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夢の時代
心地良いピアノソロの調べに、うっとりと耳を傾けながら、藤田あやこはグラスに唇を触れた。
マティーニは、ちびちびと飲むものではない。三口で、あやこは一気に飲み干してしまった。
全身に、芳醇な酔いが回った。
「貴方のカクテルは、最高ね……」
若い男のピアニストに、あやこは婉然と微笑みかけた。
「それに比べて、ピアノの方は……まだ少し、上達の余地があるかしら? 充分、素敵ではあるけれど」
「恐縮です、お嬢様」
ピアノの鍵盤に、形良い指を流麗に走らせながら、ピアニストが応える。
あやこ専属の、執事だった。バーテンダーでもあり、ピアニストでもある。
そして、恋人でもある。
「その綺麗な指で……私をもっと、酔わせる事は出来る?」
あやこは寄り添い、囁いた。
「私を……奏でる事が、出来るかしら?」
「作業、急ぎなさい! 早くなさい!」
鍵屋智子の、そんな無慈悲な叱咤に耐えながら、電史人たちは黙々と作業を続けている。
電史時代である。
この時代の地球人類……電史人は、半ば機械化されて南極のサーバーとリンクした、言わば生ける端末とも言うべき電脳生命体であった。
その南極サーバーが現在、太陽の電磁波異状のため、復旧不可能なダウン状態に陥りかけている。
南極サーバーダウンが起これば、電史人たちは生きていられない。つまり彼らは現在、絶滅の危機を迎えているのだ。
そのような事態とは無関係な、ここは月面・久遠の都の造船所。
徴用された電史人たちが、鍵屋智子による監督管理の下、調査船ノアの改造作業に従事している。
具体的には「エアリアル装置」の増設作業だ。
エアリアル装置とは、広大な仮想現実に生態系をシミュレート可能な……端的に言うと、極めて現実に近い夢を見るための娯楽・慰安設備である。もちろん、その夢の内容は思い通りに設定出来る。
電史人たちのエアリアル技術は、神がかっている。
彼らの開発した慰安装置に、入り込んで出て来ない者が続出してしまうのも、まあ無理からぬ事ではあった。
「藤田中佐はどこ! また籠っているの!? この忙しい時に!」
智子は、いらいらと怒声を放った。
この調査船ノアは、膨大な遺伝子情報を記憶出来る。
全宇宙いたる所からの有機的情報採集を、主な任務とする船なのだ。搭乗員たちは当然、長く過酷な船旅を強いられる事となる。
夢を見るための慰安設備が、どうしても必要となるのだ。
そんなノアの船内を、彼もしくは彼女は漂っていた。
時空アメーバ、と呼ばれている。
有害な生き物ではない。現時点においては、だが。
時空アメーバ自身には、人間という生き物を知りたい、という無害な好奇心しかなかった。
その好奇心を満たすのは簡単だ。人間に寄生し、人間として、人間の体内から生まれてみれば良い。
問題は、ここが様々な有機的情報が保存されている調査船ノアの船内である、という事であった。
藤田あやこが、妊娠した。
そうとしか思えない状況ではあった。
「どうしよう、智子ちゃん……」
調査船ノア船内の、医療区域。
丸々と膨らんだ腹を抱えてベッドに横たわったまま、あやこは涙ぐんでいる。
泣きたいのはこっちだ、という怒声を懸命に飲み込みながら、智子は言った。
「この忙しい時に……相手が誰なのか、それだけ教えてくれるかしら? その人に、出来るだけの援助をしてもらわないといけないから」
「私の、執事……」
あやこは俯いた。智子は頭痛を覚えた。
「……少し、落ち着いてくれるかしら。エアリアル装置の中で、夢の中の登場人物を相手に何をしていたのかは知らないけれど。それで現実的に妊娠してしまうなんて事が」
「あっ痛……う、生まれる! 生まれちゃうよぉ!」
あやこが陣痛の悲鳴を上げた。看護士たちが、慌てて集まって来る。
智子はよろめきながら頭を抱えた。頭痛が、ひどくなってゆく。
「これは……電磁波?」
何か強力な電磁波を発するものが、あやこの体内から生まれ出ようとしている。
生まれて来るのが、人の赤ん坊ではない事だけは、どうやら間違いなさそうだった。
中絶させるべきではないか、と智子が頭痛の中で思考している間に、それは生まれていた。
医療区域内に、元気な産声が響き渡る。
可愛らしい女児であった。
藤田あやこの出産騒ぎがようやく落ち着いた頃。智子は、造船所内に微かな違和感を感じていた。
電史人の人数が、明らかに増えている。上層部が、また地球から徴用して来たのであろうか。
作業が思うように進まないため、人を増やした。電史人本人たちは、そう答えた。
智子が訝しみ、さらなる詰問をしようとした、その時。
エマージェンシー・コールが、やかましく鳴り響いた。
地球の時代のどこかで、異変が起こったようである。
異変が起こったのは、電史時代よりもずっと前。20世紀並みに文明が後退した、とある時代の地球である。
邪悪なるドワーフ族「アシッドクラン」が、この地球を細菌兵器で襲撃しているのだという。
その細菌のサンプルは、しかしすでに採取済みであった。ノアの船内に、有機情報として保存されている。これを使用してワクチンを作り出し、異変中の地球へと向かう。
それだけ、のはずであった。
だがワクチン作成作業が始まる前に、ノアは出航してしまっていた。造船所を破壊し、宇宙へと飛び出したのだ。鍵屋智子に藤田あやこ、それに作業中の電史人たちを乗せたまま。
暴走しているのは、誰の目にも明らかだった。
暴走する船内で、しかし藤田あやこは幸せだった。
生まれた子供が、すくすくと育ってゆく。自分に似ているのかどうかはわからないが、可愛らしい女の子に成長してゆく。
その子を膝に抱いたまま、あやこはピアノソロの調べに聞き入っていた。
執事であり夫でもある男が、綺麗な指を鍵盤に走らせ、様々な童謡を奏でている。
幼い娘が、あやこの膝の上で、たどたどしく歌詞を口ずさんでいる。
幸せだった。
外が何やら騒がしいような気もしたが、どうでも良かった。
『至急、退艦されたし。至急、退艦されたし。本艦は1時間後に自爆する。至急、退艦されたし』
ノアの機関部が、合成音声による退避命令を発している。
有機情報として保存されていた例の細菌が突然、実体化し、船内で異常増殖を開始したのだ。
船から溢れ出す前に、自爆する。ノアのメインコンピューターが、そう判断を下したのは、まあ当然ではある。
その判断に従って脱出する者など、しかし1人もいなかった。
電史人たちが総出で、自爆プログラムの解除作業に取りかかっている。鍵屋智子の命令で、ではなく自発的に。
「この船を失うわけにはいかない……」
電史人の代表者が、智子に拳銃を向けながら言う。
「この船から細菌が溢れ出そうが、我らはそんなものに侵される事のない機械の身体。貴女がた生身の生物がどうなろうと、知った事ではない」
「そうでしょうけど……とにかく落ち着きなさい。銃を下ろして」
智子は後退りをした。
銃を下ろさず、電史人は言う。
「南極サーバーの機能・記憶を全て、この船に移植する。そうしなければ、我々は滅ぶ」
「だから、この船を暴走させて奪ったのね……」
ノアは現在、地球に向かっている。ワクチンで救わなければならない時代の地球ではなく、この電史時代の地球……巨大サーバーの存在している、南極へと。
「貴方たちのサーバーが、復旧不可能なダウンの危機を迎えているのは知っているわ。とにかく銃を下ろしなさい、私も出来る限りの事はしてあげるから」
「貴女は信用出来ない。我々の邪魔はせず、1人で逃げるがいい」
「最初から言ってくれれば、いくらでも協力してあげたわよ馬鹿!」
思わず、智子は怒鳴っていた。
電史人たちを酷使し過ぎた。信頼関係を、築けなかった。その責任が自分にある事は、頭ではわかっている。
とにかく、感情的になっている場合ではなかった。
艦内の細菌増殖は、もはや隔離を破る寸前まで激しさを増している。
原因は、わかっている。
艦内のエアリアル装置内で、藤田あやこが抱いているもの。それが、電磁波を発しているのだ。
その電磁波が、有機情報に過ぎなかった細菌を実体化させ、ここまでの異常増殖を促したのである。
時空アメーバ。間違いなかった。
この生命体は普段は無害だが、他生物に寄生し、出産という形で現れる際、様々な種類の電磁波を発生させる。
細菌増殖。電史人たちの、叛乱的行動。
これら問題をまとめて解決するための手段は、もはや1つしかなかった。
見返りを求めて、戦っていたわけではない。
兵器である。
戦争が終われば用済みとなる。それは当然の事だ。
覚悟の上で、戦っていたはずだった。
なのに、涙が止まらない。
「女王陛下ぁ……まだまだ、お仕えしとうございますぅ……」
クィーン・エリザベス級の巨体が、無惨に解体されてゆく。
大英帝国海軍の栄光を第一次世界大戦時から支え続けてきた、歴戦の戦艦ウォースパイト。
傷だらけの不沈艦が今、最期の時を迎えようとしていた。
その様を見つめ、泣きじゃくる少女に、声をかける者がいた。
「不沈艦を、まだまだ沈ませはしないわ……力を貸してもらうわよ、オールドレディ」
「はにゃ?」
涙目で、少女は振り向いた。
鍵屋智子が、そこに立っていた。解体されゆくウォースパイトを一瞥し、言う。
「貴女がこの艦の付喪神なのは知っている。けれど用済みの兵器に執着しても意味はないわよ? 最新型の事象艇を1隻、用意したわ……貴女の、新しい艦よ」
「い、いきなりそんな事言われても……」
「説明している時間はないのよ、ウォースパイト・白夜ー雪」
智子がじっと、金髪少女の青い瞳を覗き込んだ。
「お願い、一緒に来てちょうだい……藤田あやこを、助けるためにも」
幼い娘が、あやこの膝の上から、すっくと立ち上がった。
「ママ……わたし、いかなきゃ」
「え……?」
あやこは呆然とした。
この子は、何を言っているのか。どこへ行こうと言うのか。
疑問に答えてくれる事もなく、娘は微笑み、すぅっ……と宙に浮かび上がった。
「ごめんね、ありがとう……さようなら」
「ち、ちょっと……」
娘の姿が、消えてゆく。
ピアノソロの調べが、物悲しく流れ響く。
別れの曲だった。
それを奏でながら夫が、娘と同じ微笑みをあやこに向けながら、消えていった。
夫も娘も、いなくなってしまった。
代わりに鍵屋智子が、そこに立っている。
「貴女の娘さんが自分から去ってくれたおかげで、細菌の増殖は止まったわ……」
智子の説明など、あやこは聞いてなどいなかった。
「けれど、細菌まみれになったこの船を残しておくわけにもいかない。データの引き継ぎが終わり次第、結局は自爆させる事になるわね」
「その……データの引き継ぎ、終わりました」
もう1人、少女が姿を現した。小柄な、欧米人の美少女だ。
「この艦に保存されていた有機情報も、南極サーバーから引き上げたデータも全部、私が引き継ぎました。これでワクチンは作れますし、電史人の皆さんも助かります」
「……雪……ちゃん……?」
声を震わせるあやこに対し、金髪の少女……ウォースパイト・白夜ー雪は、少し悲しそうに微笑んだ。
「ごめんね。無理矢理なデータ移植をやらかしたせいで……いくつか、消えちゃったデータもあるんだ」
返して、とあやこは叫びそうになった。あたしの夫を、執事を、返してよ。
彼が所詮、エアリアル装置が作り出した幻でしかないという事。あやことて、最初から理解はしていたのだ。
最初から存在しなかったものを、返してもらう事など出来るわけがない。
あやこは、ただ泣くしかなかった。雪が、頭を撫でてくれる。
「まだ終わったわけではないのよ? アシッドクランの細菌兵器に攻められている地球を、救わなければ」
智子が、厳しい声を出した。
「泣くのは、その後にしなさい。藤田……艦長」
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