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花巡幻想譚
繰り返し見る夢の中で微笑む彼の人は
優しく、儚い……残酷な花のような人でした――
硝子越しの日光が柔らかく室内に入り込む。薄曇りの空の向うで、陽は少しばかり西へと傾きかけていた。
図書館の児童書コーナーは平日の午後という事もあってか、子供達の姿はない。可愛らしい内装が施された室内には、静かな時が流れている。その一角にある絵本の棚から、海若蒼生は1冊の絵本を引き出した。
何度も何度も1人で読んで、すっかり見慣れてしまった絵本の、少し古ぼけた表紙絵を眺める。赤鬼と青鬼、2匹の鬼が描かれたそれ。鬼達の物語。本を開かずとも、話の内容は暗記してしまっている。だが、それを思い出す度に、彼の胸には鈍い痛みと苦さが広がるのだ。
本を持ったまま、蒼生は瞼を閉じた。決して忘れる事の出来ない光景を思い出す。それは昔から繰り返し見る夢であり、彼の前世の記憶でもある。赤髪の鬼が自分の為に身を投げ打つ。それを見ている事しか出来なかった青鬼の自分。涙を流す自分を困ったような笑みを浮かべてみていた金色の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。
最近、その夢を頻繁に見ている。原因は分からない。何かが自分の周りで起きるような、予感めいたものも感じる気がする。図書館に足を運んだのは、そんな気持ちを少しでも紛らわせる為だった。だが、実際は件の絵本を手にし、気分は余計落着かず、ぐるぐると思考が渦を巻いている。こんな事ではいけない。軽く頭を振って、蒼生は目を開けた。もう1度、絵本の表紙へと目を落した時、視界の端に飛び込んできた物がある。下から自分を見上げる大きな目。琥珀色のそれに、どきりと胸が鳴る。それは脳裏に焼き付いている赤鬼の目と、よく似た光を宿していた。
はっとして顔を向ければ、彼を見上げていた少女と目があった。
「おにぃさん、どこか具合でも悪いん?」
思わず息を飲んだ蒼生に、金の目の少女が小首を傾げて問いかける。年頃は中学生位だろうか。小柄な彼女は、蒼生と目を合わそうとすると自然と見上げる形になってしまうようだった。
「い、いや、別に……。」
「そぉ?なら、えぇけど。何か目ぇ瞑ったまま動かへんし、どないしたんやろ思てたんよ。」
安心したように微笑んだ少女の目が、児童書コーナーの壁に貼られたポスターへと向けられた。釣られて、蒼生も視線を向ける。それは、この図書館の近所で行われる桜祭のものだった。
「今日は桜祭の日やったねぇ。朱、楽しみにしとるんよ。夜桜、綺麗やもん。」
独り言のように呟いて、少女はゆっくりと歩きだす。
「お、おい……っ!」
呼びとめようと、咄嗟に出た言葉は予想よりも大きな声だった。しまった、と顔を顰める蒼生の様子を振りかえって見た彼女は、唇に指を当てて悪戯っぽく笑った。
「図書館ではお静かに、やよ?」
その笑みと仕草に目を奪われ、暫し蒼生の時が止まる。そして、彼が我に返った時には既に、少女の姿はなく。ガランとした児童書コーナーに彼1人だけが残されていた。
ふと窓の外に目を向ければ、そこには風に揺れる満開の桜が見える。
「桜祭、か……。」
揺れる桜をぼんやりと見ながら、蒼生は呟いた。
春風に道沿いの提灯が揺れる。宵闇に浮かび上がる満開の桜が天蓋のように頭上に広がり、時折ひらりと白い花弁を散らす。ほんのりと甘い香りを含んだ夜気を吸い込んで、蒼生は祭りの人波へと視線を巡らせた。
桜祭りの会場である神社と参道は、彼が予想していた以上に人で溢れていた。人の多さにうんざりしながら、海生は桜の下を人波を掻きわけるように歩いていく。しかし、彼の目に満開の桜はない。昼間、図書館で会った少女。朱、という名なのだろう、その娘を海生は探していた。
もう1度、あの子に会いたい。
そして確かめたい。
その想いが彼を桜祭りへと向かわせたのだ。無論、これが分の悪い賭けだという事は彼にも分かっている。こんな人混みの中で、あの子を探せるのか。不安も胸の片隅にある。
それでも。
やっと見つけたかもしれない、赤鬼に繋がる手掛かりなのだ。
ぎゅっと拳を握りしめる。
人波に押し流されながら、もう1度視線を巡らせると、参道の端に人の流れていない場所がある事に気付いた。傍を通る人も、視線を外し早足で通り過ぎて行く。何だろうと足を止めて眺めると、蒼生にもその理由が分かった。見るからにチンピラ風の若者が数人、誰かに絡んでいるようなのだ。下手に関わらない方がいい。そう判断して、歩き出そうとした時だった。
「おにぃさん達、困ってはるんやねぇ。朱のお金で良ければ、使ぅて?」
おっとりとした調子で聞こえてきた声に振り返る。そこには、ニヤニヤと悪い笑いを浮かべているチンピラに財布を渡そうとしている、あの子の姿があった。
何してるんだ、あいつ……!
御人好し過ぎる言動に、慌てて人混みを掻きわけた彼は少女の後ろに立って声をかけた。
「おい。お前ら、何してる。」
腹の底から低い声を出し、チンピラを睨みつける。
「祭りの会場で、そんな真似してタダで済むとでも思ってるのか?さっき、警備の人が走って行ったようだし、警察でも呼ばれてるかもな?」
カモにした少女との会話に割り込んできた蒼生を保護者だと思ったからなのか、それとも彼のハッタリを信じた為なのか、チンピラ達は舌打ちを残して踵を返すと、雑踏の中へと紛れていった。
「あ……!おにぃさん達、お金」
「大丈夫か、お前。」
去っていくチンピラを呼びとめようとする朱の言葉を蒼生はわざと遮った。何を考えてるんだと苛立つ気持ちが声色に滲み出る。それに驚いたのか、彼の方を振り返った朱は、一瞬目を見張り、それから花が綻ぶように微笑んだ。
「おにぃさん、図書館におった人やないの。桜祭、見物しにきたん?」
「まぁ、そんな所だ。」
流石に、『お前を探しにきたんだ』とは言えず、蒼生は視線を反らせ、ぶっきらぼうに返して逆に問うた。
「お前は、なんだ……その、楽しみにしてたとか言ってたくせに、1人で来たのか?」
「今年はねぇ、1人になってしもたんよ。お友達、みんなカレシと行くから言うて。朱、カレシさん居らへんから。」
「はっ、ガキの癖に生意気な。なにがカレシ、だよ。それで1人で来て、柄悪い連中に絡まれてたら世話ないな」
「絡まれてた?朱が?」
吐かれた悪態よりも、絡まれていたという言葉に驚いたのか、朱はキョトンとした顔で首を傾げる。自覚がなかったのかと呆れつつ、蒼生は乱暴に頭を掻いた。
「さっきのチンピラ。金をせびられてたんだろ?」
「ややわぁ、絡まれてへんよ。あのおにぃさん達、お財布失くした言うて困ってはったんよ。せやから、朱のお金貸したげよ、思て。」
朱の言葉に先程のチンピラの様子を思い返す。蒼生の目から見ると、彼らの態度は困っている人のそれではなく、カモから金をせびり取ろうとする悪人のそれだったのだが、朱はそう感じていなかったらしい。
「あのなぁ……。お前、そんな風だと、また同じような連中に絡まれるぞ。もう少し、しっかりとだな……」
「おにぃさん、心配してくれはるん?けど、朱、しっかりしとるよ。お母さんも、朱はしっかりしとるなぁって言うてくれるもん。」
自信たっぷりに胸を張ってみせる朱に、より一層の不安を募らせて蒼生は溜息をついた。この少女を1人で放り出す気になれない。否、放り出せるわけがない。
「……あー……なんだ、お前1人だと心配だから、俺も一緒に行ってやる。」
「え?」
「ここでお前を放りだして、さっきみたいな事があると後味悪いし。保護者の代わりだと思っとけ。」
「それって、えと。」
蒼生の言葉に戸惑ったように、彼女は言い淀む。だが、すぐに明るく切り返した。
「おにぃさんが、朱と一緒にお祭り回ってくれるいう事?」
嬉しいわぁ。そう言って、朱は金色の目を細めて笑った。
海生は疲れていた。
何に、と問われれば、朱の行動の全てに、と答える程に。同行を申し出たまでは良かったが、朱は困っている人を見かけると放置できない性質であるようだった。その為、目に映るあらゆる困っている人を助けようとし。そして、その都度、蒼生は彼女の行動に突っ込みを入れる羽目となり、現在に至っている。
だが、代わりに、朱という少女が探し人ではないかと想いは彼の中で確信めいた物となっていた。
「大丈夫?おにぃさん、凄く疲れた顔してはるよ?」
疲れたから休もうと入り込んだ神社の裏手でへたり込んだ蒼生の顔を、朱が覗きこんだ。気遣う色を湛えた金の目が彼を見上げている。
「お前は元気だな。」
「朱、こぉ見えても体力あるんよ。何時もお手伝いとかしてはるし。おにぃさんも、体力つけなあかんよ。」
屈託なく笑う朱と反対に、どうせ体力ねぇよとぶつくさ呟く蒼生。そんな2人の間を冷たい夜風が吹き抜ける。歩き疲れて火照った頬には、その冷たさが心地良かった。暫しの沈黙。会話の途切れた空間に、ざわりと木の枝が揺れる音だけが降ってくる。
「なぁ……。」
沈黙を破ったのは蒼生だった。
「こういう事を言うと驚くかもしれないが、俺は……お前の事をずっと探していたんだ。」
意を決したように、でも、はっきりと口にするのは憚られるのか、彼は小声で絞りだすように言葉を紡ぐ。紡がれた声は緊張の為か、酷く硬かった。
「桜祭で、朱の事、探してくれたいうこと?」
「違う。」
確かに探していた。でも、違う。
「今日や昨日の話じゃなくて、もっと昔から俺は……」
ゆっくりと言葉を選ぶようにして、夢に見る光景を話し出す。あの、赤鬼と青鬼の物語を。
始めは呟くようだった言葉は、抑えきれない気持ちと共に、次から次へと怒涛のように口から溢れ出ていた。
「俺は、どうしてもお前に会わないといけなかったんだ。」
だが、朱は困ったように微笑んで彼を見つめた。
「そう言われても、朱、自分が赤鬼やなんて思われへんの。夢の話もよう分からんし……。そないに悩んではるんやったら、思い詰めんと、占い師の人にでも見て貰うたら?少しは楽ぅなる思うんよ。」
そう言われて、蒼生の身体からガクリと力が抜ける。相手に記憶がないという事態も考えなかったわけではない。だが、はっきりと言われてしまうと、堪えるものがあった。きっと自分は今、酷く情けない顔をしているだろう、と思う。しかし、やっと捕まえた恩人の手掛かりを諦められる訳がないではないか。
「お前が覚えていなくても、それでも。俺は借りを返さなきゃならないんだ。」
気力を振り絞って、気持ちを言葉に変える。
「だから――」
ダカラ。
「ケータイ、教えて。」
ドウカ、ツナガリヲ タトウトシナイデ――。
祈るような気持ちで見つめた金の目が笑う。柔らかな光を浮かべて、花のように優しく、ふわり。
「ケータイ?えぇよ。おにぃさん、朱とお友達になってくれはるん?嬉しいわぁ。」
携帯電話の番号の交換を済ませ、お互いにプロフィール等を確認していると、朱がそういえば……と思いだしたように言った。
「一緒にお祭り回ったのに、朱達、自己紹介してなかったねぇ。朱は、鬼ヶ瀬 朱、言うんよ。朱て呼んで?おにぃさんは、海生クン、でえぇ?」
「お、おぅ。好きに呼んでいい。」
まるで学生に戻ったかのような呼び名にくすぐったさを覚え、蒼生は短くそう返すのが精一杯だった。
その様子がおかしかったのか、くすくすと笑いながら、朱が立ち上がる。
「そろそろ、帰ろ?」
帰り道、参道の桜並木を通りながら、2人は無言で肩を並べて歩いた。先程よりも、ずっと人の少なくなった道に桜がはらはらと舞い落ちる。参道の終わり、道が左右に分かれる所で朱は足を止め、蒼生を見上げた。
「今日はありがとぉ。海生クン、また、会ぉな?」
「あぁ、またな。」
ぶっきらぼうな海生の言葉に素直に頷いて、彼女は手を振ると踵を返した。去っていく背中を見送って、蒼生も反対の方向へと歩き出す。が、その足はすぐに止まった。
まだ、彼女の姿は見えるだろうか?
あの子は幻のように消えてしまってはいないだろうか?
そんな不安に駆られて、後ろを振り返ったそこには桜吹雪の中をゆっくりと歩いていく小柄な少女の後姿。
安堵の息をつく海生の前で、桜を絡ませた長い髪が、一瞬だけ赤く……ゆらりと色を変じてみせた――。
■終■
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