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<東京怪談ノベル(シングル)>


黒衣の天使(3)


 竜人が、炎を吐こうとしている。
 吐かれる前に、琴美は踏み込んで行った。左右2本のナイフを、交互に一閃させる。
 その斬撃が、ガッと止められた。竜人の強固な両手が、2つの刀身をしっかりと掴んでいる。
「さ、さあメラメラじゅうじゅう焼いてくれようかのう別嬪さんやあぁ」
 そんな言葉と共に、竜人の口から炎が溢れ出す……寸前、琴美は捕獲されたナイフを躊躇なく手放しながら、右足を高速離陸させた。長い脚が、下から上へとまっすぐに跳ね上がった。
 ロングブーツの鋭利な爪先が、炎で膨れ上がった竜人の喉元にザクッとめり込んだ。
 ほんの少しだけ炎を吐き散らしながら、竜人が息を詰まらせ、苦しげによろめく。
 間髪入れず、琴美は身を捻った。
 凹凸のくっきりとした見事なボディラインが、螺旋状に捻れる。漆黒のラバースーツに包まれた肢体が黒い竜巻となり、優美な左の脚線が鞭のようにしなった。
 宙を切り裂く回し蹴りが、竜人の喉を直撃する。
 琴美に向かって放たれるはずだった炎を、あらぬ方向に吐瀉物の如くぶちまけながら、竜人は倒れた。捕獲されていた2本のナイフが、廊下に落ちる。
 その片方を素早く回収しつつ、琴美は跳躍し、天井に着地した。
 そして落下が始まる前に、天井を蹴った。
 廊下では、倒れた竜人が起き上がろうとしている。
 起き上がる暇を与えず、琴美は落下・激突していった。全体重を、ナイフ1本に押し付けながらだ。
 そのナイフが、竜人の左胸……心臓に、深々と突き刺さっていた。
 まるで血反吐のような火柱を、口から天井へと向かってボォッ! と一瞬だけ噴出させた後、竜人は絶命した。
「駄目ですわよ、おじいちゃん。そんなお年で火遊びなんて」
 一言だけ声をかけながら琴美はナイフを引き抜き、もう1本のナイフを拾い上げた。
 そして、生臭い火葬の煙に満ちたこの場所を足早に脱出し、病院の奥へと向かった。


 棺桶ほどの大きさの、カプセル容器。それが部屋の中央に据え付けられている。
 その内部では、あの老人に点滴されていたものと同じであろう薬液が、コポコポと調合されていた。
 カプセルの周囲で、忙しく動き回ったり端末をいじったりしていた男たちが、ぎょっと振り向いてくる。
 白衣を身にまとった、恐らくはこの病院の医局員たち。
 戦闘能力など皆無であろう彼らに、琴美はニコリと微笑みかけた。
「本職のお医者様たちが……随分とくだらない、お医者さんごっこをしておられますのね?」
「……侵入者というのは、君か。自衛隊か警察かは知らんが」
 最も年嵩で偉そうな医局員が、言った。
「ちょうど良い。女性の実験材料を、探していたところなのだよ」
「院長、もうやめましょう!」
 1人が、悲痛な声を発している。
「こんな事をして一体何になります! 病める世の中の、何を癒せるとおっしゃるのですか!」
「鬱積したものは発散せねばならんのだ! それがわからんのか!」
 どうやら院長であるらしい年嵩の医局員が、叫んだ。
「人は、恨みを心に溜めてしまうもの。何故かわかるか? 恨みを晴らす手段を持たぬからだよ。人を殺せば殺人罪になってしまうからな……そうして晴らせぬ恨みが、積もりに積もって人の心を病ませてゆく! 世の中が、病んでゆくのだよ。医の道を歩む者ならば、人の肉体のみならず社会に潜む病巣をも取り除かねばならんのだ!」
 先日、会社1つを皆殺しにしてのけた男を思い返しながら、琴美は言った。
「心に鬱積しているものを、人間をお辞めになる事で発散する……そうすると、あのような事にしかなりませんわ。それが、病める人間社会を癒す事になると?」
「健全ではないか。恨みを、痛みを、苦しみを、心に溜め込んだ挙げ句に精神を病み、時には自ら命を絶ってしまう……そのような痛ましい事になるよりも、ずっと健全ではないか!」
 院長の両眼が、この上なく純粋な輝きを放っている。
「恨み重なる相手でも、殺してしまえば警察沙汰になる……ならば警察力をも上回る力があったとしたら、どうだ? 憎い相手を即その場で殺害する、それでスッキリ爽やか! 心に溜まるものなど何も残らない! 世の中が病んでゆくのを予防出来るというわけだ。この薬液によってなあ!」
 言いつつ院長が、カプセル容器をバン! と叩いた。そして何か、微かな操作を行ったようだ。
「あと少し……あと少しの実験で、完成するのだ。官憲の小娘などに邪魔はさせん!」
 カプセルから、濃霧が発生した。
 内部の薬液がブシューッ! とガス状に噴射されたのである。
 琴美はとっさに鼻と口を押さえたが、この薬液ガスが自分の肉体に影響を及ぼすものではない事は、すぐにわかった。
 だが医局員たちは、薬液の濃霧の中で、もがき苦しんでいる。
 彼らの白衣が、裂けた。
 戦闘能力皆無と思われていた理系の細い肉体が、メキメキと膨張してゆく。翼が広がり、尻尾がうねる。
「やはり……女の肉体には、何の効果も表れんか」
 悔しげに呻きながら院長も、人間ではなくなっていた。
 まるで、身体が裏返ったかのようである。全身で臓物が露出し、脈動し、それぞれが独立した生物であるかの如く異形化しているのだ。心臓が眼球を見開き、胃袋が牙を剥き、小腸が蠢いている。
「この薬液はな、どういうわけか男の肉体にしか効かぬ……実験が、実験が足らぬのだ。小娘、貴様自身を献体せよ!」
「謹んでお断りいたしますわ」
 薬液ガスによる視界不良の中、琴美は左右2本のナイフを振るった。
 人外のものと化した医局員たちが、襲いかかって来たのだ。
 翼がはためき、カギ爪がうなり、牙が光る。
 その襲撃の真っただ中で、琴美は黒い竜巻と化した。豊満でありながら引き締まった肢体が、黒髪を舞わせて翻る。その周囲で、2本のナイフが、いくつもの斬撃の弧を描く。
 薬液の濃霧に、黒っぽい体液の飛沫が混ざった。医局員たちはすでに、人間の血の色をも失っている。
 倒れゆく彼らを蹴散らすように、何かが凄まじい勢いで伸びて来た。
 小腸だった。
 先端部で円形の口を開き、細かな牙を生やした、まるで寄生虫のような小腸の群れ。
 院長の下腹部から生えたそれらが、薬液の濃霧のあちこちから現れて琴美を襲う。
 その襲撃を薙ぎ払う形に、琴美のナイフが左右それぞれ別方向に閃いた。
 毒蛇のような寄生虫のような小腸が、ことごとく切断され、暴れながら飛び散ってゆく。
 切断のために振るっていた2本のナイフを、琴美は手放した。投擲。刃の光が2つ、濃密に漂う薬液ガスを切り裂いて飛ぶ。
 そのガスの濃霧が、少しずつ薄れ、晴れていった。
 院長の、剥き出しの脳と心臓にそれぞれ1本ずつ、ナイフが深々と突き刺さっている。
 同じく剥き出しの眼球に、純粋な輝きを宿したまま、院長は絶命していた。
 医局員たちも、人間ではなくなったまま1人残らず屍と化している……否、死にきれていない者が1名いる。
「官憲の、お嬢さん……すまんが、もう一仕事……頼みたい……」
 頸動脈は断ち切られているが、声帯は無事であるらしい。
「この、ガスを……都心で散布する、計画がある……」
「何ですって……!」
 琴美は息を呑んだ。
 医局員の死に際の言葉は、続いた。
「この病院で……最強の生体兵器として調整された者たちが、それを実行するべく都内へ向かった……無論、散布用の薬液を大量に携えてな……」
 医局員の声が、身体が、痙攣している。
「頼む……止めてくれ……こんなもので世の中を救えると……本気で信じていた、私たちが……馬鹿だっ……た……」
 医局員は死んだ。
 琴美は思った。人の心を、取り戻して死ぬ。
 それは院長のように、人の心を失ったまま絶命するよりも、ずっと過酷な死に様であると。