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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒衣の天使(2)


 黒豹が、廊下を、壁を、時には天井を、疾駆している。
 そこそこ優れた動体視力を持つ者でも、そのようにしか見えぬであろう光景である。
 立体的に躍動する黒い人影に向かって、何丁もの小銃が火を噴き続けた。
 吹きすさぶ銃弾の嵐の中、漆黒のラバースーツに包まれた肢体が、竜巻の如く翻る。長く艶やかな黒髪が、銃撃をいなすように弧を描いて舞う。
 豊かに形良く膨らんだ胸が横殴りに揺れ、その近くの空間を、小銃弾の嵐が激しく通過して行く。
 ロングブーツを穿いた美脚が、凶暴な銃撃をかわしながら跳ね上がる。
 超高速の回避の舞いを披露しながら、水嶋琴美は跳躍した。そして壁に着地し、続いて天井に着地し、急降下を敢行する。怯え狂って小銃をぶっ放し続ける男たちへと向かって、さながら猛禽のように。
 病院内の廊下に、病院の職員とは思えぬ男たちが群れていた。小銃を携え、防弾装備に身を固めた、恐らくは傭兵の類であろう一団。
 その真っただ中に、琴美は着地した。豊かな黒髪が、ふわりと舞い上がる。
 それと同時に、光が一閃した。
 傭兵の何人かが、真紅の飛沫を首筋から噴出させ、絶命しながら倒れてゆく。
 琴美の両手に左右一振りずつ、大型のナイフが握られていた。
 至近距離から銃口を向けてくる傭兵団へと向かって、琴美は躊躇なく踏み込んで行く。そして彼らに引き金を引く暇を与えず、左右2本のナイフを閃かせる。
 傭兵たちが、赤い霧をしぶかせて1人また1人と倒れていった。
 頸動脈を、あるいは気管を切断する手応えを握り締めながら、琴美は高速で身を捻った。しなやかに鍛え込まれた両脚が、左右交互に躍動し、弧を描く。回し蹴り、続いて後ろ回し蹴り。
 いくつもの小銃が蹴り飛ばされ、何人もの傭兵が徒手空拳の状態に陥った。
 そこへ琴美のナイフが、猛獣の牙の如く襲いかかる。まさに、黒豹の牙であった。
「銃撃を過信なさっておられますのね……いけませんわよ? そのような事では」
 真紅の霧を漂わせ、倒れてゆく傭兵たちに、琴美はにこやかに冷ややかに言葉をかけた。
「白兵戦用の戦力を配置しておくべき、でしたわね」
 そうしながら両の細腕を、優雅に、かつ超高速で舞わせる。
 左右のナイフが幾度も閃き、銃弾をことごとく跳ね返した。焦げ臭い火花が、大量に散った。
 生き残った傭兵たちが、退却を始めていた。我先にと廊下を走りながら時折、琴美の方を向き、小銃をぶっ放す。
 その銃撃を片っ端からナイフで弾きながら、琴美はゆらりと駆け出した。
 逃がすわけにはいかない。敵戦力は、削れる時に削っておかなければならない。
 防御の形に目まぐるしくナイフを操りながら、しかし琴美は立ち止まった。
 前方から、凄まじい熱風が押し寄せて来たからだ。
 炎が、発生していた。
 幸いにと言うべきか、廊下にも壁にも天井にも耐熱材が用いられているのだろう。火災の危険性は少ないように思われる。
 だが、逃げようとした傭兵たちは1人残らず、焼死体と化していた。渦巻く炎の中で、いくつもの人体が焦げ崩れてゆく。
 燃やすものをとりあえず失い、ゆっくりと弱まってゆく炎の向こう側に、か細い人影が立っていた。
「こりゃあ……別嬪な看護婦さんがおるのう……」
 老人だった。この病院の、患者であろう。
 まさに老衰死寸前の痩せ衰えた肉体を浴衣に包み、車輪付きの点滴装置にしがみつき、辛うじて歩行している。
 装置の最上部に取り付けられた容器から、何本ものチューブが伸び、老人の全身あちこちに突き刺さっていた。
 容器の中の謎めいた薬液が、点滴されている。
 この歩く即身仏のような老人が、いかなる手段を用いて傭兵たちを焼き殺したのかは不明だ。
 警戒を解かぬまま、琴美は会話に応じた。
「私、この病院の看護士さんではありませんわ。医療技術など、欠片ほども持ってはおりません……解剖手術の真似事くらいは出来ますけれども、ね」
 優美な五指が、大型のナイフをくるくると回転させる。
「……安楽死なら、させてあげられましてよ? おじいちゃん」
「ええのう……あんたみたいな若くて綺麗な女子に、らくぅに死なせてもらえるんなら……ええのう」
 老人の皺だらけの口が、辛うじて聞き取れる声を発した。
「見ての通りじゃ……もう生きとっても、ええ事なんぞ何にもありゃあせん……息子どもも、わしをこんな所に押し込んで知らんぷりじゃからのう。まあ、死ぬのは構わん……ただ1つだけ、心残りがのう……未練がのう」
 言葉に続いて、炎が吐き出された。
 弱々しく窄まって皺だけになった口から、燃え盛る紅蓮の吐息が噴出したのだ。
 琴美はとっさに、後方へと跳んだ。
 それを追って炎が廊下いっぱいに広がり、傭兵団の屍を火葬してゆく。
 焼死体の生臭さ焦げ臭さが、廊下に充満した。
 琴美は、鼻と口を押さえた。
 火災現場で一酸化炭素中毒の危険に晒されながら活動を行う訓練は、充分に積んでいる。とは言え、あまり長引かせるべきではないだろう。
 後退する琴美を捕えられずに勢いを失い、弱まってゆく炎。
 その向こうから、老人がゆっくりと歩み寄って来る。
「子供の時、空襲に遭うてのう……」
 点滴装置にしがみついて歩く、か細いシルエットが、炎と煙の中でメキッ……と痙攣した。
「わしのおふくろが、アメ公の焼夷弾で焼け死んだのじゃ……わしの、目の前でのう……」
 老衰死寸前の肉体が、痙攣しながら膨張してゆく。
 若返っている……否、人間ではなくなりつつある。どうやら、少しばかり特殊な薬液が点滴されているようだ。
「別嬪な、おふくろじゃった……それが、こう……めらめらジュウジュウとのう……綺麗な顔が、焼けただれていくわけじゃ」
 人間ではないものと化した肉体から、点滴のチューブが、ちぎれるように引き抜かれる。
 もはや老人ではなくなった生き物が、煙を掻き分けて姿を現した。
「死ぬ前に、もう1度だけ……わし、あれが見たいんじゃあぁああ……」
 言葉を漏らす口は、前方に大きく迫り出し、顎の付け根まで裂け、鋭い牙を剥き出しにしながら、チロチロと微かな炎をまとわりつかせている。
 まるで、竜の顔面である。
 痩せ衰えていた肉体は、鋼のような筋肉で膨れ上がりつつ、鉄板の如き鱗で覆われている。
 その姿は、人の体型をした竜であった。
 元々は死にかけの老患者であった竜人が、点滴装置をグシャリとへし折りながら、悲鳴じみた声を発している。
「綺麗な女子が、ジュージューどろどろ焼け死んでゆく様が……見たいんじゃよォオオオオオ」
「……かなり進んでおられる御様子。老人問題ここに極まれリ、ですわね」
 琴美は溜め息をついた。してやれる事など、1つしかない。
「お医者さんごっこと参りましょうか……麻酔なしのオペを、始めさせていただきますわ」