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<東京怪談ノベル(シングル)>


事象の狭間を舞う蝶々


 最近、若返ったんじゃないか。
 会社で、そんなふうに言われるようになった。元々、48歳という実年齢より若く見られる事は多かったのだが。
 以前と比べて、階段の上り下りも楽になった。
 こうして駅から得意先の会社まで歩いて行くのも、以前は足腰にこたえたものだが、今は疲れを感じる事もなく往復出来る。
 いくらか腕時計を気にしながら、松本太一はすたすたと歩道を歩いていた。営業回りの真っ最中である。
 頭の中で、女悪魔が呆れた。
(貴方の事、あらかた理解したつもりでいたけれど……まだまだねえ。わけがわからないわ)
「何がです」
(どうして、こんな会社勤めなんか続けるのよ。私の力を有効に使えば)
「働かなくても遊んで暮らせるでしょうね、確かに」
 声を出して、太一は会話の相手をした。
 端から見れば、独り言である。通行人が時折、気味悪そうな視線を向けてくる。
 構わず、太一は言った。
「でも、これが私なんです。貴女がたの言う、真名と同じですよ。50年近くかけて私は、まっとうな勤め人としての松本太一を育て上げてきたんです。今更それを捨てる事なんて、出来ませんよ」
 捨ててしまったら、松本太一は松本太一ではなくなる。この女悪魔が着込んでいる、生きた縫いぐるみのようなものでしかなくなってしまう。
(なるほど、ね……貴方の真名が強い力を持っている理由、わかるような気がしてきたわ)
 女悪魔が興味深げに言った、その時。
 歩道が揺れた。車道も揺れた。コンクリートに、アスファルトに、亀裂が走った。
 まるで地震のような地響きが、街全体を揺るがしていた。
 巨大なものが、車道の真ん中で実体化を遂げたところである。
 何本もの鼻を生やした象。あるいは、歩行する巨大なイカ。無理矢理にでも言葉で表現すると、そんな感じになる。
 大蛇のような触手が、うねり暴れた。
 何台もの自動車が打ち据えられ、叩き潰され、ガラスの破片を振りまきながら宙を舞った。
「貴女の、お知り合いですか……」
(そうね、……の使い魔か、……の所の殺し屋さんか、……の下っ端かも知れないわ。それとも……の)
 女悪魔が、人間には聞き取れず発音も出来ない名前を、いくつか挙げた。
 要するに、命を狙われる覚えがあり過ぎるという事であろう。
 こんな会話をしている場合ではなかった。
 少し離れた所で、親子連れと思われる女性と幼い女の子が、立ちすくんでいる。
 叩き潰された自動車が1台、そちらに向かって飛んで行く。
 太一は跳躍した。眼鏡の奥で、左右の瞳が紫色に輝いた。
 若い母親と幼い娘が、悲鳴を上げて抱き合っている。
 彼女らの眼前に、太一は着地した。そして両手を掲げる。
 車の残骸が、飛んで来る。そして太一の目の前でグシャッと空中停止した。
 目に見えぬ防壁が、そこに出現していた。
 ひしゃげた車体が、弱々しくずり落ちてゆく。
 象のようなイカのような怪物が、暴れる触手で路面を殴打し、アスファルトの破片を舞い上げながら、こちらを向いている。その巨体が、猛々しい敵意を漲らせている。
 紫色の瞳で、そんな敵の姿を眼鏡越しに見据えながら、太一は文句を漏らした。
「まったく、敵だらけじゃないですか。これが貴女の人脈ですか」
(ふふっ。女は外に出ると、1億人の敵がいるものよ)
 そんな言葉に合わせて、キラキラと光が生じた。煌めく光の粒子が、太一の全身を包んでいった。
 怯える母親に抱き締められたまま、小さな女の子がこちらを見上げている。夢を見るような眼差しである。
 渦巻く光の粒子の中で太一は、松本太一・男性48歳ではなくなっていた。
 紫のドレスを、内側から突き破ってしまいそうな胸。凹凸のくっきりとした魅惑のボディライン。薄紫色のストッキングを、ぴっちりと貼り付けた美脚。
 真紅の髪飾りを咲かせた黒髪。艶やかさと初々しさが同居する美貌。
 夜宵の魔女。その姿が、母子の眼前に出現していた。
 怯え、俯き、何も見ていない母親の腕の中で、女の子がキラキラと瞳を輝かせている。
 太一は慌てた。
「あ、あの違いますから。これ、日曜朝の変身ヒロインとかじゃありませんから!」
 唇から紡ぎ出されるのは、高く澄み渡った若い娘の声である。
 女悪魔が、呆れた。
(もう何回も変身しているのに……貴女、まだ慣れていないのねえ)
「こんな格好、何回やったって慣れるわけないじゃないですかぁ……っ」
 紫の瞳に羞恥の涙を浮かべながら、太一は両の細腕を掲げた。
 目に見えぬ防壁が、再び発生した。
 叩き付けられて来た怪物の触手が何本も、その防壁に激突し、跳ね返されて、痛そうにうねり舞う。
 怯んだ怪物に向かって、太一は駆け出した。艶やかな黒髪が、蝶の翅を思わせるドレスが、後方になびいた。
「行きます! さっさと片付けましょう!」
(あら、やる気満々なのねえ)
「恥ずかしいから、早く終わらせたいんですっ!」
 長大な触手が、怒り狂う大蛇の動きで襲いかかって来る。
 太一は路面を蹴った。跳躍。蹴られた路面が、触手に殴打されて砕け散る。
 跳躍は、そのまま飛翔に変わった。
 豊麗にして優美な魔女の肢体が、紫のドレスから鱗粉のような光をこぼして散らせながら、軽やかに宙を舞う。
 怒り狂った怪物が、何本もの触手を振り回して太一を襲う。
 見えざる足場があるかのように、夜宵の魔女は、空中で優雅なステップを踏んだ。様々な方向から襲い来る触手たちが、荒々しく空振りを繰り返す。
 回避の舞い。それに合わせて紫のドレスが、鱗粉に似た光の粒子をキラキラと振りまく。
 蝶のように妖精のように軽やかな飛翔を披露しながら、しかし太一の気分は最悪だった。
「空飛ぶって……気持ち、悪いです……内臓が変なふうに揺すられて、うっぷ……」
(翼ある生き物たちは、もっと大変な思いで空を飛んでいるのよ?)
 女悪魔が、説教めいた事を言う。
(まったく、人間はこらえ性がないんだから……まあでも、このくらいでいいかしらね)
 怪物を取り巻くようにまき散らされた光の鱗粉が、輝きを激しくしながら、複雑な形に結合してゆく。
 文字か、数字か、図形か、あるいは絵画なのか。
 とてつもなく奇怪な紋様が、光をインクとして、そこに描き出されていた。
 怪物を中心とする、この辺り一帯を覆う、立体的な光の紋様。
 空中からそれを見下ろし、太一は呟いた。太一の口で、女悪魔が声を発した。
「情報改変……事象を、初期化する」
 紫の瞳が、妖しく輝きを増した。


 象のようなイカのような怪物の存在など、最初から無かった事になった。
 当然、この場では何の破壊も行われていない。
 破壊された自動車の数々、打ち砕かれたコンクリートやアスファルト……そんな光景が、拭い去ったように消え失せていた。
 街が修復された、わけではない。最初から、何も起こらなかったのだ。
 若い母親と幼い娘が、楽しげにお喋りをしながら通り過ぎて行く。
 眼鏡をかけた、いささか若作りをした中年男の姿など、一瞥もせずにだ。
 いつもと変わらぬ、平穏な街並の風景の中で、松本太一は再び歩き出した。取引先の会社へと、急がなければならない。
(私に任せてくれれば、どんな取引だって成功させてあげられるのに)
「貴女の取引相手は……あんな方々ばかりですか」
 最初からいない事にされてしまった怪物の姿を、太一は思い浮かべた。
「悪魔の世界も、大変ですね」
(楽なものよ? だって気に入らない取引相手は、力で排除する事が許されるもの)
「……そのルールを、人間の世界には持ち込まないで下さいね。出来るだけ」
 苦笑しつつ、太一は足を速めた。
 時間厳守が、人間の世界のルールなのだ。