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<東京怪談ノベル(シングル)>


天使の休息


 新品の布地が、サラリと素肌にまとわりついて来る。その感触が、心地良かった。
 優美な肩の丸みが、綺麗な鎖骨が、ブラジャーの豊かな膨らみと深く柔らかな谷間が、純白のブラウスに包み隠されてゆく。
 白に最も良く合う色は、やはり黒だ。水嶋琴美は、そう思っている。
 だからスカートも黒にした。まるで女子高生のような、いくらか短めのプリーツスカートである。
 それを、豊麗な尻回りに巻き付け、締めてみる。
 黒のスカートから、白く瑞々しい左右の太股がスラリと現れ伸びている感じが、琴美は気に入った。
「良い感じ、ですわね……これにいたしましょうか」
 決めつつ琴美は、コートに近い大きさの、黒いジャケットを羽織った。その上から青いストールを巻く。
 頭にベレー帽を載せてみると、なかなかに知的な感じになった。
「私、根は体育会系なのですけれども……ね」
 苦笑しつつ琴美は、鏡の前で1度だけ身を翻した。
 白と黒の取り合わせに、青いストールが果たして合っているかどうか、いくらか不安ではある。自分の目では、本当にはわからない。
 街を歩いてみるしかないだろう、と琴美は思った。
 試着室を出ると、店員が絶賛してくれた。商売人が客を誉めるのは、まあ当然ではある。
 支払いを済ませ、店を出た。
 休日である。
 街には、人が溢れている。若者ばかりではなく親子連れも多い。
 琴美の傍らを、若い夫婦が通り過ぎて行った。子供が、2人いる。
 上の子は、ようやく歩けるようになった年齢の男の子。父親と手を繋ぎ、よちよちと少し危なっかしい足取りで歩いている。まだ若者と呼べる年齢の父親が、小さな手を握りながら心配そうにしている。
 下の子は、まだ性別も定かではない赤ん坊だ。若い母親に抱かれ、だぁだぁと微かな声を発している。
 明るく笑い合う父親と母親を、ちらりと盗み見ながら、琴美は考えた。
 まだ恋人同士の関係が続いているかのような、この幸せそうな夫婦も、自宅では喧嘩をする事があるのだろうか。
 妻は夫に対し、夫は妻に対し、日々の小さな恨みを鬱積させていたりするのだろうか。
 その鬱積こそが、人間社会の病巣となる。あの院長は、そんな事を言っていた。
 もしも今、あの薬液ガスがこの場に散布されたとしたら。
 例えば、この若い父親はおぞましい怪物と化し、妻と子供を惨殺するかも知れない。
 日頃の様々なものを鬱積させている人々が、街の至る所で人間ではなくなり、殺戮を始めるだろう。
 他人から見れば取るに足らぬ、小さな恨みつらみを鬱積させ、やがて心を病んでしまう。それは確かに、不健全であるのかも知れない。
 鬱積したものを発散させ、結果として人を殺す。ある意味それは、健全な事であるのかも知れない。
「……健全ならば良い、というものでもありませんわね」
 至極当然の面白みのない結論に達し、琴美は苦笑した。
 世間の人々は皆、些細な恨みつらみを鬱積させながら発散させる手段を持たず、それに耐えながら暮らしているのだ。
 確かに、心のどこかを病む事にはなるかも知れない。それが社会の病巣と呼ぶべきものに成長してゆく事も、有り得るだろう。
 人間社会が病巣を抱えているのは、しかし当たり前なのだ。人の世は、無菌室ではないのだから。
 雑菌だらけの、当たり前の世の中を守る。琴美の仕事は、そのためにある。


 蒲焼きにした鶏肉、というのが最も近いであろうか。
 甘辛いタレが、肉汁と溶け合って口内に広がってゆく。それが心地良かった。
 臭みのない、柔らかな肉。舌触りも歯応えも、最高である。
「美味しい……」
 琴美は思わず、そんな捻りのない感想を漏らしてしまった。
「度胸試しのようなお料理かと思っておりましたけど……これは、素晴らしいお味ですわ」
「そうでしょう、そうでしょう」
 店主が、ニコニコと笑っている。
「昔の日本人は、普通に食べていたんですよ。牛や豚なんかよりも飼うのに手間かからないし、コツさえ掴めば割と簡単に捕まえられるし」
 そう言って店主が掲げて見せたガラス容器の中で、何匹かの毒蛇がシャーシャーと牙を剥いている。
 彼らの仲間の1匹が今、甘辛く味付けされ、琴美の眼前の皿に盛り付けられているのだ。
 都内の、少し変わったものを食べさせてくれる店である。
「ふふっ……美味しくいただいておりますわ」
 怒り狂う蛇たちに、ガラス越しに微笑みかけながら、琴美は箸を動かした。箸が、止まらなかった。
 いくつか一緒に盛りつけられている、小さな球体状の料理を、口に入れてみる。噛み潰すと、何とも言えぬ濃厚な味がトロリと舌の上に流れ出して来た。
 蛇の、卵である。
 人間ならば胎児を食らうようなものだ、と思いつつも、琴美はうっとりと呟いた。
「爬虫類って、素晴らしい食材ですのね……」
「本当はね、蛇の血と内臓の入った食前酒なんてのがあるんですよ。お客さんが未成年じゃなければ、お出し出来るんですけどねえ」
「来年の楽しみにしておきますわ」
 酒に合うのかどうかはわからない蛇肉料理を堪能しながら、琴美は思う。
 恐ろしい毒蛇も、適切に調理すれば美味しく食べる事が出来る。だが自分が常日頃、相手にしている者たちは、煮ても焼いても喰えない輩ばかりであった。
(食べられないお肉は……廃棄物として処分するしか、ありませんわね)
 明日からはまた、この世の廃棄物を処分する仕事が始まるのだ。