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sinfonia.16 ■ 兆し
蒼白に染まっていた顔色も元に戻り、緑色の瞳が真っ直ぐ凛を見つめていた。ベッドに腰掛けて苦笑を浮かべている勇太が、感極まって口を抑えたまま立ち尽くす凛は、目を潤ませ、徐々に表情を歪ませていく。
「勇太……」
「おはよう、凛」
その言葉に、凛の緊張の糸がプツリと切れた。頬をぼろぼろと涙を伝わせながら、凛が勇太に向かって駈け出し、抱き着いた。「おぉぅ!?」と情けない声を出しながらその凛の身体を抱き止めた勇太だったが、気恥ずかしさから顔を赤くして凛の抱擁から逃れようと試みるも――。
「勇太、勇太……」
――そう言いながら涙を零す相手を、どうして引き離す事が出来るだろうか。
勇太はそんな事を思いながら、凛の背中にそっと手を回した。
「ごめん、心配かけた、よな」
「まったくです……ッ」
「ははは……、でも、もう大丈夫だよ」
「……ホントに?」
目を赤くしながら、何処か縋る様に勇太の胸元から勇太を見上げた凛に、勇太は思わずドキっと胸を高鳴らせながらも小さく微笑んだ。
ようやく状況を理解したであろう凛が、安堵と共にみるみる顔を赤くしてパッと立ち上がり、勇太に背を向けた。
「ご、ごめんなさい」
「え、いや。別に良いんだけど……」
涙していたせいか、凛は自分が感情に突き動かされたまま抱き着いていた事に気付き、それが恥ずかしくなって身体を離した様だ。そんな事をされれば、勇太も思わず先程までの行動を顧みてしまうのは当然であった。
お互いに空白の時間を、ただ気恥ずかしい気持ちだけが埋め尽くしていた。
■■百合■■
虚無の境界によって身体を変えられた――否、自分の意志によって身体を作り替えた私にとって、それでも人間らしくいられるのは彼のおかげなのかもしれない。
工藤 勇太。
彼と出会って、力に染まってしまった私ですら、アイツは人間として扱う。それが何だか、どうしようもなく私の感情を危うい物にして揺らしていた。時に苛立ちとして、時に懐かしさとして、アイツは私を揺さぶる。
今回の騒動で瀕死の状態になったアイツを見て、私も取り乱してしまいそうだった。
――私は卑怯だ。
目の前で混乱していた凛のおかげで、少なくとも冷静でいられた。もしもあの子がいなかったら、私があの子の立場を演じる事になっていたのかもしれない。
「――――」
勇太の眠っている部屋の前で聞こえてきた声に、私は思わず表情を綻ばせていた。
――アイツが起きたんだ。
そう思って中を覗き込んだ途端、私は声をかける事が出来ずに身を潜めてしまった。起きたアイツに、何かやましい所がある訳でもなかったのに。
――凛が勇太に抱き着いている姿。
――それを見て、私は何だか胸が苦しくなった。
混乱。
身体にガタが来たせいかと当惑していた私は、思わずその事実に焦りを感じていた。今までにこんな形で身体に苦しみを感じた事はない。締め付けられる様な痛みに、私は壁に背を預けて、胸の前でキュっと拳を握った。
――「慕っている」
不意に、エストとかいう金髪の天使みたいな女に言われた言葉を思い出した。
すでに普通の人間とは到底呼べない私が、アイツを慕っているのだとエストは言っていた。
有り得ない。私はそんな感情を抱く様な人間じゃない。
――だけど、エストの言葉を思い出した途端、心臓が高鳴り、顔が熱くなっていく。
ダメ。
今の私じゃ、アイツに何て言えば良いのか解らない……。
逃げる様に私は、足音を消してその場を去った。
□□IO2・楓□□
虚無の境界が動き出したせいで、私の計画は破綻したと言っても過言ではない。
クローン製作に挑み、超能力者を生み出す為の実験。五年前、虚無の境界が工藤勇太を使って行ったという実験を、私は成功させるつもりだった。
そうすれば、馨の仇を取れる。虚無の境界が成し得なかった事を私の手で完成させ、そして虚無の境界を滅ぼせる。そう信じていた。
しかし、私のプライベートアドレスに、一通のメールが送られてきていたせいで、私はその計画が完全に頓挫し、意味を失った事に気付かされた。
――『件名:愛する妹へ』
何の冗談だ、と鼻で笑ってやりたかった。
添付されたファイル名は、日付。そして写真ファイルである事を示していた。
ウィルスの類ではないと直感が告げ、私はそのファイルを開いた。
そこには、武彦と一緒に映る姉――馨の姿があった。
ファイル名である日付は、二日前のデータだ。
「……姉さん……?」
『馨へ。
長い間連絡が出来ず、今更こんなメールを寄越してきた姉をどう思うかは解らないわ。
だけど、私は今こうして生きている。
話したい事は色々あるけれど、メールだけで伝えるつもりはないわ。
だから、彼にそっちに行ってもらう事にした。彼から話を聞いて』
メールの内容を見つめた私は、不意に自室のドアが開かれて人が立っている事に気付かされた。
「……鬼鮫?」
「伝言を頼まれてな。お前の姉と、ディテクターからだ。『そのメールは本物だ』とよ」
「……バ、バカな事言わないでよ!」
――そう、このメールはただの悪戯だ。
でなければ、どうして馨は――姉さんは私の前に姿を現さないのよ……。
あんなに仲だって良かった。何でも話した。
――武彦だって、あんなに……。
「復讐なんざ、心すら晴れやしねぇもんだ」
「……経験者は語る、とでも言いたいの?」
「そう、だな。『クローン開発には手を出すな』。これも伝言だ」
「――ッ!」
鬼鮫は告げる事だけを告げて、部屋から去って行った。
残されるのは、いつも私ばかりだ。
■□馨□■
宗は『もうここには戻らない。自由にしろ』とだけ走り書きにしたメモを残して、姿を消していた。
相変わらず謎を多く残している男だ。私に解る事と言えば、あの人は何年経っても見た目が何ら変わらない事と、あの少年――工藤 勇太にあまりに似ている事だ。
――まるで、あの少年こそがクローンなのではないかと疑いたくなる程に。
宗が言うには、あの少年とは『会う時ではない』そうだ。姿を消すついでに私を捨てていくなんて、何年も私をこんな所に繋ぎ止めていたクセに、ずいぶんと勝手な男だ。
だけど、私に命を与えてくれた相手だ。
宗は何とも思っていないかもしれないけど、私にとっては少なくとも敵ではない。
いや、少なからず武彦とどこか“似ている”せいか、私は彼を信用していた。
それは、「味方でいたい」と思う程には。
閑話休題。
楓からは返信が来ない。それもそうだろう、私は死んでいると思われているだろうし、私が連絡しなかったのは、宗を何処か信用しきれていなかったからだ。
相変わらず、我ながら打算的な考えで楓を放置し過ぎた。その報いに、楓のビンタ数発は覚悟するべきだろう。
「よう、邪魔するぞ」
「あら、どうしたの?」
武彦が声をかけてきた。昔からこの口癖は直らないのね。
「馨、勇太に宗の事を話すべきだと思うか?」
相変わらず、甘い会話には発展しないわね。少しぐらい再会を喜んで抱きしめるぐらいの甲斐性は見せて欲しいけど。
「どうした?」
「何でもないわ。それよりも、まぁ黙っておくべきでしょうね」
「……やっぱりお前もそう思うか」
これも昔からの癖ね。自分の考えは固まっていて、それを確認する為にこうして話し掛けてくる。
「宗はきっと、いずれ自分から会う時が来ると考えている。それは私達が介入する問題ではないと思うわ」
「……だな」
「フフ、相変わらずよね」
「あ?」
「何でもないわ」
ここに楓がいてくれれば、きっと昔みたいに武彦の頭を小突いてたでしょうね。
楓。
どうか道を踏み外さないで。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ゆ、勇太? こんな所で何を見せようと? まさか、今までに誰にも見せていない一面を見せて迫って来るなんて――」
「――もしもーし?」
勇太に連れられて広い部屋にやってきた凛は、相変わらずの暴走を繰り広げつつ勇太に引かれていた。
「これなんだ」
勇太が身体の前に手を出し、天井へと向ける。
一瞬顔を歪ませた次の瞬間、凛は目を大きくむいて勇太の手から出された“それ”を見つめた。
「それ、は……ッ!」
凛の胸が騒ぎ出す。
勇太の目の前に具現化されたそれは、黒い光を放った球体。禍々しい尾を放ちながら、それが天井に向かって伸びては霧散されていく。
見れば見る程に、その禍々しさに凛は表情を曇らせた。しかし勇太はそんな凛に向かって口を開いた。
「今回の件で、あの巫浄 霧絵とかって人には俺のサイコキネシスだけじゃ太刀打ち出来ない事が解った。もっと強い力が必要になるんだって。だから、この『負の念』を使おうと思う」
「ダメですっ! そんなものを使ったら、勇太が飲まれる危険性だってあります!」
「うん。だから、凛が必要なんだ」
勇太が更に説明を続ける。
「俺が作れるのは、あくまでも擬似的な力。まだまだ巫浄 霧絵程の強さも量も足りない。それに、さっき俺が言った通り、これは『負』の――つまり、悪霊なんかと同じ類だと思う。だから、もしも俺が飲まれそうになったら、その時は凛に止めて欲しい」
「ですが……、そんな力を使わなくてもきっと!」
「守りたいんだ」
「え……?」
「俺は自分の力でみんなを守りたい。その為に、もっと強くなくちゃいけない」
不安に表情を曇らせる凛へ、勇太は微笑んだ。
「凛も百合も、草間さんも鬼鮫もエストさんも、みんなみんな俺が守る。だから、これを使う為に協力して欲しい」
勇太の瞳は、頑としてぶれない力強さに染まり、凛へと視線を注いでいた。
――こうして、勇太は新たな力を携えて虚無の境界と対峙しようとしていた。
その裏で、虚無の境界とIO2が正面から衝突しようとしている事を、この時の勇太は未だ知らない。
to be countinued...
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