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<東京怪談ノベル(シングル)>


戦いを守る


 強風が、微かな水滴を含み始めたようだ。雨が、ぽつぽつと頬に当たってくる。
 風と雷は激しいものの、雨はそれほど大振りにはならないのではないか、と白鳥瑞科は思った。
 だが今、目の前に立つ黒装束の女性の心は、決して降り止まぬ大雨でぐっしょりと重くなってしまっている。
 あるいは逆に、渇ききって干涸び、ボロボロにひび割れている。
「あたしもね、もちろん貴女なんかとは全然比べ物になんないけど……それなりに可愛い花嫁さんには、なれるはずだったのよね」
 黒いローブを暴風にはためかせながら、彼女は言った。
「彼とは3年くらい同棲して、お互いの駄目な部分も見せ合って、それでもまあラブラブでいられたから……結婚、決めたわけ。お義父様お義母様とも、いい感じに仲良くなれて。式場探したりウェディングドレス見たり、ハネムーン先選んだり、そりゃあ楽しかったわよ」
 結婚とは、する直前のその辺りが、最も幸せな時期なのかも知れない。
 瑞科はそう思ったが、言わずにおいた。
「そんな、一番楽しかった時期にね……彼、リストラされちゃったの」
 同じような話を、瑞科はどこかで聞いたような気がした。
「男と女って、そういう時に試されるのよね……あたしは、駄目だったわ」
「結婚が……?」
「あたしの方から一方的に、婚約破棄よ。こんな時代、彼が新しいお仕事見つけられるかどうかなんて、わかんないし。下手すると、あたしが2人分働かなきゃいけなくなるし。その上、家事やったり子供生んだりなんて……自信、なかったから」
 黒いフードの下から、彼女はちらりと瑞科を見つめた。
「その結果、彼がどういう事になっちゃったのかは……貴女の方が、よく知ってると思うけど」
 美人でも不美人でもない顔立ちに、虚ろな笑みが浮かぶ。
「ああ別に責めてるわけじゃないのよ。貴女に助けてもらったとしても彼、いつかは同じ事してただろうし……あたしに、誰か責める資格なんてないし」
 虚ろな両眼に、虚ろな光が満ちてゆく。
「ねえ、男と女って……愛さえあれば、何でも乗り越えて行けると思う?」
 昨日と同じく、瑞科に答えられる問いではなかった。
「もしそうなら、あたし彼の事……愛してなんか、いなかったって事よね……だって、乗り越えられなかったんだもの……」
「……おやめなさい」
 瑞科はようやく、かけるべき言葉を見つけた。
「貴女が責任を感じるなど……思い上がりでしか、ありませんわよ」
 その言葉は、しかし届いてはいなかった。
「彼のために、あたしがしてあげられる事なんて……何にも、ないのよね。あるとしたら、彼と……同じになって、あげるくらい……」
「おやめなさい!」
 杖を構え、瑞科は踏み込んで行った。
 この聖なる杖で、自分は今から何をするつもりなのか。
 遠慮容赦なく、彼女を叩き殺す事が出来るのか。
 自分はすでに、この場で3人の命を奪っている。この女性だけを死なせずに済ませるなど、それこそ思い上がりではないのか。
 様々な自問を胸中で渦巻かせながら、瑞科はとっさに横へ跳んだ。
 攻撃が、来ていた。
 寸前まで瑞科がいた辺りで、屋上のコンクリートが砕け散る。
 何かが、鞭のように跳ねていた。
 ムカデの如く節くれ立った、長大なるもの。先端に鋭い大型の棘を備えており、サソリの尻尾のようでもある。
 それが、空中から襲いかかって来たのだ。
『邪魔はさせぬぞ、神に仕える者よ……』
 声が、重く禍々しく響いた。
『ようやく、私を解き放ってくれる者を見つけたのだ……邪魔はさせぬ』
 黒装束の女性の頭上。空中で、光の紋様が輝いている。
 先日、あの男が魔物たちを召喚するのに用いたものと同じ……光の、魔法陣。
 彼と同じく、この女性もまた、己の命を生贄として何かを召喚しようとしている。
 夜空に描き出された光の魔法陣から、ムカデのようなサソリの尻尾のようなものが4本、5本と現れ伸び、毒蛇の動きでうねり狂う。そして先端の毒針を瑞科に向ける。
 異形の肉体の、まだ一部の一部しか見せていない相手に対し、瑞科はまず会話を試みた。
「貴方……封印されておられる?」
『魔界の最下層にな。貴様たちの崇める、神の仕業よ』
 怨念そのものの声が、魔法陣の中から返って来る。
『この忌まわしい封印から、私が解き放たれる……そのためには不本意ながら、下等なる人間どもの助けが必要なのだ。黒魔術による召喚が、必要となってしまうのだよ』
「残念でしたわね。この時代、人間で黒魔術を使えるような方々など、そうはおりませんわ」
『だから私が……僅かな黒魔術の能力を、人間どもに送り込み植え付けてやるしかなかったのだ』
 魔界の最下層に封じられていながら、この世界に対してそんな働きかけが出来る。恐るべき力である、としか言いようがない。
『その僅かばかりの能力を……この女だけが、私をこうして召喚出来るほどにまで高めてくれたのだ。巨大なる、絶望の念によってなあ』
 黒装束の女性が、瞳を虚ろに輝かせながら両腕を広げ、何事かを念じている。
『他の者どもは、黒魔術師の出来損ないにしか成らなかった……が、この女は本物よ!』
 空中に描かれた魔法陣から、毒針を備えた甲殻触手がさらに大量に溢れ出し、一斉に瑞科を襲った。
 形良く鍛え込まれた両の太股が躍動し、その周囲でミニのプリーツスカートが際どく舞い上がる。
 力強くくびれた胴が捻転し、黒のジャケットを豊麗に膨らませた胸が横殴りに揺れた。
 艶やかな茶色の髪が、激しく舞う。
 聖なる杖が、暴風を切り裂いて縦横無尽に弧を描き、襲撃をことごとく粉砕していた。
 ムカデのようなサソリの尻尾のようなものたちが、瑞科の周囲で片っ端から砕け散る。
 魔法陣の奥から、微かな苦痛の呻きが漏れた。
 だが同時に、
「うっ……く……ッ」
 召喚者たる女性も、苦しげな声を発していた。
 黒いローブに包まれた細身が弱々しく揺らぎ、その両膝がガクリと折れる。
『……貴様がそのように召喚を妨害すればするほど、この女は生命を消耗してゆく』
 魔法陣から漏れていた苦痛の呻きが、冷笑に変わった。
『この女は、己の生命そのものを、召喚のための魔力源としているのだからなあ』
 すなわち彼女の命を絶つ事が、この召喚を止めるための唯一の手段。
(躊躇う理由などありませんわよ、白鳥瑞科……)
 痛々しく両膝をついたまま、しかし黒装束の女性は念じ続けている。召喚を、続行している。
 空中に浮かぶ魔法陣の奥から、巨大なものが現れつつある気配を、瑞科は確かに感じた。
 たった今、打ち砕いた、甲殻触手の群れ。その発生源が、出現しようとしている。
 躊躇っている、理由も時間もない。
(これまで多くの命を奪ってきた貴女に今更、躊躇う資格など……)
 瑞科がグッ……と杖を握り、構え直し、踏み込もうとしたその時。
『ぬっ……こ、これは……!?』
 魔法陣を押し広げるようにして出現しかけていた巨大なものが、狼狽している。
『貴様……! 邪魔をするか……』
「そんな……」
 召喚者の女性が、声を、身体を、震わせる。
 虚ろな光に満ちていた両眼が、涙で揺らめく。
「こんな事……うっ……」
 嘔吐をこらえるかのように、彼女が口を押さえる。
 何が起こっているのかを、瑞科はようやく理解した。
 己の命を生贄として僅かな魔物たちを召喚し、空しく死んでいった男。
 彼が、しかしこの世に残したものが、確かにあるのだ。
「……借りを作ってしまいましたわね、貴女」
 召喚されつつある巨大なものを、瑞科はとりあえず無視した。
「貴女の生命の消耗を、その子が止めてくれましたのよ」
 生命力の消耗の停止。それはすなわち、召喚が停止した事を意味する。
「貴女はその子に、借りを返さなければいけませんわ……母親として」
「はは……おや……」
 召喚どころではなくなった様子で、女性は泣き崩れていた。
「彼を……守ってあげられなかった、あたしが……母親になんて……」
「彼氏さんの事は、とりあえずお忘れなさいな」
 瑞科は言った。
「貴女これからは、その子の事だけを考えてお生きなさい。その子に、命を救われてしまったのですから」
『これが……人間の、生命の力……』
 声が弱まり、魔法陣も薄れてゆく。
『……良かろう、あと何千年でも何万年でも封印の中で耐えてくれる……だが覚えておけ人間ども、私は……いつの日か、必ず……』
 魔法陣は、消え失せた。
 瑞科は携帯電話を取り出し、報告をした。
「任務完了……医療班の手配、お願いいたしますわ」
 この女性には、これからしばらくは嫌でも安静にしていてもらわなければならない。
 ちらりと、瑞科は振り返った。
 もはや黒装束など着ているべきではない女性が、泣きじゃくりながら、己の腹に手を当てている。
 母親になる。
 それは武装審問官の任務などとは比べ物にならないほど、過酷な戦いであるに違いなかった。
「その戦いに専念なさい……誰にも、邪魔はさせませんわ」
 守るべきものが出来てしまった、と瑞科は思った。