「夢を見る事も出来ない……痛ましい生き物」
 そうして彼女はふっと、本当に悲しそうな顔をした。まるで親が子にするような、あの暖かくもひたすらに哀れな、決して届かぬ者の目だ。
「あなた達の言い方で言おうかしら。物質は滅びる誤り。霊は実在し、永遠である。彼らはずっと私の中で生き続けているわ」
「詭弁を」
「語る言葉は、尽きたみたいね」