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<東京怪談ノベル(シングル)>


 空と海、その青
 



 風が柔らかな淡い栗色の長い髪を撫ぜるように吹き抜ける。
 快晴の、くっきりとした空の色を映したかのような青い瞳が、潤んだようにその吹き抜けた風のゆくえを追って振り返る。
 その瞳の端に、真っ白な翼がよぎる。
 郁は、苦笑に似た笑みを口の端に浮かべて、目を閉じると、そっと手を自らの肌に当てる。
 違和感が手に伝わる。本来ならば、あるはずのないもの。
 鰓。
 ダウナーレイスという天使族により、作り変えられた自らの姿を思い、郁は、また、困ったような、微かな笑みを浮かべる。
 哀しみと言えば、哀しみかもしれない。
 けれども、困惑という言葉が、この感情には似合う。

 ───自分はいったい、何者なのだろうか。
 
 ばさり。
 風がセーラー服のスカートを舞い上げる。
 寒さは無い。
 そろそろ春が近いのだろう。
 それだけではない。
 何となく、ざわつくのは、ティークリッパー(TC・航空事象艇乗員)としての何かにひっかかったのかもしれない。
 時空救難士として、この場所に来た。未だ訓練の半ばだ。
 これから先、どうなるのか、郁には先が見えずにいた。
 それが、困ったような笑みとなるのかもしれない。
 あけっぴろげで、明るい性格であり、多少の事ならば笑い飛ばせる郁なのだけれども、この身体をもってしての、この先の、自分の進むべき未来は、やはり考えなければならない事であった。

 と、非常事態を告げる警報音が響く。
 呼び出しに、郁は首を傾げると、踵を返した。



「わ、私が?」
 待っていたのは、突然の実践配備だった。
「欠員が出た。不測の事態だが、そうも言っていられない」
 位置情報が提示され、現場の状況が伝えられる。
 洋上、航空事象艇の燃料である紅茶BTRを積んだ時空タンカーが久遠の都を目指す途中で交戦区域に墜落。誘爆の危機にある。生存者は不明。
 郁は小さく頷いた。
 慌ただしい出発。
 救難時空が、現場へと急行する。
『追加情報だ。某国の婦女子を乗せた難民船が猛攻を受けている』
「! 了解」
 その情報を受ける間もなく、惨劇の現場が間近に迫ってきていた。
 腹に響く爆発音。
 空を焦がすかのような爆炎に煙。
 焦げ付く臭いに、郁は軽く鼻に皺を寄せる。
 爆発の衝撃で、波打つ海面。
 逃げだす人々が、浪間に見える。
 その横には、墜落したタンカー。折れた主翼が胴体の搭乗口に刺さり、垂れたケーブルがタンクに触れ、嫌な音を立てている。誘爆は時間の問題だ。
 タンカーからの応答は無いが、そこには生存者が居るかもしれない。
 早く助けなければいけない。
 が。
 郁はその光景を目の当たりにし、足が竦んでいた。高空事象艇からその場所へと飛ぶには、高度があり、色々な気持ちが混じり合い、飛ぶに飛べなかった。
「背筋を脹れ! 自分は壇上のモデルだと思え」
 バディとなった男性が、郁へと声をかけてきた。
 ゆるぎない、強い声だった。
 その声に、はっとした郁は、バディへと振り返り、頷いた。
現場へと視線を戻せば、もう郁の目に怯えは無い。
「これは…晴れ舞台だよ。頑張れ私」
 ばさり。
 真っ白な翼が、大きく広がると、郁は遭難者へと向かい、飛んで行く。
 浪間に浮かぶ女性や小さな子供は、その翼ある救助者を見て、手を伸ばす。
 か細い手。
 郁が手を伸ばさなければ、救えない、命。
 郁は、その人達へと、安心させるような、しっかりとした笑みを浮かべて抱え上げる。ぎゅっと掴まれる柔らかな命。ある女性は、感謝の言葉をずっと呟き、ある子供は郁の胸で泣きじゃくる。春先とはいえ、海は冷たい。涙はその冷えた頬に伝うには、熱いものだと郁は救助者の重さよりも尚重い心を助けているかのような気持ちにもなって行った。
 海上に散らばった救助者達は、波や風の抵抗を最小限に抑えて移動できる郁の働きによって、ほとんどが救助された。




「後は、確認作業になる。気をつけろよ」
「はい」
 未だ、浮力を維持しているタンカーへと、バディと郁は慎重に侵入する。
 点灯する灯り。
 軋むような機械音。
 波音が混ざり、良く注意しなければ、音など簡単に聞き逃してしまいそうだ。
「助けて…」
「あのドアの向こう?!」
 外から、大きなパイプがつっかえ棒になった扉があった。
 そのパイプを押しのければ、中に居る人が助かりそうである。
 バディが郁に頷く。
「確認区域はここが最後だ。もうタンカーも持たない。急ぐぞ」
「はい」
 ひたひたと海水が、足首まで上がり、絡みつく。
「!」
 何度目かの爆音。
 振動がタンカーを揺すると、海水がどっと流れ込んできた。
「避けろっ!」
 バディが郁を庇い。腕の中に押し込めた。
 その、押し込められたバディの腕の中で、鈍い衝撃を郁は感じた。
 振動が収まると、空気がこぽりと上る方向を見れば、空間があった。
 未だ、空気もある。
 扉を塞いでいたパイプが外れていた。先ほどの振動で、ずれたのだ。
 扉が空き、意識を失った男性が漂ってくる。この状態ならば、運び出すのも容易だ。
 だが、外れたパイプは。
「!」
 郁は目を見張った。
 パイプが、男の足を深々と抉り、海中に縫いとめていた。
 郁は、その光景に震えた。震える身体を黙らせるかのように、ぎゅっと拳を握る。
 そんな郁へと、バディが微笑むのを、見た。
「君を抜擢したのは真の愛を知らないからだ。安い愛情で目が曇らず、冷静に事態を俯瞰出来るからだ」 
 声にならないバディの声を、郁は正確に聞き取った。
 死なせはしない。
 絶対に。
 そう、郁は心から思った。
 しっかりとバディの目を見る。海の青にも勝る蒼い瞳で。
「必ず戻るから…逝かないでここで待ってて」
 そして、鰓から吸った酸素をそっとバディに吹き込み、満面の笑みを浮かべた。

 


「生存者確保ー」
 ずぶ濡れになった翼を羽ばたかせ、海中から飛び出してきた郁は、高空事象艇へと救助者を預けると、制止の手を振り切り、再び海中へと飛び込んだ。
 小さな白い飛沫が、高空事象艇から確認が出来た。
 それと同時に、大きな爆発が、タンカーから上がった。
 先ほどまでと比べ物にならない爆炎が天を焦がし、海面がうねる。
 唸りを上げて、タンカーが海中へと沈んで行く。
 もう、駄目だろうか。
 そんな空気が漂う。
 だが、それは爆炎を背にして海中から飛び出してきた白い翼に打ち消された。
 笑顔のバディと郁だった。
 


 命の帰還。
 


 ───私はきっと…。




 郁は、自分の居場所を見つけた。








<End>