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<東京怪談ノベル(シングル)>


魔性顕現


 友達は、多い方ではない。昔からそうだった。
 ただ最近は、取引先の重要人物に気に入られたりする事が多くなった。
 今日もそうだ。接待相手であるはずの社長に大いにおごられ、飲まされた。
『あの社長さん……絶対、貴方のこと狙っているわよ』
 頭の中で、女悪魔が面白がっている。
 深夜の歩道をよたよたと歩きながら松本太一は、姿の見えない相手と会話をした。
「そんなわけはないでしょう……私は50歳近い、しかも男ですよ」
 ひっく、と声が跳ねた。
 端から見ると、独り言を呟きながら千鳥足でふらついている、完全な酔っ払いである。
 もっとも今の時間帯、端から見ている人間など、ほとんどいない。
『貴方、若返っているじゃないの。会社の女の子たちの見る目も、変わってきているわよ』
「貴女のおかげ……なのでしょうかね」
 この女悪魔に憑かれてから、良くも悪くも太一は変わった。様々な点において、変わり果てた。
 それはもう運命として受け入れるしかない、と太一は思い定める事にしている。
 思い定めても、しかし1つだけ、どうしても気になってしまう事がある。
 この女悪魔が、そもそも一体何者なのか、という事だ。
『……私の正体、知りたいの?』
「勝手に人の頭の中を覗かないで下さい……と言っても、無理なのでしょうね」
 太一は苦笑した。
「まあ、それは確かに気になりますよ。貴女はそうやって私の頭の中も心の中も覗き放題なのに、私の方は貴女に関して何も教えてもらえない。女性の悪魔である、という事くらいしか知りませんからね」
『それだけでいいじゃないの。私は悪魔、貴方たち人間にとっては最上級にろくでもない存在よ。それが全て』
 今の自分は果たして人間と言えるのか。太一は、そう思わない事もなかった。
『でも、まあ……別に、見せてあげてもいいかしらね。勿体つけて隠すようなものでもなし』
「貴女の正体が、ですか?」
 言いつつ、太一は立ち止まった。
 今の時間、端から見ている人間などいない。そう思っていたが、思い違いであったかも知れない。
 誰かに、見られている。太一は、それを直感した。
 見回しても、何者かの姿は見えない。
 ただ周囲の夜闇が、うねりつつ濃密さを増し、実体を得つつあるように感じられる。
 姿形なき襲撃者を、追い払った事はある。
 あんなものとは格が違う何者かの存在を、太一は感じ始めていた。
「これは……!」
 見られている、どころではない。もっと積極的な、太一にとってはあまり好ましくない接触を、この姿なき何者かは試みようとしている。
「貴女の、お取引先の方ですか……」
『そのようね。御本人直々に、私の命を狙いに来たというわけ』
 女悪魔が太一の中で、不敵に微笑んだ。
「取引先……とは言わないかしらね、そういう相手は」
 自分の口から出たその呟きが、松本太一自身の言葉なのか、女悪魔の台詞なのか。太一自身にも、わからなかった。
 とにかく太一の肉体が、変化を遂げつつある。
 両脚は、むっちりと肉感を増しながらスラリと伸びた。
 尻が、大きな白桃の如く、瑞々しく丸みを増してゆく。
 その丸みを強調する感じに胴はくびれて引き締まり、美しい腹筋の線がうっすらと浮かんだ。
 薄い胸板は、柔らかく豊かに膨らみながら、水着のような鎧のようなものに閉じ込められ拘束される。むにゅっ、と深い谷間が生じた。
 酒の臭いが染み付いたスーツは、いつの間にか消え失せ、代わりにそんな際どい衣装が発生していた。左右の美脚は黒いロングブーツに包まれ、優美な丸みを帯びた両肩には、ふっさりとした毛皮のマントが被さっている。
 見ての通り、私の中には恐い人がいます。姿なき何者かに向かって、太一はそう言おうとした。
 私、今はお酒が入っていますから。その人を上手く止められるかどうか、わかりませんよ。
 太一は、そう言ったつもりだった。だが。
「私、今はお酒が入っているから……上手く手加減出来るかどうか、わからないわよ」
 赤い、端麗な唇から紡ぎ出されたのは、ぞっとするほど涼やかな女の声である。
 冷たく、それでいて禍々しい熱さを感じさせる美貌。その周囲では、艶やかな黒髪がさらりと流れている。
 髑髏や白薔薇の髪飾りを掻き分けるようにして伸びているのは、左右一対の角だった。
 悪魔の、証である。
 松本太一と女悪魔の融合体である、夜宵の魔女……ではない。
 女悪魔そのものが今、そこに出現していた。そして姿なき何者かと、対峙している。
 こんな所で戦うのは、やめましょう。いえ、やめて下さい。太一は、そう言おうとした。
 あなた方の力を人間の世界で振るうのは、出来るだけやめて下さい。
 太一はそう言ったつもりだが、肉声として発せられるのは、やはり女の声だ。
「こんな所で戦うのは、やめましょう。私たちの力を、人間の世界で振るったら……大変な事になるわ。私、この世界はけっこう気に入っているの。居辛くなるような事はしたくないのよね」
 恐らく人間では発音不可能な真名を有しているのであろう、姿なき何者かが、夜闇の中からじっと眼差しを向けてくる。女悪魔の冷たく涼やかな瞳が、その眼光を静かに受け止める。
 睨み合いの気配が、やがて急速に弱まっていった。
 姿なき何者かが、どうやら立ち去ったようである。
(これが、貴女の正体……)
 己の姿を見下ろしながら、太一は心中で呟いた。口に出したら、女悪魔の声になってしまう。
 夜宵の魔女の時は、女性化しているとは言え、まだ松本太一としての自我を保っていられた。
 だが今は違う。松本太一の頭で何を考えたとしても、その思考は女悪魔の言葉や行動となって外部に出力されてしまう。
 人間・松本太一として行動しているつもりでも、それは女悪魔の行動にしかならないのだ。
 そしていつしか、松本太一は消えてしまう。
『悪魔の正体を知るというのは、そういう事よ』
 微笑を含む声が、聞こえた。
『私の正体なんか知ったところで、大して面白くないという事はわかったでしょう? もっと面白い事を考えなさいな……私の力を使って、どう人生を楽しむか。とかね』
 太一はいつの間にか、酒臭いスーツを着たサラリーマンの姿に戻っていた。
 酔いは、とうの昔に覚めていた。