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<東京怪談ノベル(シングル)>


Night Walker〜想う心〜

 チクショウ。
 温くなったビールを呷って、草間武彦は毒づいた。
 シシャモの焼ける香ばしい匂いが、立ち並ぶ雑居ビルの合間を流れて草間の虚しさを更に煽る。
 たかがシシャモ。
 されどシシャモ。
 草間の朝飯からメザシが1匹少なくなる事はあっても、この北海道産本シシャモが出て来る事は決してない。
「炭まで指定するとか、どんだけグルメなんだよ、あの贅沢子猫は」
 いや、と草間は眉を寄せて考え込む。
 子猫は人ではない。魂喰い、鷹の翼を持つ漆黒の獅子が本来の姿である。まぁ、シシャモが好きなのは認めよう。カラフトシシャモは別物と主張しているわけだし、本シシャモを好むのも許容しよう。しかし、焼く炭にまで拘る美食家っぷりは元々の性質なのだろうか。
 否である、と草間は自分の中でそう結論づけた。
「アイツの側にいて口が肥えたに違いない」
 つまり、今、彼の懐を寒からしめているのは、飼い主の影響によるものだと言えよう。
「ったく、しつけっつーのは大事なんだぞ。いいモンばっかり食わせてると、キャットフードとか食べなくなって、後々苦労する事に‥‥いや。今苦労しているのは俺か‥‥」
 ぼやいた草間の上に影が落ちた。
 ちりんちりんと響く、澄んだ鈴の音。
 子猫だ。
「‥‥出たな」
「こんばんわ♪ 武彦ちゃん」
 草間の隣へと降り立つと、子猫‥‥千影はふんわりと広がったスカートの裾をちょんと摘まむと、軽く膝を曲げた。
 彼女の頭上にくっついているうさぎの垂れた耳がゆらゆら不規則に揺れる。恐らくは、うさぎなりに挨拶をしているのだろう。
「ん〜、今日も美味しそうだねっ」
「おー」
 気の無い素振りでひらと手を振ると、千影は慣れた手つきで彼女専用の皿にシシャモを移す。この皿、最初は可愛げなんて欠片もない紙皿だったのだが、今では草間が何処かで買って来た、猫の絵柄が愛らしい彼女専用のものにグレードアップされた。
「いただきますっ」
 行儀よく手をあわせてから、はふはふとシシャモを頬張った千影に草間の目がきらりと輝く。
「よし、食ったな!? 間違いなく食ったな!?」
「んにゃ?」
 齧りかけのシシャモを手に、千影は首を傾げた。
 そんな千影に、草間は程良く焼けたシシャモを指し示し、にたりと笑う。
「なあ、チカ。‥‥うまいか、そのシシャモ」
「うん。おいしいよっ♪」
 そうかそうか。
 草間は何度も頷いた。
「けどな、世の中、ただで美味いモン食える程甘くはないんだよ。‥‥さあ、食った分、きっちり働いて貰おうか」
「武彦ちゃん、悪い顔になってる」
「やかましい! いいから、さっさとこの地図の場所に行って来い!」
 地図と一緒に突き出された小瓶に、千影は怪訝そうに瞬きを繰り返す。
「あれ? これって零ちゃんと‥‥」
 物問いたげな千影の視線に答えずに肩を竦めると、草間はどこか陰鬱そうに煙草に火をつけたのだった。


「どうしてここなのかなぁ。それに、これも」
 すっかり葉桜となった桜の木を見上げて、千影は呟いた。
 この木の下で泣いていた少女。
 そして、薄いピンク色した甘い甘いジャム。
 経緯は零から聞いたとしても、草間がこの場所に行けと言った理由が分からない。
 辺りを見回してみても、何もない。
 千影はぷぅと頬を膨らませた。
「もー! チカだって暇じゃないのに! 武彦ちゃんのいじわるーろりこんー」
 主が聞いたら眉を顰めそうな悪口雑言を思い付く限り並べながら、桜の木の周囲をぐるぐると巡っていた千影は、ふと何かの気配を感じて立ち止まった。
 悪い気配ではない。
 けれども、雨が降る直前の空を見上げた時のような気分になる。
「?」
 気配の元を探していた千影は、ふと思い立って桜の木の根元に座り込んだ。
 そうしていると、それまで見えなかったものがうっすらと見え始める。
「‥‥この場所に残された想い? 前はなかったよね?」
 笑いかけてくる女の姿に首を傾げると、千影は口元を引き上げた。
「でも、武彦ちゃんが行けって言ったのは、これを狩れって事だよね。なら、すぐに‥‥」
 差し伸べられた手に、鋭い爪を隠した手を重ねかけて眉を寄せる。存在さえも不確かな幻のような女から、ふと香った生者の気配。触れた指先から流れ込んで来る残像は舞い散る桜、そして幼い少女の笑顔。
「‥‥」
 不意に動きを止めた千影を、女性は不思議そうに見つめた。
ーどうしたの?
 女の口が動く。
 けれども、声は聞こえない。
「‥‥チカね、探し物は得意なんだよ」
 ひらりと身を翻すと女の傍らを抜け、うっすらと白み始めた空の下を何処か目指して駆け出す。
 やがて。
 街を離れ、人が造ったモノが数を減らしていった先に、その建物はひっそりと佇んでいた。
 とん、と降り立ったのは、フラワーボックスと呼ぶ方がしっくりと来る程に狭いバルコニー。室内へと続く戸は閉ざされていたけれど、千影には障害にもならない。
 部屋の中には、1人の女性が眠っていた。
 痩せこけた頬、眼窩も落ちくぼんで影を濃くしているが、あの桜の木の下にいた女と良く似てる。
 覗き込んだ千影の気配に気づいたのか、女性は薄く目を開いた。
「看護婦さん? 今、懐かしい夢を見ていたんです」
 掠れた、弱々しい声。
 千影は頭上で耳を揺らすウサギに視線を向ける。
 千影と「同じ」である弟分も、きっと感じ取っているだろう。
 女性の命が尽きかけている事を。
 魂を狩れば、この女性は安らぐのだろうか。
 その為に、草間は千影に「行け」と言ったのだろうか。
 そっと、女性へと手を伸ばす。
 幻の時には完遂出来なかったけれど、今ならば。
 指先が微かな命の脈動を刻む首筋に触れる寸前、彼女は再び口を開いた。
「ご近所のお寺に娘と桜を見に行って、八重の綺麗な花弁を頂いてジャムを作るんです。‥‥毎年のことだったのに、今年は‥‥」
 ジャム、という単語に、ポケットの中を探る。
「娘はがっかりしてるかもしれません‥‥。いえ、娘はきっと私を怨んでいます。自分を捨てた母親だと‥‥」
「どうして、捨てたの?」
 女性は目を閉じた。
「‥‥知られたくなかったんです。娘に。どうせ悲しい思いをさせるのなら、憎まれた方があの子にとってもいいと思うから」


 屋上の手すりにもたれながら、草間は千影を横目に見た。
 いつもならば焼き過ぎは駄目とか、でも焦げ目は必要とか注文をつけて来るはずの千影は、先ほどからむすっと黙り込んで膝を抱えている。
「チカ、ご褒美焦げちまうぞ?」
「‥‥ねえ、武彦ちゃん」
 こん、と靴先で七輪を突っつく。振動で崩れた炭が小さく火の粉をあげた。
 それを見ながら、千影は続けた。
 いつもの彼女らしからぬ、小さな声で。
「チカ、わかんない。あの人は結局身勝手で」
「チカ」
 くしゃり、と草間の手が千影の髪を撫でた。
「何が正解なのか、本当は誰も分からないんだ。子に自分の死を知らせたくないと思う母親の気持ちも、母親に会いたいと思う子の気持ちも、誰かにとっては正解で、誰かにとっては不正解になる」
「‥‥わかんない」
 膝に顔を埋めた千影に、草間は微笑んだ。
「それも不正解だな。本当は、もう分かってるだろ?」
 だから、彼女は安らかな眠りを得た。
 千影に魂を委ねるのではなく、思い出のジャムを傍らに、子を想いながらの静かな眠りを。

 それで、よかったんだよ。
 いつになく優しい草間の声に、千影は小さく小さく頷いた。