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<東京怪談ノベル(シングル)>


封印


 ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「アポロンとダフネ」を思わせる石像である。
 かの名作は、太陽神アポロンの求愛から必死に逃げ回る乙女の姿を彫刻したものだ。
 この少女も、清らかなる乙女ダフネの如く、身をよじって逃げようとしている。逃げようとしながら、石像と化している。
 こんなにも必死に、彼女は何から逃げようとしていたのか。太陽神の求愛から、ではない。
 セレシュ・ウィーラーの眼光から、である。
「もう2度と悪さ出来へんように……暴言も吐けへんようにしたるわ」
 白衣の内側から、セレシュは筆と瓶を取り出した。瓶の中身は、ねっとりと重い液体である。
 草間武彦が、訊いてきた。
「何だ? それは」
「封印や」
 答えつつセレシュは、瓶の中に筆を突っ込み、筆先を液体に浸した。
 透明な、インクである。
 それをセレシュは、先程まで夢魔の少女であった石像に、筆で塗りたくった。
 ダフネの彫刻の如く、悲痛な感じに掲げられた細腕。その華奢な二の腕の内側に、脇の下に、柔らかくねじれた脇腹に、セレシュはくすぐるように筆を走らせてゆく。透明なインクで、紋様を描き込んでゆく。
 石像でなければ、くすぐったさに悶え苦しむ様を大いに見物出来たところである。
 優美で滑らかな背中に、白桃のような尻に。躍動しかけたまま固まった、瑞々しい左右の太股に。セレシュは筆を滑らせ、透明なインクを塗りたくっていった。
 やがて夢魔の少女の全身に、目視出来ぬ透明な紋様がびっしりと描かれた。
「さて、と……ほな目ぇ覚ましや」
 石像と化した少女に向かってセレシュは、す……っと片手をかざした。
 石像の全身に、光の紋様が浮かび上がった。
 目視出来なかった紋様が光を発し、夢魔の少女の肢体を隅々までキラキラと彩っている。
 封印の紋様。その力が、発動したのだ。
『……ぅ……んっ……』
 石像の少女が意識を取り戻し、声を発した。セレシュにしか聞こえない声だ。
『……! ち、ちょっと何よこれ!』
「見ての通りの封印や。恐いもの知らずで悪さばっかしとったガキに、反省っちゅうもんをさせたる」
 夢魔自身の魔力が、封印を維持する力となるのだ。
『ふ、ふざけんな! 元に戻せクソババア!』
「……首もいでから元に戻したってもええんやで?」
 セレシュが少し声を低くすると、石像の少女は微かな悲鳴を漏らした。
 それが聞こえるのは、この場ではセレシュだけだ。
「よう覚えとき。うちら魔物が人間の世界で生きよう思うたらな、人間とは仲良くせなあかんのや。綺麗事や思うかも知れへんけどな、綺麗事っちゅうのが案外、一番正しかったりもするんやで」
「何だ、独り言か?」
 草間武彦が言った。石像の声など、人間には聞こえない。
「ああ、何でもあらへん。それより草間さん、仕事は終わりっちゅう事でええんやな?」
 先程まで夢魔に取り憑かれていた若者が、今はベッドの上で穏やかな寝息を立てている。
 それを見やりつつ、セレシュは言った。
「この子……夢魔に取り憑かれるくらいやから、現実ではろくな目に遭うてへんねんな」
「それに関してどうこうするのは、探偵の仕事じゃあないさ」
 応えながら武彦は一瞬、タバコを吸いたそうな仕種を見せた。
「……お前さんの仕事でもないぞ、セレシュ」
「わかっとりまんがな」
 ろくな目に遭っていない人間を、私生活に立ち入ってまで助けてやろうとする。
 それは夢魔の少女がやらかしたような、面白半分で人間に危害を加える行為と、ある意味においては何も変わりはしないのだ。


 武彦が手配した運送業者が、夢魔の石像を、手際良くトラックに積んでいる。
『おっお前ら、あたしに触るな! 物みたいに扱うなあああ!』
 セレシュにしか聞こえない声で、石像の少女が叫んでいる。その全身で封印の紋様が激しく輝くが、それを目視出来るのも、この場ではセレシュだけだ。
『畜生、どいつもこいつも夢で呪い殺してやる! 化け物にズタズタに喰い殺される夢でも見ながら、一生眠り続けるがいい!』
「そんなんで魔力使えば使うほど、封印が強うなってくだけや」
 荷物となりつつある少女に、セレシュは微笑みかけた。
「何もせんと大人しゅうしとったら、2、300年くらいで封印解けるかも知れへんで」
『ふっふざけんな! 300年も石でなんかいられるかああああ!』
「石の上にも300年っちゅう事や。ほな、気張って反省しいや」
 石像を荷台に固定し、走り去ってゆくトラックを、セレシュは手を振りながらにこやかに見送った。
「一件落着、やね」
 セレシュは、草間武彦の方を振り向いた。
「お金持ちそうな家やし、報酬ガッポリふんだくるんやろ? 何かおごってぇな」
「ちょいと変わったものを食べられる、中国系の店があるんだが」
 武彦が、冗談なのかどうか判然としない口調で言った。
「……そこはカエルの炒め物が絶品だぞ。どうだ?」
「いや、うちゲテモノ系はちょっと……ってアンタら、何反応しとんねん!」
 セレシュの頭で、金色の髪がざわざわと嬉しそうに蠢いた。
「決まりだな」
「勘弁やで、もう……」
 落ち着き無くうねり喜ぶ金髪を、両手で抑え込む努力をしながら、セレシュはぼやいた。