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<東京怪談ノベル(シングル)>


『恵まれた者達』

 白鳥瑞科が戦いに臨む際の、ある種の気配。それは周囲を圧するような殺気ではない。彼女はその決意を下した時に、むしろ奥深く沈む暗い色を纏う人間だった。普段優しげな笑みを連想させる目には今、光を閉じこめ夜を呼ぶような青い瞳が光っている。繊細な生地に包まれた手指がしんと動かずに静けさを縛り、肉付きのいい長い脚は根のような影を床に下ろして、徐々に場を飲み込むように支配していく。
 女は余裕を持った面持ちで瑞科を眺めながらも、どちらが悪魔か分からないと考えていた。それ程、目の前で剣を下に構える修道女の正体は不気味に感じられた。滑らかな首筋も、柔らかな乳房も、張りのある太ももも、次の瞬間には鋭い牙を剥くと分かっているのに、どうしても甘く香り立つ魅力に意識を引っ張られる。数限りない男を虜にしてきた、この貴婦人をしてである。
「あなた人間?」
 再びその言葉が口から出た。瑞科は答える素振りも見せずに、細く息を吐いた。ぷっくりとした唇がすぼまり、そこには艶めかしい皺が出来ていた。
 雷光が走る。だが外の番犬にすら通用しなかったそれを、何故撃つのか。女がそれを理解したのは、瑞科が駆けてからだった。紫電は彼女も含め周りの家具を包み込むと、卓上の古いステンドグラスランプを破裂させた。赤、青、黄、白とガラスのプリズムが空気を裂き、直後、机の影から躍り出た瑞科のロングソードが真一文字に振り払われる。
 金属音がした。刃は素手で受け止められていた。力を込めても、カチャカチャと細かい衝突が繰り返されるだけで一向に押し切れない。見れば、女の手は指そのものが鷹の爪に似た鋭利な刃物になっていて、更に痩せた蝙蝠の翼が身を覆ってきた。両者が離れるとその翼からガラス片が落ちて輝き、破れた上下の服が舞った。
 女は足を組み、胸を張って、優雅に寝そべる格好をしながらほんの少し宙に留まった。顕わになった全身の素肌には色素か体毛か、曲線と鋭角が組み合わされた模様が浮かび上がっていて、突き出された足先はかぎ爪を持つ鈍色の鎧靴のように変容している。降り立った時に胸が揺れて、彼女はわざとらしく股をすりあわせ、恥ずかしげなポーズを取った。すると瑞科のケープとヴェール、更に修道服の胸もとが縦に切れ、服以外は後ろへと落ちた。きつい締め付けを失い弾けんばかりになっているそのバストを見つめながら、女は指を順番に折り曲げ手招きをしている。
「恋愛の真の本質は自由である。これは人が語り継いだ言葉よ。あなたは、あまりにも無知なんじゃなくて?」
 瑞科はやはり答えなかった。代わりに寄って、袈裟に斬った。女はそれを上段蹴りで受け止める。
 返す斬撃を腕で防ぎ、体をひねりながらローキックを振り抜くと、危うく身を引いた瑞科の脛のあった場所が爪に引き裂かれた。その回転を加速させ後ろ回し蹴りを、更に右腕を伸ばし突きを放つ。直線と円運動が織り交ぜられ流れるように繰り出される攻撃は、華麗かつ人間的で、サバットと呼ばれるヨーロッパの格闘術を思い起こさせた。それは単に合理的なスタイルが行き着いただけなのか、それとも彼女の意志であえて演じられているのか、その事を知る生者は誰一人としていなかった。
 徐々に押され始めたのは、瑞科である。得物を使う分だけ彼女はリーチで優ったが、相手は蹴りを主体に反撃しながらも手や翼で身を守れるために、剣一本で攻防を展開する彼女の方が窮屈な戦法を強いられた。その上、今捌いた前蹴りにしても、リングの上では単なる牽制だろうが、あの鋭利な凶器をもし脚部にでも見舞われれば、ただで済まないのは明らかだ。
 しかし、女の防御の仕方から考えても、胴や頭部は人と同じく致命傷に繋がるという確信は得られた。それは十分な情報と言えた。瑞科はミドル、ハイと膝先から連続で放たれた蹴りを弾き後ろへ下がり、左手を前に突き出して力を込めた。青白い血管が額に浮かび、拳が握られる直前、女が飛んだ。瞬間、机がひしゃげ、向こうのガラスが凄まじい音を立てながら全て粉々になった。棚から本がいくつかこぼれ落ち、空中に逃れた彼女も、強い重力に引きずられる形で体勢を崩していた。
 瑞科が跳躍し、武器を振り下ろす。女はそれを両手で止めて下から蹴り上げたが、瑞科の体は剣を中心に前へ宙返りして彼女の視界から消え、直後二人は強く床に衝突していた。
 風を切る音。背中を打ち付けながらもすぐさま身を起こした女は、振り向きざまに唸るように迫っていた一閃を受け止めて、その軽い感触に眉を上げた。眼前の剣、その向こうから走り寄る瑞科のシルエットが流れ動いたかと思うと、彼女の胸にはいつの間にかダガーの刀身が突き立てられていた。そこから歪な光が全身を駆け巡り、世界に火花が散った。そして調子の悪いラジオのような不快な音が身をつんざき、何もかもが真っ暗になった。

「……その子供はどうした?」
「どこを捜しても見つかりませんでしたわ」
「そうか。君はどう考えている?」
「最初からいなかったとも、どこかへ逃げたとも思えます。何とも言えませんが、まだ私達が注視すべき問題ではないかと」
「哀れなものだな」
 神父は口の端を吊り上げた。礼拝室を模した部屋の作りは、ただそれらしいだけの簡素なもので、明確な宗教上のシンボルもなければ明かり窓さえない、のっぺらぼうな場所だった。
「最近、多くありません?」
「何がだ?」
「人間のような、悪魔……」
 頭上では蛍光灯が低く震えるように鳴っている。時計は怯えたように、微動だにしない。
「何故彼女は結婚する必要があったのか? 男達の死はどれも外傷のない安らかなもので、彼女は葬式まで挙げていた。まさか金が欲しいというのではあるまい。恐らく本当だったんだろう。愛していたというのは」
「そう思い込んで、勘違いしていただけですわ」
「……君は人を好きになった事はあるか?」
「それは、もちろん」
「しかし物事の認識が裏返され、自己を見失うような愛は知らない。彼らは幸せだったと?」
 彼女は頭を振った。それは強い決意のようにも見えた。死を与える執行人として、この件に関し猶予なく結論を下さなければならないという責務を、決然と果たしているようだった。
「例えば、目の前の線路に人が倒れている。列車が迫っていて、助けに行けば自分の無事は保証されない。そんな時に、打算的な死というやつが頭にちらつく人間がいるんだ。これは理由としてはもっともだ、とね」
「死に価値などありませんわ」
「生に意味もない。いわんやその集合が作り出したシステムをやだ。三人称が語る亡霊のような観念や構造よりも、二人称が囁く幻想や決めつけの方が、幾分真実めいて思えるのさ。何よりその方が楽だ。楽をするために生き、楽だからまだ生きている。彼らにとって死は堅持してきた物語の終局ではなく、断片的でくだらない意味や意義の中のバリエーションに過ぎない。現在のそれを、突風のように死が上回れば、彼らは呆気ないくらい簡単に選択するよ」
 瑞科はどうしても、この男に好意を持てなかった。けれども神父は今、笑ってなどいなかったのだ。あの冷笑的な態度は身を潜め、全く感情が剥離してしまったような面相をしている。
「何にせよ、君は優秀で、賢い。だから正しい。そして本質的には孤独だ。孤独にならざるを得ない。死んだ男と違うのは、君は絶望に安らぐ事も幸福に酔う事も知らなかったという点だけだ。誰もが君のように冷然として生きられるのなら、世はこともなく回っていくだろうな」
「わたくしには、何かすべき事が?」
「いいや。構わないさ。我々は別に人類愛や魂の解放を説く団体ではないのだから。君は十分に慈悲深い。大多数の者はそう感じるはずだし、人間とは本来それで差し支えないはずだろう?」
 彼女は確かに真面目が過ぎるが、それ故に誰一人として比肩出来ない程の実力を持ち、これまで圧倒的なキャリアを重ねてこられたとも考えられる。その部分に自分如きが関知するのは利益にならないと、神父は判断したのだった。
 だが部屋に戻り一人になると、彼は本部に対し、白鳥瑞科に注意を払うべきとの上申書を作成した。彼にしても、ここに至るまで悩み苦しんだ経験がないわけではなかったが、瑞科のあまりに優秀な能力は、そんなありきたりな心情の揺らぎすらも、無条件に許されるものではなかった。彼は文末に、彼女の存在は組織において至上の財産であると、下線まで引いて書き添えるのを忘れなかった。