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翡翠の瞳は闇を射貫く
「殺人事件……ですか?」
若きビジネスマン黒崎は、少なくとも表のビジネスではあまり用いられない単語を口にしていた。
『被害者は独り暮らしの老婆。犯人は、食い詰め者の強盗だ』
スマートフォンの向こう側で、黒崎の上司が淡々と語る。
『その老婆の所有物で、最も高価な品物が奪われた。翡翠の細工物だ。老婆は、それを奪われまいとして強盗に殺されたらしい』
「大切な物だったのでしょうねえ。痛ましいお話です。が……それは警察の仕事ではないのですか?」
『警察の出る幕は、すでに終わっている。何しろ犯人はもう死んでいるのだからな』
街中である。黒いスーツに細身を包んだ若い男が、スマートフォン相手に会話をしている様は、若手のビジネスマンそのものであった。
眼鏡で知的に彩られた顔立ちは、ほっそりと秀麗で、いかにも切れ者といった感じである。
『問題は犯人ではなく、奪われた翡翠細工の方なのだよ』
「曰く付きの品、というわけですか」
『怪物と化した。老婆の怨念と言うか、翡翠への執着心によってな……当然、奪った強盗本人が第1の犠牲者となった』
「第2第3の犠牲者が?」
『すでに10人近くが殺されている。その被害者たちの共通点は、翡翠の色……煌めくような緑色の品物を全員、何かしら身に付けていた』
「翡翠の色に執着する怪物、ですか……」
『緑系統の宝石の、例えば指輪をしていた者は腕をちぎり取られている。イヤリングを付けていた者は、首を刎ねられている。そんな具合だ』
「その怪物の外見は、判明しているのでしょうか」
『黒衣をまとう人間の姿をしている。その両眼に翡翠の輝きを残した、人型の魔物だ』
「討伐対象の外見的特徴は、黒衣に翡翠色の瞳……ですね」
『健闘を祈る』
もちろん、健闘だけで許される仕事ではない。
黒崎は、軽く眼鏡を弄った。その下で、切れ長の両眼がキラリと緑色に輝く。
黒崎が、黒鷺に戻る時が来た。
洋館と言うほど大層な造りではないが、なかなかに立派な洋式住宅。住人が生きていた頃は、そうだったのだろう。
今は、荒れ放題の廃屋である。
その中に、黒い人影がフワリと踏み入った。
細い身体を包むスーツは黒。髪も黒。サングラスも黒。
それら黒色と鮮烈な対比を成す、白く端正な顔が、廃屋の内部を油断なく見回している。
「黒衣に、緑色の瞳……ね」
討伐対象の外見的特徴に関しては、そのように聞いている。
IO2の任務として彼……フェイトは今、ここにいた。
緑色に執着する怪物がこの廃屋に潜んでいて、時折、外に出ては殺人を繰り返しているらしい。
IO2が掴んだ情報によると、その怪物を生み出した原因は、この洋式住宅で独り暮らしをしていた老婆が犠牲者となった、数ヶ月前の強盗殺人事件であるという。
「まったく人間の怨念ってのは、悪魔や妖怪の類よりもタチ悪いよな……」
呟きながらフェイトは、廃屋内の埃っぽい暗闇のあちこちに拳銃を向けた。
人間ではないものの気配は、確かにある。敵がどこから襲いかかって来ても、おかしくはない。
その気配が突然、強まった。
ばさっ……と、羽ばたきの音が聞こえたような気がした。
フェイトは振り向き、銃口をそちらへ向けた。
窓が、開け放たれている。最初から開いていたのかどうか、フェイトは記憶が定かではなかった。
とにかく、やけに明るい月光が、荒廃した屋内に降り注いで来ている。
その月明かりの中を、何枚もの黒い羽が、ふわふわと舞っている。
「……動くな」
拳銃を構えたまま、フェイトは声をかけた。月光を浴びて窓辺に佇む、黒い人影にだ。
細くしなやかな長身。艶やかに黒光りするロングコートに、同じく黒色のレザーパンツ。闇そのもののような黒髪。
死神。フェイトはまず、そう感じた。
だが黒髪に囲まれた顔は、剥き出しの頭蓋骨ではなく、細面の秀麗な美貌である。
知的な眼鏡の下で、両眼が炯々と緑色に輝いている。翡翠の色だった。
「動くな……と、おっしゃいますか」
翡翠の瞳の死神が、冷笑した。
「動かずにいれば、撃たずに済ませていただけるのでしょうか?」
「……ごめん、それはない」
フェイトは答え、サングラス越しに死神を見据えた。
見ただけでわかる。この男、人間ではない。そして黒衣。緑色の眼光。
「俺は、あんたを撃たなきゃならない。動くなとか言う前に撃っとけって話だよなっ」
躊躇なく、フェイトは引き金を引いた。
対霊用の処理を施されたマグナム弾が、銃口から立て続けにぶっ放される。
死神の周囲で、火花が散った。
目に見えぬ防壁のようなものが、銃弾を跳ね返している。
全く目に見えないわけではなかった。フェイトの動体視力ならば、辛うじて視認出来る。
蛇のようなものが死神を取り巻き、超高速で螺旋状にうねり、宙を泳ぎ、フェイトの銃撃をことごとく弾き返しているのだ。
鞭であった。
死神の右手が、まるで生きた毒蛇の如く、鞭を操っている。
その鞭が、防御から攻撃へと動きを変化させた。
目視出来る攻撃ではない。肌で感じられるものに従って、フェイトはとっさに身を反らせた。
眼前で、衝撃が弾けた。
サングラスが、砕け散っていた。
「…………ッ!」
フェイトは白い歯を食いしばり、うっすらと目を開いた。砕けたのはサングラスだけで、眼球に傷を負ったわけではない。
無傷の両眼が、緑色の瞳が、死神を睨む。
その眼光を眼鏡越しに受け止めつつ、死神は言った。
「翡翠の色の瞳……間違いはないようですね」
「安物のサングラスだったけど……けっこう気に入ってたんだな、これがっ」
会話をしつつ、フェイトは引き金を引いた。
対霊銃弾が、死神に向かってフルオートでぶっ放される。
そして火花となった。
1本の鞭が、まるで何匹もの蛇の如く、死神の周囲で縦横無尽に空気を裂き、銃弾を叩き落としている。
そんな鞭の乱舞に合わせ、死神は長身を翻した。ロングコートの裾が、ふわりと弧を描く。
光が飛んだ。
とっさに、フェイトは身体を揺らした。光が眼前を通過し、後ろの壁に突き刺さった。
投擲用の、短剣だった。
右手で鞭を操りながら、死神は左手を振るっている。
いくつもの光が飛んだ。銃撃の返礼とばかりに、何本もの短剣が投擲されていた。
「くっ……」
念動力を使う暇もなくフェイトは、それら短剣に銃撃で対応するしかなかった。迫り来る光たちに銃口を向け、立て続けに引き金を引く。
両者の間の空間いたる所で、銃弾と短剣がぶつかり合い、焦げ臭い火花を飛び散らせる。
フェイトが短剣を撃ち落としている間、防御の役割から解放された鞭が、攻撃へと転じた。超高速で宙を裂き、毒蛇の如くフェイトを襲う。
埃の積もった床に、フェイトは転がり込んだ。スーツの汚れを気にしている場合ではなかった。
直前までフェイトが立っていた辺りで床が砕け、木屑と埃が一緒くたに舞い上がる。
鞭と短剣による、攻防一体の戦闘技術。
長きに渡る過酷な訓練と実戦経験でしか、身に付かないものだ。
この死神のような男の、激烈な攻撃と完璧な防御に、フェイトは血の滲むような訓練を感じ取った。死と隣り合わせの実戦の積み重ねを、感じ取った。
(俺と……同じ?)
床を砕く鞭をかわして2度、3度と転がった後、フェイトは片膝をついて身を起こし、拳銃を突き付けた。死神の懐に、達していた。
黒いロングコートをまとう長身。その鳩尾の辺りに、銃口が押し当てられている。
射殺される寸前の死神が、冷静な声を発した。
「……何故、引き金を引かないのですか?」
「……あんたが、とりあえず思いとどまってくれたみたいだからな」
死神の左手に握られた短剣が、フェイトの首筋にピタリと当てられている。
戦いを続けていたら、フェイトの銃が死神の鳩尾を撃ち抜いていたか。あるいは死神の短剣が、フェイトの頸動脈を切断していたか。
どちらの事態も起こらぬまま、2人の会話は続いた。
「お互い、間抜けな勘違いをしてた……って事かな」
「貴方の動き……生まれつきの能力のみで暴れる、魔物のそれではありませんね。訓練と実戦で身に付けたものです」
フェイトと同じ事を、この死神も感じていたようである。
(生まれつきの、化け物みたいな力……一応ある事はあるんだけどな)
心の中で呟きつつフェイトは、死神の鳩尾から銃口を離した。そして問う。
「俺はフェイト……死神さん、あんたの名前は?」
「死神、ですか。一応、福の神なのですがね……黒鷺と申します」
少し傷付いたような口調で名乗りながらも黒鷺は、フェイトの首筋から短剣を遠ざけてくれた。
福の神というのは何かのコードネームか。フェイトはそう思ったが、口に出したら、この黒鷺という男をさらに傷付けてしまうような気もした。
そんな事よりも、人影が1つ、そこに出現していた。
スーツかコートか、あるいはマントやローブの類か、とにかく黒衣に身を包んでいる。
顔は、よくわからない。暗黒の中で、両目だけが爛々と緑色に輝いている。翡翠の色だった。
「続けなさい……戦いを、続けなさい……」
それが声を発した。老婆の声だった。
「戦っている、貴方たちの瞳……どんな翡翠よりも綺麗な緑色に輝いて、とても素敵よ……私に、ちょうだぁああああああい」
黒衣の袖から、緑色の光が伸びて、カギ爪の形を成した。
その光の爪が、凄まじい速度で斬り掛かって来る。銃を構える暇さえ与えてくれない高速度である。
フェイトは、後方に跳んでかわした。緑色に輝く斬撃が、眼前を激しく通過する。
それを見据えながら、フェイトは着地した。着地した足が、よろめいた。
勘違いの戦闘で、体力を消耗し過ぎた。
よろめくフェイトを、緑色のカギ爪が立て続けに襲う。
いや。その襲撃の動きが突然、止まった。
黒衣の怪物の全身に、幾重にも鞭が絡み付いている。
動きを封じられた怪物に、フェイトは落ち着いて銃口の狙いを定め、引き金を引いた。
残り少なくなっていた対霊マグナム弾の全てが、緑眼の怪物を撃ち抜いた。
微かな悲鳴が聞こえた、ような気がした。
鞭が、黒鷺の手元にシュッと戻ってゆく。
黒衣・緑眼の怪物の姿は、消えていた。
床に、小さな翡翠の天使像が転がっているだけだ。
フェイトは息をつき、それを拾い上げた。黒鷺が声をかけてくる。
「……それを、どうするのです?」
「知り合いに、アンティーク・ショップやってる人がいるんでね。預かってもらおうと思う」
「災いの根源となった品物は破壊すべきと思っていたのですが……まあ、とどめを刺したのは貴方です。お譲りしましょう」
「助かったよ、福の神さん。いつか借りを返したいな」
「私はただ、共闘という手段が最も効率的であると判断しただけです」
冷然と言い放ちながら黒鷺は、フェイトの傍らをすたすたと通過して、窓辺へと向かった。
翡翠色の瞳が、ちらりとだけ振り向いてくる。
「安物のサングラス……弁償いたしましょうか?」
「……いいよ。経費で落とすから」
「ほう、落ちるのですか」
「落としてみせるさ」
片手でくるりと拳銃を回しながら、フェイトは振り返った。
黒鷺の姿は、すでになかった。
月光の中、何枚かの黒い羽が、ふわふわと舞っているだけである。
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