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仔猫と女宰相と雨の薔薇園
千の影が、星を喪った東京の夜を駆けていく。
季節は梅雨時、重苦しい夜空は小粒の雨を振りこぼすばかり。新宿副都心の摩天楼群は眠りにもつかず、鋭角的な灯りを投げかけている。行き交うひとびとは、上質のスーツと鞄を濡らすまいと傘の角度に腐心して、高層ビルのうえなど見上げもしない。
――もしも。
もしも酔狂な誰かが傘をたたみ、目を凝らして遥か頭上を見たならば。
夜の雲と見分けがつかぬ千の影は、たった一匹の、小さな翼を持つ黒い仔猫であることがわかるはずだった。その影は魔性をはらみ、仔猫のすがたを幾億倍にも大きく見せている。
闇に溶けながらビルからビルへ、仔猫は歌うように踊るように跳躍する。
仔猫――魂の獣、千影は狩りの最中だった。
敵対する立場にある獣、金色の狼を追いかけているのだ。
魂の獣たちは自身の存在を賭け、奪い奪われ、喰らい喰らわれる関係である。だから始まりは互角な戦いのはずだった。しかし、金色の狼はすぐに形勢不利であることに気がついた。小さな仔猫に見える千影は、実は猛々しい鷹の翼を有した黒獅子であることを悟ったのだ。
狼は逃げていく。だが、翼ある獅子の追撃を振り切れる獣などいるだろうか。
やがて。
(ほぉら、追いついた♪)
二匹の獣は、巨大な二本の角を持つ建物の両翼で対峙した。著名な建築家の手による、鋼鉄の巨人の頭部のごとき超高層ビル。東京の象徴ともいえる都庁第一本庁舎である。
黒獅子は咆哮する。雨粒をはじき、牙がきらめいた。
金の狼はじりりと後ずさる。
すでに、勝負はついていた。
敵の喉笛目がけて、獅子は飛ぶ。
――断末魔が響き、そして。
「うにゃん……」
仔猫のすがたに戻った千影は、雨と埃にまみれた毛並みをぷるぷると揺する。
狼はもう、影も形もない。
楽しいお散歩が終わってしまった。
さて、これからどうしよう?
◆◇◆
――こんなはずでは、なかったのに。
幻獣の国エル・ヴァイセの中心地区にある王宮、『火焔城』の執務室。
王の信任厚き宰相、マリーネブラウ・ダーナチルゼは、今日幾度目かになるかわからぬ溜息をついた。
書記官たちが積み上げていった調査報告書を手に取っては、また机に戻す。何か書き込もうとしても考えがまとまらない。羽根ペンにつけたインクはとうに乾いてしまった。
以前よりその傾向にあったエル・ヴァイセの若年人口減少が、いっそう激化しているのだ。少子化の進行もいちじるしい。
原因はわかっている。
異世界への人口流出。
次代を担う若年層がこぞって「東京」に行ってしまうからなのだ。
きっかけは、政敵であった前宰相とキマイラ騎士団の「東京」への亡命だった。
さらに宰相の妹が世継ぎの王子とともに「聖獣界」へ逃れたことも拍車をかけた。
彼らを慕う若者たちはエル・ヴァイセに見切りをつけ、次々に後を追った。やがて異世界の魅力に取り憑かれ、すっかり現地に馴染んで定住してしまう、というパターンである。
前宰相らは、政争に負けて逃げ出したはずだ。
そのきっかけを作ったのはマリーネブラウ自身だ。
周到に罠を仕掛け、目障りな彼らを追い出した。
この国を、支配するために。
窓に面した広大な薔薇の庭は、雨に打たれている。マリーネブラウは壁に飾ったままの前宰相の肖像画に視線を移した。
この絵は時おり《異界鏡》となり、彼らの現状を映し出す。前宰相や騎士たちは異世界の女神や美しい女編集長などとにぎやかに過ごしているし、宰相の妹と王子は、駆け出しの錬金術師として武器の工房を運営している。
彼らは亡命先でそれなりに生活の糧を見いだし、多種多様なひとびと関わりながら生きている。この国に縛られたままではかなえられない、めくるめく冒険の数々と華やかな交流。
彼らは居場所をなくして、傷つきながらこの国を、この世界を去ったはず。
なのになぜ、あんなにも楽しそうなのか。勝ったのは私のほうなのに。
(私はいったい、何がしたかったのだろう)
この国のすべては私の意のまま。
いや違う。
気がつけばすべての責任を、自分が負ってしまっているのだ。
雨脚が強くなった。大輪咲きの薔薇たちがうな垂れていく。
呼び鈴を鳴らす。
「御用でしょうか、宰相閣下」
宰相付きの従者のひとりが駆けつける。青年のすがたを取った漆黒のユニコーンだ。
彼は、もとはキマイラ騎士団の一員である。前宰相とともに「東京」への亡命も考えたようだが、病弱な妹がいるため、断念して残留したのだった。
「お茶を」
「かしこまりました」
丁重に頭を下げ、紅茶を淹れるユニコーンだが、しかし彼は、決してマリーネブラウに心から従属しているわけではない。本来は反骨心の強い性格であるにも関わらず、不本意ながら妹との生活のために渋々、側近業務に就いているのだ。マリーネブラウもそれは重々承知しているため、いきおい、やりとりはとげとげしいものになる。
手に取ったティーカップを、荒々しくソーサーに戻す。
「熱すぎるわ。火傷させるつもり?」
「申し訳ございません。しかし宰相閣下は火のように熱いお茶がお好みでは?」
「程度問題よ」
「では水で薄めてまいります」
従者は澄まし顔でティーセットを引き上げようとした。マリーネブラウの片眉がぴくりと震える。
……と。
すとんっ!
天井から仔猫が落ちてきた。
「うにゃあ?」
書類の山の上に着地した仔猫は、まずはきょとんとした。次いで、ここがどこかを確かめるように前脚でぺちぺちと紙を触ってみる。
仔猫は埃と雨にまみれていた。政策立案の指針となる調査書類は、あっという間にキュートな肉球プリントだらけになる。
「……!?」
「……!?」
主従は顔を見合わせる。
「……。これはあなたの嫌がらせ?」
「こんな手の込んだ嫌がらせをするほど暇ではございません。それに」
従者は仔猫をじっと見つめる。
「ずいぶん汚れていますが、何とも可愛らしいお嬢さんではありませんか」
仔猫はしばらくきょろきょろし、すぐにマリーネブラウを見て、緑の瞳を輝かせた。
「あ、マリちゃん! こんばんわっ」
「……あなたは」
マリーネブラウは仔猫の首根っこを掴んで持ち上げた。すがたこそ違うが、この瞳には見覚えがある。以前、異界通路を通じて井の頭公園へ赴いたときに会った、人なつこい少女……。
「千影? 何なの、この汚れようは」
「えへへー。ここに来るまで、たかーい建物のうえでいっぱい追いかけっこしてたから」
「ビルの屋上に自然発生した異界通路の隙間に落ちたのね」
「お知り合いなんですか? こんな可愛らしいかたと宰相閣下が」
意外すぎる、という目をした従者に、千影はにこにこと挨拶をした。
「始めまして。あたしチカ」
「これはご丁寧に。宰相閣下のいち従者でございます。日々、宰相閣下には、東京ふうに言えばパワーハラスメントを受けております」
「マリちゃん、だめだよ、ぱわはら? しちゃ」
「してません。反抗的な新人従者に手を焼いているのは私のほうです。ちょっといらっしゃい」
千影の首根っこを掴んだまま、マリーネブラウは雨の庭に出た。従者が傘を持って追いかける。
薔薇園の中心には、水晶の噴水をしつらえた七色の泉がある。千影はその中にぽいと投げ込まれた。
「うにゃあ!?」
「ああもう、こんなに汚れて。せっかくの毛並みが台無しじゃないの」
じゃぶじゃぶと乱暴に水洗いされながら、仔猫はくすぐったそうに鼻を鳴らす。
「マリちゃん、このお水、いい匂い」
「芳香のある薔薇の花びらが散っているからよ」
「……宰相閣下」
傘をさしかけながら、従者はふっと笑った。
「不器用でいらっしゃいますね。そんな扱いではチカさんの毛並みが痛むというもの。代わりましょう」
◆◇◆
「んね、マリちゃん! この赤い花はなあに?」
「薔薇」
「この白いのは?」
「薔薇」
「ピンク色のは?」
「薔薇」
「綺麗なオレンジ色だね」
「薔薇よ」
洗い終えるなり、千影は雨の庭を駆け出した。止める間もない。
興味深げに走り回っては、緑の瞳を見開いて花の香りを嗅いでいる。
仔猫はつと足を止め、振り返った。
女宰相は従者と同じ傘に入り、こちらを見つめている。
「……んね。また、遊びに来てもいい?」
従者は宰相に何ごとかを囁き、宰相はつんとそっぽを向いた。
彼らのやりとりは聞こえぬままに、仔猫は薔薇園探索を再開する。
――Fin.
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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【3689/千影/女性/14歳/ Zodiac Beast】
代┃筆┃ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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※このシチュエーションノベルは、諸事情により神無月まりばなが代理作成を承りました。
PL様ならびに運営部様、このたびはご依頼くださいましてありがとうございました。
とってもお久しぶりです、千影さま! 相変わらずのチャーミングな仔猫でいらっしゃいますね。
マリーネブラウご指名とは相変わらず通でいらっしゃる(笑)。エル・ヴァイセに遊びに来ていただき、ありがとうございます。ツンを崩せない立場の女宰相ですが、心の底ではそこはかとなく嬉しかったのではと思わなくもなく。
またのお越し、お待ちしておりますー!
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