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バレンタインの悪夢
2月14日――そう、言わずもがなバレンタインデーである。
起源としてはローマ時代にまで遡らなくてはならないのだが、兵士の結婚を「士気が下がる」という理由で禁じていた当時の王政の最中、密かに兵士達の結婚を認めていた神父が聖人となった日である。
今となっては、健全なる男子諸君が分かりやすい程にチョコを意識し、それをもらうだけで大喜び出来る日であるが、それは彼女には関係のない話である。
淡い水色の髪を揺らした、小さな少女。何処か眠たげな青みがかった黒い瞳をした少女だ。
――そんな少女が、突如としてこの『草間興信所』の扉を叩き、中へと現れた事に、草間 武彦の心は何故か言い知れぬ警鐘が鳴っている様な錯覚に陥った。
「それで、どういう用件だ?」
何処か身構える様な態勢で、武彦は向かい合った少女――アリアを見つめて口を開いた。
「武ちゃん、今日何の日か知ってる?」
開口したアリアの言葉に、武彦は少しばかり安堵した。
そう、アリアも女の子だ。バレンタインデーともなれば、義理チョコで普段の感謝を告げようという女の子らしい発想に行き着く事もあるだろう。
そんな事を考えながらも、武彦の心の危険察知のボルテージは徐々に降下していく。
「バレンタインデーだろ? なんだ、アリア。わざわざ用意してくれたのか?」
コクリと頷いたアリアに、武彦は小さな笑みを浮かべた。
――その直後、武彦の顔は青白くなった。血の気が引いた、などという比喩的な物ではない。氷漬けにされ、そのまま固まったからである。
「はい、バレンタインのチョコ……」
悪びれる様子もなく、そして嘲笑う事もなく。アリアは武彦の手にチョコレートを握らせようと手渡すが、それは握られる事もなく落ちてしまう。そこでアリアは、チョコレートを氷によってその手に強制的にくっつけ、満足気に一度だけ頷いた。
「お、おおおおお兄さんッ!?」
来客を知ってお茶を入れて裏から出てきた零が、その様子を見て慌てて武彦とアリアに駆け寄った。
「ど、どうしたんですかッ!? 何でお兄さんが氷漬けにッ!?」
「今日はバレンタインデー、だよ?」
「それとこれに何の関係が!?」
「だって、大事な人に感謝してチョコを贈る日だって聞いたの」
キョトンとしたアリアに、零の血の気が引いていく。
アリアとしては、感謝とは『氷漬けの祝福』という個人的には最大級のお祝いであり、その『祝福』を与えた上でチョコを与えている、というのが動機――もとい言い分である。
その言い分を察した零が、たじたじと後方に歩み、小さく嘆息しているとアリアが手を伸ばした。
氷漬けにされる。そんな予感がした零だが、その手はただ小さな拳を作り、何かを差し出す様に手を出しているだけであった。
「おすそわけ」
「え、あ……。ありがとう、ございます……?」
動揺したままチョコを受け取った零が感謝を述べると、アリアはクルっと振り返ってその場を立ち去った。
呆けてしまった零は、ようやく我に返って手渡されたチョコアイスを見た後で、再び武彦を見つめた。
「……って、戻して下さい、アリアちゃーーん!」
零の悲痛な叫び声は虚しくこだまするのであった。
――悪意のない悪はタチが悪い。そんな言葉を聞いた事はないだろうか。まさにその権化こそが、今のアリアそのものであった。
「お、アリアちゃん! バレンタインデーのチョコでもくれるのかい!?」
「うん、あげる」
「あっはっはっ! そいつは嬉し――」
肉屋の男然り。
「あら、アリアちゃん。今日はお買い物?」
「バレンタインデーのチョコあげてるの。おばさんにもあげる」
「あら、ありが――」
花屋のおばさん然り。
「あ、アリアちゃ――」
近所の子供然り、である。
正に問答無用で凍らせ、チョコを配っていくその姿。それを遠巻きに見つめていた人々は、アリアをこう呼んだ。
――バレンタインの悪魔、と。
こうしてアリアに声をかけた者、かけられた者が次々と氷漬けにされていくその姿に畏怖した人々は、どことなく甘い香りに満ちた商店街を駆け抜けて脱兎の如く駆けて行く。
蜘蛛の子を散らすように閑散としてしまった商店街を見つめ、アリアは静かに足を止めて考えこむ様に小首を傾げた。
次の標的――もとい、他にお世話になった人や知り合いはいないだろうか、と考え込んでいるのである。
「……あ、そうだ」
何かを思い出したアリアは、迷う事なく歩き出した。
◇◆◇◆◇◆
エヴァ・ペルマネントは風の様に走り抜ける。
時折背後をチラっと確認して、驚愕に表情を歪めたその後、再びそのスピードを上げている。
――そう、彼女は現在、盛大に逃げの一手を選ばざるを得ない。
どうしてこうなったのか、彼女は考える。
―――
――
―
つい先程の事だ。
自分達の仲間にしようと画策しているアリアを見つけ、いつも通りの余裕を振るまいつつ声をかけたのだ。
「あら、アリア。こんな所に自分から出て来て……。私に何か用でもあったのかしら?」
やはりアリア――氷の女王を始祖とする者は人間とは相容れない関係だったのだ。そんな事を確信したエヴァは、クスクスと笑みを浮かべる様にアリアへと近づいた。
「味方になる。そう決意したのかしら?」
そんなエヴァの言葉に、アリアはキョトンと小首を傾げた。
読みが違ったのかとエヴァは逡巡するが、それでもわざわざ会いに来たという事は、何かしらの思惑があるのだろう、と勘ぐるのは無理もない。
「違うの? だったら何の用かしら?」
「えっと……、お礼?」
「お礼?」
相変わらずのアリアのマイペースぶりに心を乱されたエヴァが、アリアと同じ様に首を傾げる。
――その直後、エヴァの背筋をチリチリと焦がす様な気配に慌ててエヴァが飛び退くと、自身の立っていた場所が青い氷の世界に豹変した。
「受け取って。私の祝福……」
「――ッ、そういう事ね……。つまり、『お礼』をしに来たのね……」
「そう。今日はバレンタインデーだから」
「こんな日だからこそ、赤い花で染め上げようって訳ね……!」
完全なる勘違いである。
しかし勘違いも何も、そもそも口数の多い方ではないアリアにとって、そんな事を意に介す必要はない。
唐突な攻撃に態勢を崩されたのはエヴァの方であった。
『お礼』。つまり、自分達――虚無の境界に対する『お礼参り』だと勘違いしたエヴァは、一旦態勢を立て直そうとその場から離れようと試みる。
しかし、アリアがそれを許さないかの様に、ひたすらにエヴァを追い始めたのである。
―
――
―――
事の発端が勘違いであると気付いていないエヴァは、唐突に現れた『敵』に対して反撃するべきかとも考えたが、何しろアリアの能力そのものは規格外である。
下手に近付こうものなら凍結され、立ち止まろうものなら餌食となるだろう事はエヴァにも容易に想像出来る。
だからこそ、エヴァはこうして逃げの一手を選んでいるのだ。
「しまった……ッ!」
アリアの攻撃を避けながら逃げている内に、行き止まりの路地へと追い込まれたエヴァ。慌てて引き返そうと振り返ると、そこには息一つ乱してすらいない、アリアの姿があった。
「捕まえた……」
もはや、どっちが悪なのか理解に苦しい所であるが、満足気にそう呟いたアリアにぞくりと嫌な感覚を感じたエヴァは、起死回生に攻撃を仕掛けようと転じる。
「あまり舐めないで!」
「……? 舐めたら美味しいから、ちゃんと舐めてね」
何を言っているのか、と混乱に近い思考を巡らせたエヴァであったが、アリアの右の袖から、突如半液状の粘液の様な、白い何かが放たれる。
慌てて避けながらエヴァが間合いを詰めようと試みるが、今度は左の袖から先程と同じ物。しかし今度は色が濃い茶色をしている。
左右から白と茶色の濁流に襲われ、逃げ道を失ったエヴァが驚愕に目をむくが、アリアがそれを操ると、たちまちエヴァをその二本の何かが覆い、身体を飲み込もうと激しくうねる。
「――ッ!!?」
エヴァの身体を飲み込んだそれらは、アリアの袖に引き込まれる様に左右に白と茶色が戻っていく。
濁流に呑まれたエヴァ。その場所に立っていたのは、見事に茶色にコーティングされたエヴァの姿であった。
「ちょこばにらあいす……。おすそわけだよ」
アリアがそう呟き、先程の武彦の時と同様に満足気に頷く。
いくら2月とは言え、こんな場所に置いていれば溶けてしまうだろう。そう考えたアリアは、エヴァを中心に、周囲を冷気によって覆い、一面を氷の世界に変え、簡易の冷凍庫を作り上げると、もう一度深く頷き、サムズアップをして踵を返した。
◆◇◆◇◆◇
「――……そう。そんな事をしてきたのね〜」
家に帰って来たアリアに、事のあらましを聞いたアリアの母は、どこか困った様子でそう呟くと、アリアの事を見つめて苦笑した。
「うん。でも大丈夫、死ぬ前に溶けるから」
満足気にそう答えるアリアだが、アリアの母としては少々困惑するばかりである。
凍らせてはいけない、とは言ったものの、それでも凍らせてきた娘。しかし命に別状はないという。約束は破ったものの、配慮は欠かしていないのだ。
――つまり、差し引きとしてはゼロに等しい。
判断に困っていたアリアの母だが、無表情ながらも何処か満足気な娘を見て、「まぁ良いか」と及第点を与え、アリアの頭に手を置いた。
「楽しかったみたいで何よりね」
「うん」
バレンタインの悪夢。
それは、彼女と関わった者達の中でのみ、密かに囁かれた恐怖の記憶である。
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ご依頼有難うございます、白神 怜司です。
バレンタインの暴走でしたが、お楽しみ頂ければ幸いです。
ホワイトデーすら通り越してしまいましたが、
お届けが遅くなり、申し訳ありません。
こんなバレンタイン、私はさすがにお断りしたい所ですねw
それでは、今後もまた
機会がありましたらよろしくお願い致します。
白神 怜司
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