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「私も大概お人好しよね」
苦笑しながら響カスミは夕日の差し込む準備室で、特別展示の終わった美術品のレポートを書いていた。
定期的に変更される特別展示は、学生からの評判などが次回の展示に生かされる。学園側の、本物の美術品に生徒達が触れる機会を、という強い方針により神聖都学園の敷地内には私設美術館が建てられていた。評判がものを言うのは学生の興味のあるものをより取り入れたいという学園側の意志が働いているのだろう。
本来ならばレポートなどの雑務は音楽教師であるカスミが行う仕事では無いのだが、他の行事も重なりちょうど手の空いていたカスミに白羽の矢が立ったのだ。頼られると責任感の強いカスミは断る事など出来ず、今こうして会場となっていた私設美術館に居るのだった。
「さてと、休憩がてら私も見ておこうかしら」
撤去前の美術館内にはそのまま特別展示品が飾られている。カスミは大きく伸びをし立ち上がると、準備室の扉を開け美術館内に足を踏み入れた。
通常展示は普段見ているからか、カスミは見向きもしない。まっすぐに特別展示スペースへと向かう。
その時、館内を歩いているカスミの鼻をくすぐる甘い香り。カスミは歩みを止め、鼻をすんと鳴らしながら先ほどの香りを探す。しかし香水のような甘い香りはどこからも感じられなかった。その代わりに鼻をつくのは饐えた臭いだ。それは目の前の女性の石像から臭ってくる。石像全体が苔むしており、長い間外に置かれていた事は明白だ。展示する場合、通常はそれに適した状態にしてからだとカスミは思うのだが、搬入業者が古美術商とどこか胡散臭い部分もあったので、そのせいか、と納得した。
「でもこの石像……」
カスミは先ほど自分が書いたレポートを思い出す。主に女生徒からだったが、甘い匂いがした、突然気分が悪くなった、キスをしようとしているものがいた、との報告があった。先ほど自分が嗅いだ甘い香りも超常現象かと思ったカスミだったが、そのまま気が遠くなりそうになり頭を振ってそれを否定した。カスミは超常現象の類には滅法弱いのだ。
「気にしない、気にしない」
大きく息を吐き心を落ち着けながら、早く終わらせて今日は帰ろう、とカスミは新たな決意を胸に足早に美術館内を後にした。
下校のチャイムも鳴り、人の気配も少なくなってきた。残っているのは仕事をしている職員くらいだろう。
「よし、終了っと」
これで明日の撤去作業に間に合う、とカスミは達成感を胸に疲れをとるように首を回す。疲れを表すかのように首が音を立てるが気持ちが良い。
今日はご褒美に甘いものでも買って帰ろうかしら、とカスミは鼻歌交じりに帰る用意をしていたが、ふいに甘い香りが鼻をくすぐり首を傾げた。それは昼間に嗅いだ香りと同じものだった。昼間は一瞬で消えてしまったが、今は先ほどよりも強く香っている気がする。
カスミは頬を引きつらせ、脳裏をよぎる恐ろしい想像を振り払うかのように頭を振った。
「こ、怖くなんてないんですからね。これは香水をつけた誰かがきっと……って、誰が?」
下校時間をとうに過ぎた、しかも敷地の外れにある美術館に来るものなどいるだろうか。
このまま無視して帰ろうとも思ったカスミだったが、元来の生真面目さがそうはさせなかった。ごくり、と唾を飲み込んだカスミは意を決し、そっと準備室の扉を開けた。
電気を付けるか迷ったカスミだったが、もし侵入者が居た場合に気付かれては拙いと、月明かりが人工的な明かりを必要としないほどに美術館内を照らし出していたのを良い事に、辺りを窺いながら香りを辿って進む。
音も重要な手がかりだとカスミは耳を澄ますが、まったく音は聞こえなかった。
香りだけがどんどん強くなる。
カスミの緊張も頂点まで上り詰める頃、ようやく香りの元へと辿り着いた。それは昼間に饐えた臭いを発していた、躍動感溢れる石像の前だった。
「どうしてこの像から……」
改めてカスミはその像を見上げる。月明かりに照らされた石像は、外にあった時と同じような風体でそこにあった。全体的に苔むしている像は月明かりを浴びて幻想的にすら見える。裸足で逃げる女性の像は今にも走り出しそうな精巧さがあった。泣きながら逃げ惑う異国の姫。カスミはその美しさと香りに吸い寄せられ、石像に近づきそっと触れてみる。もちろん温かさなどなかったが、むせ返るような香りに包まれる。カスミはそのまま導かれるように石像の冷たい唇にキスをした。
その途端、触れていた石像の堅さが消え、あっという間に柔らかな肉感へと変わる。ふわりと金色の髪が揺れ、カスミの頬をくすぐり、涙に濡れた瞳がカスミを捉えた。
瞬間を目の当たりにしたカスミの目は驚愕に見開かれ、何が起きたのか理解できないままに意識を飛ばし崩れ落ちた。
石化から解かれた女性は崩れ落ちるカスミに手を伸ばし、頭を打つのを阻止したが自分の置かれた状況が把握できずに辺りを見渡し途方に暮れる。
「わたしはどうしてこのような場所にいるのかしら」
頼みの綱とも言えるカスミは気を失ってしまっていて役に立たない。かといって、このままでは何も分からない。女性は情報を得る為にカスミが目を覚ますのを待つ事にしたが、急激に生身へと戻った弊害か睡魔が襲ってきて起きていられそうになかった。体の自由がきかなくなり、女性はそのままカスミの隣へと横たわる。そして安らかな寝息を立て始めたのだった。
「んっ……」
カスミが目を覚ましたのはそれから数十分もした頃だった。
そして目を開けた瞬間飛び込んできた異国の格好をした女性に驚き、身を震わせた。ここで気絶したという事はきっとなにかしらの怪奇現象にあったはずなのだが、記憶がごっそりと抜け落ちており思い出せない。きっとこの汚れ放題の女性に関わる事なのだろうが、カスミはまったく覚えていなかった。しかしそのまま女性を放っておく事など出来ず、カスミは女性を自分のテリトリーである音楽準備室まで運ぶ。そこにはシャワー室も仮眠室もあるのだ。そして運ぶ最中も女性はまったく目を覚まさなかったため、失礼だとは思いつつも服を脱がせシャワーを浴びさせる事にした。さすがにこのままの姿でベッドに横たえる勇気はカスミにはなかった。
ちょうど良い温度になったところで、カスミは自分も裸になると女性を洗い始める。
「あら、綺麗」
薄汚れていた肌は石けんで洗うと透き通るような白に変わり、汚れていたのが嘘のように瑞々しさを取り戻した。胸も尻も弾力があり吸い付いてくるようだ。金色の髪も絹糸のようで絡まる事もない。
「なぜあそこにあなたはいたのかしらね」
教えてちょうだい、とカスミは呟きながら女性の濡れた髪と体をタオルで拭く。カスミは準備室に何着か置いてある着替えを出してきて女性に着せ、ドライヤーで長く美しい髪を乾かし始めた。
しばらくすると女性は目を覚まし、飛び上がって部屋の隅へと走る。それをカスミは手を伸ばして阻止すると、安心して、と微笑んだ。
「私は響カスミ。この音楽準備室……って言っても分からないかもしれないけれど、そこの主よ。あなたは美術館で倒れていたんだけれど、どなた?」
言葉は分かるかしら?、とカスミが尋ねれば女性は小さく頷く。
「わたしはイアル・ミラール。今は亡き王国の姫で石化され美術品として各地を転々としていました。多分今回もそうでしょう」
カスミは頭痛を感じ頭を振る。気を失いそうなことを聞いたが、今は倒れてはいけないと気持ちを奮い立たせ、イアルの話を聞いた。今倒れてしまっては元の木阿弥だ。
「女性のキスで石化が解け、本来の私に戻る事が出来るのです。私が目覚めたとき、あなたがいました。きっと私を目覚めさせてくれたのはあなた。ありがとうございます」
イアルのふんわりと包み込むような笑顔を向けられたカスミは頬が赤くなるのを感じる。
「ごめんなさい。私、超常現象とかに滅法弱くて気絶した時の事とか覚えていないの。でも話を統合すると美術館にあった苔むした石像があなただった。そしてキスをして目覚めさせたのは私。それならこの世界のことを何も知らないイアルさんを助ける義務があるわね」
「……義務?」
「いえ、言葉が悪かったわ。イアルさんがこの世界で住みやすいよう、私に手伝わせてちょうだい」
「でも……わたしと一緒にいたら超常現象と常に関わる事になるかもしれません」
困ったような表情で、しかししっかりと自分の現状を把握し、カスミの心情も踏まえた上で伝えてくるイアルにカスミは好感を持つ。
「私、少しは耐性付けないとこの学園でやっていけないと思っていたところだったの。しょっちゅう不思議なことが起きて気絶するし。でも少しずつ慣らしていけばいいでしょう? イアルさんはこの世界で行くところもないだろうし、よければ私の家に来ない? 一人より二人の方が楽しそうだし。一緒に暮らす上で何かマイナス点とかあるかしら?」
「危険に巻き込んでしまうかもしれません」
「その時は、私をイアルさんが助けてくれれば良いわ」
強そうだもの、とカスミが告げながらウインクすればイアルは大きく頷いた。
「任せてください。あなたは私が守ります」
「ありがとう。それじゃあ、詳しい話はもう遅いし明日にして、今日は一緒にここに泊まりましょう。ベッドが一つしか無いから一緒に寝る事になるけど」
カスミは潜り込んだベッドの隣を叩き、イアルを呼ぶ。
照れくさそうにしながらイアルはカスミの隣に身を滑り込ませた。
「おやすみなさい、よい夢を」
「ええ、おやすみなさい」
カスミがイアルに触れた肌は温かく、そして柔らかだった。
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