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<東京怪談ノベル(シングル)>


処刑人の休日


 造成地を、そのまま買い取った。
 赤土や岩が剥き出しとなった広大な荒れ地が、何の開発予定もないまま水嶋家の、と言うより水嶋琴美個人の、私有地となっているのだ。
 崖の上に今、琴美は立っている。
 その身を包むのは、黒い武道着である。
 すらりと伸びた両の美脚は袴に包まれ、力強いほどに豊麗な胸は、晒を巻かれた挙げ句に道着の中へと閉じ込められている。
 その道着を黒帯で締めた姿のまま、琴美は崖の上で強風に身を晒した。豊かな黒髪は、今はポニーテールの形に束ねられ、風に揺れている。
 琴美がこの土地を買ったのは、この崖が気に入ったからである。
 受け身の練習をするのに、ちょうど良い崖なのだ。
 普通に飛び降り自殺が出来る高さから、じっと崖下を見下ろしながら、琴美は右手の人差し指と中指を眼前で立てた。刀印。それを真横に振るい、空中に直線を引く。
「……臨!」
 端麗な唇から、気合いが迸る。
「兵!」
 刀印が、まっすぐに振り下ろされる。
「闘! 者! 皆! 陣!」
 凛とした気合いの声に合わせ、鋭利な刀印が縦横に直線を引き続ける。
「裂! 在! 前!」
 横5本、縦4本の直線から成る格子模様を描ききったところで、琴美は跳躍し、崖から身を投げた。
 厄除けの祈願を込めて、九字を切った。
 いかに鍛錬を積んで戦闘能力を高めたところで、人間の力などたかが知れている。ゆえに神仏を敬い、加護を求める心を、決して忘れてはならない。
 無論、加護を求める前に、人の身として最善を尽くす事を怠ってもならない。
 水嶋家に、戦国の忍びの頃から代々伝わる教えである。
 崖の壁面に、琴美の肩が激突した。背中が激突した。尻が、足が、激突した。
 身を丸めて後頭部を守りながら、衝撃を全身各所に分散させる。
 そうしながら、琴美は崖を転がり落ちて行った。
 頭部さえ守れば、それと衝撃を上手く分散させれば、深刻な怪我を負う事はない。
 無傷で崖を転げ落ちる事が出来れば、大抵の動きは出来るようになる。
 崖下の地面で、琴美は猫の如く一転し、起き上がった。
「ふう……」
 道着にこびりついた土の汚れを払い落としつつ、息をつく。
「駄目ですわね、ただ転がり落ちるだけになってしまっては……もっと、過酷な状況を想定しなければ」


 休日だからこそ、本部のトレーニングジムや武道練成場では出来ない鍛錬を行うべきだと琴美は思っている。
 鍛錬の汗を洗い流した後は、遊び呆けてみるのも良い。休日なのだから。
 造成地のすぐ近くに広がっているのは、都道府県の分類として一応は東京に含まれる、鄙びた市街地である。大金を使って遊び呆けるような場所のある町ではないが、それも良い。
 ただ歩くだけで、のどかな気分になれる町だった。
 住宅と住宅の間に、畑がある。畑の近くに、コンビニエンスストアが建っていたりもする。
 そんな街並の中を、琴美はのんびりと歩いていた。
 歩調に合わせて軽やかに躍動する両の美脚に、黒のシフォンプリーツスカートがサラリとまとわりつく。
 その身を覆う薄手のダブルブレスト・ブラウスには、しなやかな身体のラインと白のタンクトップが、微かに透けて見えている。
 昔から、プリーツスカートがお気に入りだった。特に理由はない。感覚的な好みである。
 猫が1匹、足元を横切って行った。可愛い盛りはとうの昔に過ぎ去り、図々しいほど丸々と肥え太っている。
「ふふっ……車に轢かれないよう、お気をつけなさいな」
 琴美は微笑み、声をかけた。
 車を運転している時、目の前を犬や猫が横切ったら、躊躇わずに轢き殺すのが交通ルールである。うっかり急停止でもしようものなら、大事故になりかねないからだ。
 人間社会というものは、動物のためには作られていない。
 そんな人間社会を守るのが、琴美の仕事である。
 鄙びた街並を、琴美はちらりと見回してみた。
 道端にも、塀の上にも、猫がいる。
 猫の多い場所は、人間にとっても居心地が良い。そんな話を、琴美は聞いた事があった。
「貴方たちは、わざわざ守って差し上げなくとも……自力で、したたかに生き抜いてゆけそうですわね」
 猫たちに話しかけてみながら、琴美は思う。
 守るのに手間がかかるのは、やはり人間という生き物の方である、と。
 何しろ人間を危機に陥れ、助けたり守ったりしてやらなければならない原因を作り出しているのは、他ならぬ人間自身である事が圧倒的に多い。琴美のこれまでの仕事は、ほぼ全てそうである。
 自衛隊内から流出してしまった、人体強化用ナノテクノロジー。それもまた、人間自身が作り出した災いである。
 流出させてしまった裏切り者がいる。特務統合機動課の司令官は、そう言っていた。
「人間社会を守る……などと、思い上がるつもりはありませんわ」
 猫が1匹、足元に寄って来た。
 身を屈め、頭を撫でながら、琴美はニヤリと不敵に、優雅に、微笑んだ。
「私はただ、裏切り者を処刑するだけ……」